武田八幡神社HPには
「伝えによれば、武田の地に日本武尊の王子武田王が封ぜられ、
その館の跡を桜の御所と名づけたといわれます」
「武田王がなくなられて、御所に祠(ほこら)をたて武田武大神として
あがめ祀られるようになり、王のなきがらは手厚く鰐(わに)塚に葬った
と伝えられています」とあります。
その武田王ですが、『記・紀』には出てきません。
(720年までは存在せず、822年までに創作された?)
『ホツマツタヱ』では宮簀媛(美夜受比売)の子とされています。
すると、
同時に九州宇佐宮を合祀し創建された古社ということになります」
との社伝は、ワニ氏の居住区にあった「わに塚」を
「武田王の祠廟」と名づけて現在の武田八幡神社の場所で祭祀することにし、
宇佐八幡神を勧請せよとの朝廷の意向に従った可能性を示唆しているのでは?
神祠を構えたのを武田八幡宮の起源としているそうです。
この二つの話の根っこは一つだったのかもしれませんね。
以下に「わに塚の桜」の説明を引用させていただきます。
推定樹齢約330年、幹周り3.6m、樹高17mの見事なエドヒガンザクラの
一本桜が花を咲かせる「わに塚」。
名前の由来には、日本武尊の子 武田王の墓という説、
王仁(ワニ)氏の居住区という説など、諸説あります。
晴れた日には富士山とともに八ヶ岳が見られることもあるそうです。
今日、こんな富士山が見えたらいいなぁ…。
どうやったら↑こんな写真が撮れるのでしょう⁉
今日、私のデジカメで撮った唯一の写真が、この「わに塚」でした!?
タクシーを降りてカメラの電源を入れたらディスプレイが真っ暗‼
過去の写真も見られませんし、撮影することも出来ません。
ただ、試しに1枚撮ったら写っていたということです(トホホ…)。
代わりのデジカメを買おうと、先週「お舟石古墳」を撮りに行った
ラザウォーク甲斐双葉まで足をのばしましたが、
巨きなショッピングセンターなのに電機店は入っていないし
カメラは扱っていないと言われてしまいました。
やむなく、iPadで撮っています。
古墳ということで、古代歌謡を演奏してみました。
すると、以前常陸国の塚で演奏した時のように
古墳の小高い頂にヤマドリが出現し、私の目の前を右方向へ歩いて下りました。
コトを弾いてなければ撮影できたのに、演奏後は姿が見えず、残念…。
いざ、「わに塚」から約700m離れた武田八幡神社へ。
立派な総門ですねえ…。
総門はくぐれないため、左右から階段を上ります。
立派な舞殿。
そして拝殿・本殿への階段です。
絶対に拝殿まで行ってないってわかります?
私の場合、由緒と地形を知りたいだけで、何度も建て替えられた
社殿には興味がないのです。境内図も見ましたし。
また、神楽歌よりも歴史の浅い神社に興味のない私は、これまで
それが友人からのメールを読んで、甲斐武田氏が創建した神社と
以前からあった武田八幡神社を同一視していたとわかり猛省中。
(前週と同じコマ郡縦断の旅なんて、ムダが多すぎますよね…)
富士山が見えるかと御崎公園の御崎神社へ上がってみましたが…。
今や御崎神社は石祠に…。
豊川稲荷系でしょうか?
雲が多いとはいえ、昨日も今日も雨の予報だったのに降られず、
曇り時々晴れなのですから良しとせねばなりませんね。
しかし今日の運転手さん、道が狭いとはいえ、
築山の生活道路を走っているだけでチッチッと何度も舌打ちをされます。
困りましたね…今日はこれから櫛形山(2,052m)へ登らなくてはならないのに…。
この三大王子神社までが築山の旧街道といった風情でした。
いよいよ櫛形山への道に入りますが、中腹の穂見神社まで17分と出ました。
ところが、調子よく走っていたら、直進すべき道が封鎖されていました‼
あまりのことに画像も撮らず市役所へ電話。
「倒木で閉鎖されている道がありますが、行ける道もありますので
確認して折り返します」と仰って頂いたものの、地図上では県民の森から
行く道しかなかったため「進んで下さい」と運転手さんにお願いしました。
すると、「こんな狭い道、走りたくない」と仰います⁉
「この道は県民の森公園線ですよ。走れないような悪路ではないと思います」
と申し上げると、渋々走り出しました。
この時、私は既に穂見神社行きを諦めています。
地図上で神社周辺の道が極めて細かったためです。
県民の森の手前で「左折して南へ進んで下さい」とお願いすると、
「倒木があったら引き返すこともできませんよ」と拒否されました。
「県民の森から次の集落まではこの道しかありません。
生活道路ですから、倒木があれば即処理されると思いますよ」
と言うと渋々走り始めたものの、いつキレることやらとドキドキ…⁉
ほどなく氷室神社(標高1,000m)への入り口に到着!
「鳥居の右手に本殿まで上がれる道があるので登って下さい」
「勘弁して下さいよ。悪い予感がする! 絶対に嫌です」
これ以上お願いしてもムダなので、石が埋め込まれた土が泥濘んで
一足ごとに着地点がグラグラ動く状態の、危ない階段を上がることに。
急勾配の参道なので汗は出ますが、空気はとても清澄です!
何気に、左の石灯籠の足元に「100段」の記載が⁉
ここから次の段階に入ります。
来た道を振り返っても、階段は見えません…。
右手を見ると、下からの舗装路。特に悪路とは思えませんが?
やっと赤い鳥居まで来ました。
まだまだ社殿が点のようにしか見えません…。
階段の先の真ん中あたりが社殿ですね。
緑は深いし、空気はきれいだし、鳥はたくさん鳴いているし、
ここで演奏修行させて頂きましょう。
(この判断は正しかったようです。帰宅後、富士川町HPで確認したら石段は全部で575段!?)
歪で苔むした階段を下りるのは、上りの何倍も大変でした。
その上、かなり南まで来てしまったので、甲府駅まで50分と出ました。
この時点で気温は29℃。
15kg超の和琴ケースを背負って階段の上り下りをした私は汗ダクです。
でもタクシーの冷房はずっと切られたまま。
ここまでは我慢して乗っていましたが、もう限界です。
「すみません、なぜ冷房をつけないのですか?」
「暑いですか? それならつけます」
…………!?
七十代ともなれば、仙人のごとく、暑さ寒さに強くなるのでしょうか?
私も早くその境地に達したいものです。
甲府駅までの道すがら、2ヶ所ほど見たい古墳がありましたが、
道が狭いのでまた文句を言われると思い、断念…。
昨日今日のタクシー事情では、もう再訪したいとは思いませんね。
天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命に由来すると思ったからで、
櫛形山の東麓には物見塚古墳が存在しているのですけれど…。
未熟な私は、甲府駅に着いたとたん、ここへ直行。
コーンが食べられないので、紙コップに入れて貰いました‼
やっと平常心を取り戻せたので、私の妄想的(?!)まとめを書きます。
859年創建の京都石清水八幡宮を勧請合祀しました。
なぜ自社よりも新しい神社から祭神を勧請したのかと考えると、
建造物があり、それらは天文10年(1541)12月23日に完成しています。
そうした建造物や広大な境内の整備などを手掛けたのが
甲斐源氏は
新羅三郎義光(1045-1127)抜きには語れません。
実際に甲州の神社の社伝にも頻繁に登場します。
兄が源 義家(八幡太郎)、源 義綱(賀茂次郎)、
三男の源 義光が新羅(しんら)三郎と称したのは
長男の義業が「佐竹」氏の祖となって所領を継ぎました。
次男 実光は「石井」氏の祖。三男が義清(1075-1149)です。
これだけでは「わに塚」が置き去りになってしまいます。
「わに塚」がヤマト王権以前に当地を治めていた氏族に関係しているとしたら
その発音からワニ(和爾・和珥・丸・丸邇・王仁 etc.)氏を想起するでしょう。
五代孝昭天皇の皇子 天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)を祖とする
ワニ氏は、5,6世紀代の大王(天皇)家と姻戚関係を結んだ大和の有力豪族です。
『記・紀』によれば、
綏靖・孝霊・開化・応神・反正・雄略・仁賢・武烈・安閑・欽明・敏達の
各天皇の后妃がワニ氏系出身の女性で、
数の上では葛城氏や蘇我氏よりも多くの后妃を出しています。
反正天皇と夫人 津野媛(つのひめ/大宅臣の祖和珥木事の娘)の子で
ワニ氏絡みだからではないかと私は妄想しています。
養老2年(718)創建と伝わる宇波刀神社(韮崎市円野町下円井字宇波刀2101)へ
先月の6/2に行くと、案内板の"由緒並沿革"に
諏訪明神を勧請し守護神として崇め奉った」とありました。
ワニ氏の本貫は天理市和爾町の櫟本(いちのもと)町付近で、和爾下神社や
紀年銘をもつ鉄刀が出た東大寺山古墳も含みます。
ワニ氏は、春日氏を称する一族を筆頭に、大宅(おほやけ)・粟田(あはた)・
小野・柿本(かきのもと)などの諸氏に分かれています。
それで私は一時期、各地の人丸神社をまわっていました。
柿本人麻呂が「人丸」になるのは、ワニが丸・丸邇とも書かれたためです。
単に柿本人麻呂が祭神というわけではなく、ワニ氏の祖神を祀り、
その勢力範囲を示した可能性があるのではないかと考えていました。
ワニ氏は古代における超エリート集団だったと言えそうです。
先月6/15、私は甲州で小野氏の足跡に出合いました。
文徳天皇時代 仁壽元年(851) 甲斐守 小野貞守の祈願に依り社頭を造営し
康和年中(1099-1104) 新羅三郎義光再建し 其後武田家代々社頭を修造す。
信越へ往来の都度武運を祈願せりと云ふ。
まだ武蔵国一宮たる小野神社へは行っていませんが、
信濃国二宮が鎮座する小野盆地には「小野牧」があり、
「阿久原牧」「小野牧」が増設されたとあります。
4世紀後半の馬の歯などが出土している信州や甲州では
朝廷が勅旨牧=御牧を設置する前から馬を飼育していた歴史がありました。
「わに塚」を知って、この地にワニ氏が居住していたのだとしたら、
小野氏が甲斐の「柏前牧」や諏訪湖に近い「小野牧」といった御牧に
足跡を残したことの説明がつきそう…と思った次第。