ちょうど去年の12月、歯茎が腫れて友人の歯科医院を訪ね、
院長先生に根管治療の専門医を紹介されました。
ダメ元でお金をかけてみることになり、ダメだということを認識するために
1年という時間とトイレを3ヶ所リフォームできるお金を注ぎ込みました。
いくら専門医が少ないとはいえ、
「私の所は3ヶ月に1度しか予約が取れないから1本の歯を治療するのに
1年近くかかりますよ」という現実!?
そしていざ治療が始まると、特殊な(1mm以下の)細い針をつかうため
1本=1万円が加算されますが、私の場合、それを使う以前にあっさりと
「ダメですね…根は残せません」となった歯も!!
約1年という時間とお金を無駄に遣い、諦めもついて
今日からやっと普通の保険診療を開始します。
しかしながら、夜型人間の私が7時に起きるのはつらい…。
とは申せ、へこたれない性格なので、今日もどこかで演奏しようと
倭琴を背負っています。
行きたかった場所は、電車が2時間に1本ほどしかなく
治療後1時間以上も待ち時間が生じてしまいます。
かなり手前からタクシーでゆく方法も模索しましたが、帰りの電車が無い!!
ということで、これから考えます。
風隼神社とありますが、明治44年6月までは風華神社だったそうです。
創建は大同元年(806)1月10日。
上古、この地を鎮定するのに苦戦した石船大神・建葉槌大神が協力して
魔王石(宿魂石)を建葉槌大神が蹴って砕けた石がこの地に落ちたとの伝説が
作られ、建葉槌大神を祀る静神社も近くにあります。
ま、勝者が作った神話ですから真剣に考えても始まりませんが。
上に建つ青山神社があるというので行ってみた次第です。
こういう参道が300m続くと入り口に書いてありました。
書いてないと途中で引き返したくなるような道です。
ほら、コレ!! 冬でよかった…。
やっと鳥居が見えました。
約40基の円墳を擁するだけあって、そこここに祠が!?
まるでコロボックルのおうちみたい…。
これが社殿ですか、やっぱり近寄りたくないですね…。
『常陽式内鎮座本紀』によれば
勧請して宝亀3年(772) 9月29日に創建したらしい。
ヤマト王権になってからの神社だとしたら
征討軍に葬られた蜘蛛窟の可能性があるのでは? と疑ってしまう私ですが、
以下のデータを見つけました。
上青山古墳群の多くは7世紀後半の築造と推定されている。
青山神社周辺の古墳からは人物埴輪の頭部が出土したとされ、
一部は7世紀前半の築造と推定されている。
結局こういうことに…。
ここも円墳の一つだと思うのですけれど、上に乗っかっていたら御免なさい。
ともかく古代もこんな雰囲気だったのかと想像をかき立てられる空間でした。
"青山"は"青墓"と同義語だと信じている私ですから
一大古墳地帯の上に建つ青山神社へゆけた幸運に感謝です。
以前、内原駅から立野神社を目指したことがあり、その時
運転手さんから「アボッケ」という地名を教えて頂きました。
「それ、アイヌ語地名ですよね?」
「まぁ地元ではそう言われてるねぇ」
漢字は当て字ですから「木葉下」から意味を導き出すのは誤解の元?!
アイヌ語ですと「ボッケ=崖」との説もあるようですが?
「あぶけ」と読まれたとのことで、興味深いですよね。
現在は水戸市森林公園になっている小高い場所に
木葉下(あぼっけ)金山跡があるというので行ってみました。
佐竹氏の金山ですね。秋田へ転封された際、金山の入口を埋めて行ったため
水戸家は石灰しか手にできなかったと言われていますが?
このような、人一人が横になって這っていかなければ
奥へ進めないような穴だったんですね…。
炭鉱の写真集と重なります。
「我孫子」のボックイ地名についてはこちら。
ここから内原駅までにはくれふしの里古墳公園もありました。
その牛伏4号墳です。奥にももう一基見えています。
この左手に少し平らな牛伏古墳群が見えていましたが、時間がなく断念。
まだまだ見どころが沢山ありますね…常陸国。
当分歯科治療に通うことになり楽しみができました。