大野 芳著『神風特攻隊「ゼロ号」の男』海軍中尉久納好孚の生涯(1995/光文社NF文庫)
の解説に、幾瀬勝彬氏(作家・第11期飛行予備学生出身)がこう書かれています。
昭和19年10月25日、
神風特攻隊敷島隊隊長 関行男はマバラカット基地を発進し、還らない人となった。
だが、この 4日前に神風特攻隊大和隊隊長 久納好孚中尉はセブ基地から出撃していた。
なぜ特攻第一号は関大尉となったのか。
気鋭のライターが5年の取材、調査をへて"特攻神話"に挑んだノンフィクション。
大野氏がゼロ号の男の取材をはじめたのは昭和51年(1976)。
最初、日刊紙スポーツニッポン新聞に五回ほど連載し、週刊サンケイに一挙連載。
昭和55年8月にサンケイ出版より『神風特別攻撃隊「ゼロ号」の男』(原題)を出版。
そのエピローグに、久納中尉の母が詠んだとされる和歌が添えられていました。
靖国の 宮にみたまは 静なるも をりをり帰れ 母の夢じに
ただし、上の和歌は、この本を読まれた熊本市の大江捷也氏から
「終戦時、歩兵455連隊長だった大江一二三の作」と指摘されています。
部下の立山少尉の戦死をいたんで詠み、下記を同少尉の母に打電したとのこと。
あこがれの少尉の服を陣に持ち、明日被るといふ宵 弾丸に死にけり
靖国の宮にみ霊は鎮まるも をりをりかへれ母の夢路に
御指摘では「昭和14年ごろ國民歌謠として歌われたものらしい」とのですが、
恐らくは日本放送協会の國民合唱でしょう。
私は「編年体コンサート⑭」↑で演奏しています。
初放送日は昭和18年(1943)10月12日でした。
この『やすくにの』(大江一二三作歌・信時潔作曲)のレコードは
ニッチクAK-776として放送と同じ月に世に出ています。
國民歌謠としては放送記録も楽譜もないことから、國民合唱が初出かと思われます。
大野氏とゼロ号の男執筆当時に知り合っていたら楽譜を提供できたのに…。
では、神風特別攻撃隊の誕生を簡単にまとめてみましょう。
・19日深夜に特攻隊を編成。
・翌20日朝には第一陣の関行男大尉を隊長とする部隊編成を終えた。
・21日午前9時、哨戒機がレイテ東方の海面に敵機動部隊を発見。
・マバラカット西飛行場から敷島隊が、東飛行場から朝日隊が出撃したが、
敵機動部隊を発見できず、全機、レガスビー飛行場に着陸し、翌日戻る。
・同じ21日、セブ基地からは大和隊の久納中尉と中瀬一飛曹の二機が特攻。
久納中尉は出撃前に「空母が見つからなければレイテへ行きます。レイテに行けば
目標は必ずいますから、決して引き返すことはありません」と発言。
米軍輸送船団突入の可能性が高いが、米軍徴用商船の被害は未発表ゆえ確認できない。
・25日に東飛行場から出撃して戦果を挙げた敷島隊が神風特別攻撃隊第一陣とされた。
日本軍占領時代、フィリピン基地航空隊の中心的存在だったクラークは
パナマ運河付近で亡くなったハロルド・M・クラーク少佐の名を冠していました。
が、1991年6月のピナトゥボ火山噴火の被害とフィリピン上院の議決で米軍が撤退。
現在この地域には、クラーク国際空港、フィリピン空軍基地などがあるようです。
「Kamikaze West」「Kamikaze East」として紹介されています。
左から関行男・中野磐雄・山下憲行・谷暢夫・塩田寛・宮川正・
(写真右外に)中瀬清久。背中は左が玉井副長、右が大西中将。
「散る桜 残る桜も 散る桜」
フィリピンでの最後の特攻は昭和20年1月25日。
バンバンから陸路2週間以上をかけて転進してきた士官一名、下士官三名が
ツゲガラオに到着した日に特攻出撃に選ばれ、四名は休憩もせずに飛び立った。
海軍 333機、陸軍 202機。