藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

日本の古代歌謡

日田に来ています。生桜の前菜!?
釜揚げされたばかりのシラスツクシのお浸し、最高でした。
福岡空港に着いた時、寒くてビックリしましたが、日田も肌寒いので露天風呂はどうかな?
暗かったので、撮れたのが不思議…としか言いようのない画像です。
部屋の露天風呂からの夜景。明日の午後には入れるでしょうか?
三隈川沿いのホテル、川側のお部屋に泊まっているので、早朝の景色が楽しみです。
 
明日は五馬媛の里で古代歌謡を演奏する予定なんです。
日本の古代歌謡が、他国の歌に比べて、年代の幅が大きいと感じるのは、
古代中国に倣い、王朝が変わらない限り、度量衡や音律を変えないため。
ヤマト王権が701年の『大宝律令』以前に定めた日本の国楽「壱越調律旋」は
現在も国歌《君が代》のメロディーに使われています。それゆえ年代的な開きが
あっても日本の古代歌謡はさほど印象が変わらないんですね。
 
さて、『源氏物語』には平安時代に大流行した催馬楽(さいばら)大歌(おほうた)
登場します。そして、雅楽の中で唯一、女性が演じる「五節(ごせち)の舞」も。
五節の舞の文献上の初見は『続日本紀』の天平15年(743)5月5日条とされています。
阿倍内親王(のちの孝謙天皇&称徳天皇)大歌に合わせてこれを舞い、
五節の舞は単なる娯楽ではなく、礼楽のことわりを教える舞である」
との由来を説いています。
五節の舞の発祥は、大海人皇子(?-686)が吉野で琴を弾いた時、
二人の神女が天降って袖を五回翻して舞った奇瑞に発しており、
その直後の673年、大海人皇子壬申の乱に勝利して天皇になりました。
数字の「五」が強調されるのは、ヤマト王権が陰陽五行説を重視していたため?
 
源平盛衰記』にも「昔浄見原天皇(天武天皇/在位673-686)の其かみ、
吉野の河に御幸して御心を澄し、琴を弾給ひしに、神女二人天降りて
をとめこが 乙女さびすも 唐玉を をとめさびすも 其唐玉を
と、五声歌給つゝ五度袖を翻す、是ぞ五節の始なる。」とあります。
 
平安時代には大嘗祭新嘗祭の「豊明節会(とよあかりのせちえ)」で
久米舞・吉志舞・五節舞を舞うと定められていました。
「紀元二千六百年」(1940)に作曲作舞され、全国津々浦々に普及した
「浦安の舞」とは、年代に1200年以上の開きがあるわけです。
 
おはようございます!
私、こういう場所に泊まっていたんですね!?
「三隈川」の名前の由来が一目でわかりました。
右端は沈下橋に見えますが、午後足を運んでみます。
では体操を始めます。