フィリピンにて特攻が敢行されたのは約三ヶ月間。
その土地に誰が「神風特攻隊慰霊碑」を建てたのか?
日本でのうのうと生きてきた私には想像もつきません。
「フィリピンサイドが主催する特攻隊の慰霊祭で演奏してくれませんか?」
思いがけないお誘いに衝撃を受けました。
神風特別攻撃隊にまつわる楽曲を演奏し、その成立を調べてきた私。
謙虚に学び、現場へ足を運ぶ姿勢が必要だと感じていたつもりだったのに
単なる机上の空論でしかなかった……?
音楽に、何ができて、何が出来ないのか。
私に、何ができて、何が出来ないのか。
こう自問自答し続けた結果、
自分に出来ることを精一杯やりきるしかないとの結論に達したはずですが?
…と同時に、私は演奏を職業にできなくなってしまいました。
人が楽しむための音楽ではなく、神に捧げる音楽「神楽(かぐら)=神座(かむくら)」を
学ぶに至り、一番低い場所に身を置いて演奏することが義務づけられました。
地べたに座って演奏修行していると「乞食?」「三味線?」といった言葉や嘲笑が
容赦なく投げつけられます。以前の私なら屈辱的…と感じたかもしれません。
でも、今は、座る勇気が出ない場所があることを恥じるのみの心境です。
日本軍のフィリピン全土での戦没者は約51万人(1941-45)で
中国大陸での戦没者約45万人(1936-45)を上回っています。
戦病死より餓死が多かった…とも言われますが、多くの血が流されました。
その地に座れるのか? 座って何がやれるのか? 音楽で何が変わるのか?
そんなことばかり考えています。
戦時中、夥しい数の戦時歌謡や軍歌を流し続けた放送局は
フクシマ後、復興ソングとやらを流し続けています。
それで、何がどう変わったのですか? 音楽にはどんな力があるんですか?
最初の疑問に戻りましょう。
1974年、マバラカット市長に「神風特攻隊慰霊碑」の建立を提案したのは
ダニエル・H・ディゾン氏でした。
三十代半ばで神風特攻隊の本を読んだ氏は涙がとまらなかったそうです。
同じアジア人としてこのような勇気や忠誠心を誇りに感じたというのです。
ディゾン氏は Kamikaze Memorial Society of Philippinesの会長をつとめ、
自宅に自ら筆をとった関行男大尉・谷暢夫一飛曹・中野磐雄一飛曹・永峰肇飛長・
また、ディゾン氏は日本の若者たちへのメッセージをも残しています。
検証した結果、なぜ日本が戦争に打って出たのかがわかりました。
日本は欧米列強の植民地支配に甘んじていたアジア諸国を叱責したのです。
当時、白人は有色人種を見下していました。
これに対し、日本は世界のあらゆる人種が平等であるべきだとして
戦争に突入していったのです。
神風特別攻撃隊は、白人の横暴に対する最後の”抵抗”ともいえましょう。
神風特攻隊をはじめ、先の大戦で亡くなった多くの日本軍人のことを知り
顕彰していただきたいと願っています」
戦後、日本では特攻を「犬死に」扱いする人さえあったのに、
フィリピンにはディゾン氏のような考えをもつ人もおられたのですね…。
しかし、ディゾン氏らの奔走で建立された「神風特攻隊慰霊碑」は
1991年6月のピナトゥボ火山の大噴火で火山灰に埋もれてしまいました。
同時代を生きていても、同じ情況に直面しても、
征く者もあれば、退く者もある。
万人が同じ感情を抱くことはあり得ないでしょう。
また、言葉を額面通りに受け取れば理解できるというものでもなさそうです。
大野 芳著『神風特攻隊「ゼロ号」の男』より引用させて頂きます。
当時、海軍報道班員としてマニラにいた同盟通信記者 小野田 政氏は
「零戦に二十五番(250kg爆弾)を爆装して敵空母に体当たりする」と知らされ、
バンバン川の畔で関行男大尉に会って話を聞きました。関大尉は、
「報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。
…僕なら、体当たりしなくても五十番(500kg爆弾)を命中させて帰る自信がある。
僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためにとかで征くんじゃない。
最愛のKA(KAKA=妻)のために征くんだ」と語ったそうです。
10月21日の朝、小野田氏が関行男大尉に呼ばれてゆくと
「報道班員、僕のワイフのために一枚写真を撮ってくれ」
と頼まれました。
出撃前のひとときに撮ったその写真はのちに『写真週報』の表紙を飾ります。
昭和19年10月25日
午前6時30分、ダバオ基地から朝日隊の上野敬一一飛曹(甲飛十期)、箕浦信光飛長、山桜隊は宮原田賢一飛曹と滝沢光雄一飛曹が爆装、柴田正司飛曹長、原田一夫二飛曹が直掩、菊水隊の加藤豊文一飛曹、宮川正一飛曹が爆装、直掩に塩盛実上飛曹があたって、いっせいに飛びあがった。
二〇一空本部のあるマバラカットでは、関行男大尉を指揮官とした敷島隊が、午前7時25分、三度目の出撃に臨んだ。爆装は、関大尉、中野磐雄一飛曹、谷暢夫一飛曹、永峰肇飛長、大黒繁男上飛の五機。その直掩隊は、前日、北千島の守りから休まず駆けつけたばかりの二〇三空戦三〇三飛行隊の分隊士で、撃墜王と呼ばれていた西沢広義飛曹長(乙飛七期)が隊長、それにベテラン搭乗員松本勝正飛曹(乙飛九期)、本多慎吾上飛曹(丙飛四期)、菅川操飛長(丙飛十五期)の仲間がその任にあたった。
10時49分、関行男大尉は僚機ともども敵艦に突入して散華。享年23歳。