藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

大和は国のまほろば

JR桜井線に乗ったつもりが「まほろば線」と書いてあります。
しかも揺れ過ぎて文字を打つのも困難です…。
 
今日の一社目は大和八木駅の北にある市杵島神社でした。
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えええ~?! 細い道を恐る恐る入ったら、すごい作品が!!
重要文化財「森村家住宅前」ですが、「新賀町環濠集落跡」にあるため
フツーにこういったオブジェが置かれているのでしょうか?
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拝殿の扁額には「市杵島神社」とありますが、
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本殿の方は「辡戝天」でした。神仏習合ということでよろしいでしょうか?
 
ここから南下して橿原神宮へ。
明治23年4月2日創建といった新しい神社は古代歌謡の舞台ではないため
避けたいところですが、気になる神社があって訪れました。
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参道を歩いていますと、右奥に「瑞鶴」の慰霊碑があるとの案内が。
手元に資料がないので不確かですが、『雷撃隊出動』の映画のために
瀬戸内海でロケをした後、フィリピン沖海戦で沈没したのではなかったかと…。
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少し進んでから右折しました。
とても橿原神宮の中とは思えないほど鄙びた感じです。
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あ、鳥居がありました。東大谷日女命神社です。
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鳥居の左手、道を挟んだ向かい側には池がありました。
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風の通る気持ちの良い参道ですね…。
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ただし、由緒が少々厄介です。
江戸時代までは熊野権現
明治20年(1887)頃に延喜式内社東大谷日女命神社の後裔と主張し始め、
祭神がイザナミノミコトから神功皇后へ。
そののち明治23年(1890)橿原神宮が創建され、神武天皇と皇后の
媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)を祀ることになり、
明治35年(1902)に当社の祭神が姫蹈鞴五十鈴姫命に変わっています。
 
しかも、式内社東大谷日女命神社は近くにあるのです。
そこへも行ってみる必要がありますね。
 
しかし今日のテーマは「磐余(いはれ)の池」周辺。
日本書紀』に第17代履中天皇の「磐余稚桜宮」がこのあたりで営まれ、
磐余池に船をうかべて遊宴されたとの記述があります。
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かの大津皇子の辞世? 仮託の作との説もあるようですが。
天武天皇もよもや崩御後に大津皇子が自害に追い込まれようとは想像も
していなかったでしょう。草壁皇子も早逝するし、無情…ですね。
こうして人材が居なくなった結果、皇統が天武系から天智系へ移りました。
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厨子神社には第22代清寧天皇の都「磐余甕栗宮(いはれみかくりのみや)」があったとか。
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ふ~む、古代の道って感じですよね?
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え?! あれですか? 有名な磐座…
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急いで上って、回り込みました。
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もちろん真っ先に演奏修行をやらせていただきました。
社殿はあとで拝見。
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こうした人工的建造物にはどうしても近代臭がありますね。
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「みずし」なんてルビが振られていますが、「水尻神社」とあることからも
「みづ=ミドゥ」と発音されていたはずです。
そして、それは縄文の「ミドゥチ」につながるのでは?
 
ここ東池尻町から、今度は(対岸の?)池之内字宮地の稚櫻(わかざくら)神社へ。
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この階段を見ると、ここが「磐余稚桜宮跡」とされるのもわかりますね。
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磐余を都とし、そこで即位した履中天皇が船をうかべて遊宴したという磐余池
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階段の途中で振り返ると、屋根の向こうが磐余池だったかも?
との妄想が湧いてきます。
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祭神は
●出雲色男命(物部氏の祖先) ●去来穂別命(履中天皇) ●気長足姫命(神功皇后)
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古代祭祀場を彷彿とさせる円形台地には稚櫻神社が鎮座していました。
やはり地形を見なくてはイメージが湧きませんね。
いろいろ納得して、ここから北上することに。
 
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あの磐境は?! 箸墓古墳の手前を走っていたら溜め池にぶつかり、
その右手に神社らしきものがありました(溜め池の向こうに箸墓古墳が見えてます)
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「九日社」?
「クニチ」なら「クニツ」の語尾変化でしょう。
地図を見ると國津神社とありました。
天津神の勢いが盛んになり、国津神であることを隠そうとしたのかも?
 
今日の最後は大和(おほやまと)神社なので、どんどん北上します。
「柳本」駅を過ぎる頃、そろそろかな? と地図を見たら、
東の山際に沿って縦列する古墳群の間に長岳寺がありました。
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何となく空海に関係ありそう…と寄り道したら
淳和天皇の勅願により弘法大師が創建」とありました。
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しかし残念ながら拝観時間が終わっていて、ここまでで引き返しました。
 
なかなか幸運ばかりは続きませんが、ここから大和神社までは数分です。
何度となく桜井線(まほろば線!?)の車窓から見て、
どんな神社なんだろうと思っていました。
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はい、やはりこういう神社でした。
偶然にも「瑞鶴」「大和」ゆかりの神社へ行き、
私なりに「編年体コンサート」の〆ができたような気がしました。
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立派な社殿を1枚だけ撮って、境内を歩いていると御子神がありました。
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聞いたことのない社名だと思い、由緒を撮りましたが、
猿田彦とアメノウヅメでどうして「増御子」なのかはわかりませんでした。
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もちろんアメノウヅメノミコトですから神楽歌を演奏させて頂きました。
当社は「長柄」駅の近くなので、タクシーはここまで。
歩いて「長柄」駅まで行きました。
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