今日のメインテーマは伊太祁曽神社の奥宮です。
ここは傳法院という新義真言宗のお寺の裏です。池を左手に見て正面が丹生神社。
丹生神社の右隣に新義真言宗の開祖覺鑁(かくばん)上人を祀ったお堂がありました。
『太平記』巻第十八に「高野与根来不和事」が記されています。
鳥羽禅定法皇に経奏聞て、堂舎を立僧坊を作らる。
されば一院の草創不日に事成りし後、覚鑁上人忽に入定の扉を閉て、
慈尊の出世五十六億七千万歳の暁を待給ふ。
高野の衆徒等是を聞て、「何条其御房我慢の心にて被堀埋、
高祖大師の御入定に同じからんとすべき様やある。其儀ならば一院を破却せよ」
とて、伝法院へ押寄せ堂舎を焼払ひ、御廟を堀破て是を見に、
上人は不動明王の形像にて、伽楼羅炎の内に座し給へり。
まさにその傳法院です。
ふつう奥宮というと元々あった祭祀場というケースが多いのですが、
「いたきそ」が飛騨などで「日抱き尊」とされることと関係しているかも知れず、
丹生神社にも丹生都比賣がワカヒルメとされるなど日神信仰がありました。
いずれにせよ、我が国ではヒルメ神などの太陽崇拝が、海人族の航海や漁業、
農業に深く関わるものとして、最も古く重要だったように思われます。
左手には摂社がズラリと並んでいます。
その毛見崎の付け根から対岸の冷水浦(しみづうら)に向かって約3mの高さの
大岩が並び、岩に波が触れると琴の音のような響きがしたそうです。
それゆえ「琴ノ浦」と称されていましたが、現在は埋め立てられて
豊鋤入姫命だったと神話は言います。
名草の濱宮に3年、名方の濱宮に4年留まったそうです。
つまるところ、男神はあっさり国を譲っても、女神はやすやすと言いなりに
なったりはしなかったってこと(だからあちこち連れ回してエネルギーを分散させた)?
元伊勢としての吉備の名方濱宮に比定されているのが現在の伊勢部柿本神社です。
ただし吉備の名方という地名から、岡山県にも幾つかの候補があります。
同じ岩盤の上に建っていたのは日方戎神社(蛭子神社)でした。
ふと、名方は即ち「潟」ではなかったのか? との疑問が湧きました。
『万葉集』巻九に
「黒牛潟 潮干の浦を 紅の 玉裳裾引き 行くは誰が妻」
とあるので、やはり当社の下は「潟」だったのではないかと思われます。
今の「黒江」の地名は「黒牛潟」の名残とされ、「黒牛潟」とは、万葉の昔、
遠浅の海の波打ち際に黒牛に似た巨岩があったことからそう呼ばれていたとか。
社伝によれば、当社は海南駅東にある「大神宮遺跡」の場所から
知られる「子守の楠神さん」のある藤白神社へ行くためでした。
今はこのようなことになっていました。
神社として祀られているのはこちらだけということで演奏させて頂きました。
「千年楠」を讃え、《千歳》を奉納演奏。
藤並駅でのタクシー予約ができず断念…。
↓こちらが有間皇子神社です。
長年の念願を果たし、中央構造線を目指すべく北上する途中に
いかにも紀伊らしい史跡がありました。
その母が紀氏とされる武内宿禰を祀る武内神社です。
「誕生の井戸」もありました!
まだ中央構造線に到達してませんので、改めて続きを書きます。