藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

高瀬川(現 菊池川)

宮中御神楽(みかぐら)の源流が海人族の歌にあることは疑いようがなく、
中でも《薦枕(こもまくら)》のことは何度も書いてきました。
歌い出しが「薦枕高瀬の淀にや〜」で、高瀬川のある場所は
海人族の重要な拠点の一つであったに違いないと考えています。
 
薦枕はまた、宇佐八幡御神体でもあります。
宇佐神宮の元宮とされる大分八幡宮(福岡県飯塚市)
薦神社(大分県中津市)金富神社(福岡県築上郡築上町)のうち
大貞八幡宮とも称される薦神社の由緒にこうあります。
 
御神体とされる三角池(みすみいけ=御澄池)を内宮(ないくう)
社殿を外宮(げくう)と仰ぐ八幡大菩薩(八幡神)ゆかりの地です。
隼人征伐の際、戦地に赴いた八幡神依代(よりしろ)とされた後、
宇佐神宮の三つの神殿における御神体とされた薦枕の材料
「真薦(まこも)」の茂る霊地です。
そのことから宇佐神宮の祖宮(おやみや)とも称されています。
 
九州の東部沿岸地域には薦枕に関わる薦神社宇佐神宮、そして
祭礼のあと御神体を海に流す奈多宮(なたぐう)があります。
 
薦枕は隼人制圧後も八幡神の御験(みしるし)として用いられています。
その薦枕造替にかかわる一連の神事が、宇佐宮行幸(ぎやうかうゑ)です。
薦枕は現在、6年毎に薦神社の三角池のマコモを刈って新しく造り替えられます。
天平神護元年(765)10月8日の神託では4年に1度でしたが、
弘仁2年(811)以降、6年に1度(卯と酉の年)に改められました。
 
そんな海人族の拠点が九州西部の沿岸にあってもよさそう…?
と思っていたので、『日本書紀』景行紀の「玉杵名邑(たまきなのむら)
その地の土蜘蛛たる津頰(つつら)を殺した」の記述がひっかかりました。
先住民の首長を征討するために皇軍が入港したのが菊池川…?
 
現在の地図を見ると、西南の役繁根木川を境にして繁根木(はねぎ)八幡宮
立てこもる官軍の大部隊と対峙し、激戦の末、銃弾を胸に受けて31歳で戦死した
西郷隆盛の末弟 小兵衛が陣頭指揮をとったとされる永徳寺堤防の北東に
高瀬船着場跡があったので、高瀬川への期待が高まりました。
そして江戸時代に作られた下の図に、新旧の「高瀬川河口」があったのです!
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唐人川」の名の由来は、永禄年間(1558-70)に渡支の記念碑が建てられ、
郡内の古寺に渡支および帰化の僧侶が多く住んでいたことによるのだとか。
現在の名「菊池川」の表記は見えず、「高瀬川」のルートを替えたこと、
度重なる干拓事業で小島が陸続きになったことが一目でわかります。
 
なお、地図の中央付近に「伊倉城」「伊倉」の書き込みがあり、
脚注に「伊倉丹倍津多分(にへ)訛」と付記されていました。
この「」も《薦枕》の歌詞と重なります。
高瀬の淀にや」に続くのが「たか人ぞ」で、
神に捧げる(魚など)で包むと枕のような形になりますよね?
この丹倍津高瀬津は海外交易の二大拠点として重視されていました。
 
さて、画像左上の(小島ではない)当時の陸地の突端に繁根木八幡宮の名が見えます。
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これはずいぶんと神仏習合色の濃い建造物ですね。
中世には高瀬五ケ寺の一つ天台宗壽福寺の支配下にあり、
社の北側が旧寺址とのことで、どんどん奥へ進みました。
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え? よもやこの地で「補陀落渡海」が行なわれていたとは?!
玉名市役所のHPにはこうありました。
永禄11年(1569)、当時東洋で仏教の霊地として繁栄した補陀落山に渡海する際に、
弘円上人を先達とし、駿河住善心、遠江道円両行人が観音信仰のために
肥後国高瀬に下り、船出の大願成就を祈り建立したものです。
すると、さっきの「唐人川(渡支および帰化の僧侶が多く住んでいた)ともつながりますね。
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通り過ぎた本殿裏の社叢へ戻ると、ここをおさえるために
繁根木八幡宮が創建されたのかも? との妄想に囚われました。
会津磐梯山の近くや常陸国で見た少し小高く広大な蜘蛛塚が、
ちょうどここと同じような形状だったからです。
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当社は応和元年(961)に紀隆村が石清水八幡宮を勧請したものだそうです。
よって社殿奥の社叢(当社は"古墳"と言い、私は"蜘蛛塚"と感じている)
繁根木八幡宮には何の関係もないわけです。
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演奏修行していたら、アオスジアゲハが飛んできました。
玉名市での滞在時間は僅か1時間でしたが、さまざまなヒントを得られました。
 
江戸時代を通じて商業や河川交通の中心だった高瀬には
慶応4年(=明治元年/1868)年7月29日に高瀬藩が誕生し、
明治2年2月に版籍奉還により廃止。
高瀬藩の前身は寛文6年(1666)肥後藩5代目の細川綱利の弟 利重が
3万5千石の内分を受けて江戸に創設した支藩「新田藩」でした。
 
ところで、社紋というのは藩主の家紋を使う場合もありますが、
繁根木八幡宮の橘紋はどこからきたのでしょう?
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橘紋は必ずしも橘氏の専用紋ではないとのことです。
かつて当地を支配した菊池(高瀬)氏は阿蘇神社宮司家と同じ鷹の羽紋でした。
ということで、石清水八幡宮の紋を調べてみました。
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あああ…やっとスッキリ!! 葉の角度が違うだけで橘紋でした。
 
今日最初に行ったのは阿蘇神社や菊池氏と同じ鷹の羽紋をもつ玉名大神宮でした。
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景行天皇が当地の土蜘蛛を率いる津頬を討つ際、協力したのが玉名大神宮でした。
社伝によれば、天皇軍による土蜘蛛の討伐に地元勢力の中尾玉守が味方し、
その功績で玉名大神宮宮司になったということです。
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境内は狭く、蜘蛛窟があるようにも見えなかったので素通りしました。
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次に向かったのは、津頬を征伐したのち朝廷から玉名を任された玉名地方の豪族
日置(へき)氏の氏神とされる(ひき)野神社です。
日置氏は製鉄と須恵器を生産する高句麗系渡来人の末裔とされ、
疋野神社の祭神は『古事記』に記載のある波比岐(はひき)神。
ここから「疋野長者伝説」が生まれ、小岱山(せうたいさん)の中腹から山麓にかけて
約30ヶ所の製鉄遺跡が見つかったことと関連づけられているようです。
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さすがに商売繁盛…というか、ふだん無住の神社へ行くことが多いので
正式参拝の方がおられたことに驚きました。
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ユーモア精神もおありのようで…。
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一の鳥居からズズッと上った高台にある疋野神社は、
木の高さや立地から遷座していないように感じました。
あとは小岱山ですね。
天皇軍が古代都市高瀬を攻めた要因として製鉄はあまりに重要です。
 
さて、吉備国における桃太郎の鬼退治でもわかるように、
古代タタラ製鉄に関わる人々は"鬼"と呼ばれることがありました。
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ふだん社殿の画像は正面から撮った1枚くらいしかないのですけれど、
なぜか繁根木八幡宮の本殿を横から撮っていました。
これは…"鬼"?
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私の画像では"鬼"かどうかわからないため、お借りしてきました。
"蜘蛛塚"とは無縁のはずの繁根木八幡宮になぜ"鬼"が?
 
地元の伝承では、景行天皇に討たれた津頰の子孫は津々浦氏として
この地に残ったとされているそうです。
津々浦姓は全国に約100人、その半数が玉名周辺に居住しているのは
小岱山を構成する複数の山々のうち筒ヶ岳と関係があったからだとか。
小岱山の「疋野長者伝説」ですが、そもそも日置氏は津頬征伐後に
この地を任されたため、"ツツラ"と"ツツガタケ"に関連があるとしたら
日置氏以前から小岱山で製鉄が行なわれていたことになります。
津頬が率いたのは古代タタラ製鉄に従事した民="鬼"だったのでしょう。
 
今日は午後一番の羽田行きに乗らねばならず、
下見だけになってしまったことは残念でしたが、
高瀬川菊池川に変わる以前、少なくとも明治までは
高瀬の名称が重要だったことを実感でき、満足しました。