藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

塩尻~諏訪湖

午前9時から4時間半の予定で演奏修行をしましたが、
あまりに慌ただし過ぎて(暑すぎて!?)記憶がとんでしまいました!!
ゆっくりと思い出しつつ書いてみます。
 
朝一番に、ホテルから7分の伊夜彦社へ。
なぜ塩尻伊夜彦社が? という疑問と、
周辺が「平出遺跡(縄文の集落)」ということで行ってみました。
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クネクネ細い道とビッシリと立ち並ぶ家が特徴的な集落の中にあって、
この社殿は何となくちぐはぐな感じがしました。
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拍子抜けして帰ろうとしたら、拝殿の右の外壁に由緒書があって
疑問が解消。やはり新潟の弥彦から勧請していたんですね。
地主神としては水神ということで納得。
 
この周辺には新しい家が多く、工事の際に発掘されたからかどうか
縄文の遺跡が点在しています。
近くの「中西条遺跡(縄文の集落)」というか、中西条神社を目指しましたが、
駐車場がなく、隣の三嶽神社の駐車場へ行くと
宮司さんが除草剤を噴霧しながら歩いておられたので
即マスクをつけて退散しました。
よって三嶽神社本殿を横から撮った一枚のみ…。
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あ、もう一枚、手前の駐車場にあった↓看板を撮っていました。
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三嶽神社中西条神社や池を含む広大な土地を所有しているようです。
中西条神社への道を除草剤に閉ざされたことは残念でした。
 
やむなく次の小野神社を目指します。
(何と小野神社宮司さんは三嶽神社で除草剤を噴霧していた方でした!?)
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おおぉ…これは!? 平地にあるとは思えないほど自然が残っていますね。
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よく調べないまま来ましたが、「信濃國二之宮」とあります。
もちろん一之宮・二之宮…は官制ではなく自称に近いわけですが。
 
すると、やはり、隣に同じく「信濃國二之宮」を名乗る神社がありました。
矢彦神社です。さっき行った伊夜彦社との関係は?
 
まず、小野神社矢彦神社は、昨日行った千鹿頭山の千鹿頭神社
同じようなことになっていました。
隣り合わせで同じ敷地内に鎮座しているのに住所が違うのです。
 
小野神社
 
矢彦神社
塩尻市北小野175-1
 
上伊那郡辰野町小野3267 (塩尻市ではなく辰野町の飛び地)
 
Wikipediaにはこうあります。
両社は同じ社叢に隣接して鎮座しており、
かつては1つの神社であったと伝えるが、現在は別の神社である。
小野神社信濃国二宮で、両社とも旧社格は県社。
 
古くは1つの神社を成していた両社ですが、
小野盆地において飯田城主 毛利秀頼と松本城石川数正の領地争いがあり、
天正19年(1591)豊臣秀吉の裁定によって盆地が北小野・南小野に分けられた
ことに伴ない、神社境内も分割された。そうです。
 
小野神社矢彦神社とも境内は北小野の地籍であったが、
社叢南半分の矢彦神社が南小野の氏神となり、
矢彦神社境内は南小野の飛地という扱いとなった。
 
以上が、現在まで続く両社分割の経緯だそうです。
そして私が気になる祭神。矢彦神社の方はハンパないブレンドですね~。
 
小野神社
建御名方命(たけみなかたのみこと)
矢彦神社
正殿 大己貴命(おほなむちのみこと=大国主命)
   事代主命(ことしろぬしのみこと)
副殿 建御名方命(たけみなかたのみこと)
   八坂刀売命(やさかとめのみこと)
南殿 天香語山命(あめのかごやまのみこと)
   熟穂屋姫命(うましほやひめのみこと)
北殿 神倭磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと=神武天皇)
   誉田別天皇(ほむたわけのすめらみこと=応神天皇)
 
ちなみに、弥彦山(標高634m)御神体山とする越後国一之宮
彌彦(伊夜比古)神社の祭神は天香山命です。
平出の伊夜彦社、南小野の矢彦神社とも、祭神が重なっているため、
伊夜彦社の由緒にあるように中世以降は無関係ではなかったかもしれません。
 
小野神社の伝承にあった
建御名方命が諏訪に入ろうとしたところ、洩矢神に阻まれたため、
この小野の地に建御名方命がしばらく留まった。
というのが、元は一つの神社だった小野神社矢彦神社の創祀かもしれません。
 
次の目的地岡谷市へは、北小野の御射山神社を通るルートを選びました。
現在は小野神社の境外社となっていますが、とても重要な場所でした。
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鳥居を見つけました!
地図によれば鳥居をくぐって直進すると二段ほど高い場所に社がありますが、
手前の道が草で覆われていて登る気が失せました。絶対にヘビが出る!?
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かなり進んで戻る途中、V字の反対側にある人口建造物(!?)が目に入りました。
恐怖と闘いながら奥へ進むと、小さな池がありました!
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まさしく、ここが「三才山澤水源」でしょう。
地元の方に発音を訊ねていないため不確かですが、
「三才山」は社名の御射山と重なるのかも?
鳥居からの参道まで引き返すと、隣接する信州エコプロダクツ(株)が見えました。
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地図にある道は既に無く、どこまで行っても草むらなので
御射山神社を探すのは諦めて、いったん鳥居まで戻りました。
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現在も祭典が行なわれているのなら、8/26には草が刈られるのでしょう。
それにしても「建御名方命がこの地で御狩の野辺を分けられた」との記述が
気になります。洩矢神に阻まれて諏訪へ入れなかった時代に?
それとも、その後、水源をおさえるために?
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いずれにせよ、演奏修行はどこでやってもよいので、
右手に小野神社のある市街地を眺めつつ、
「虚空蔵さま」と呼ばれる御射山神社が正面にあるとイメージして演奏。
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「ずいぶん髪の毛がとんでるね」と言うと、友人が
「もっとブワ~と飛んだ時もあったけど、シャッターチャンスを逃した」
と申しておりました。暑い中、撮影してくれて感謝…です。
この水源のまわりには蝶々がたくさん飛んでいて↓こんな感じで演奏してました。
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上のモンシロチョウだけでなく、シジミタテハ科の蝶もたくさん飛んでました。
が、飛ぶのが速いので撮影が難しく、演奏後に「ちょっと止まって」と頼むと
しばらく止まって、翅を広げたり閉じたりしてくれました。
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やっぱり境内よりも自然の中での演奏がいいですね~。
 
山を越えて岡谷市へ抜け、諏訪湖に近い洩矢神へ。
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建御名方命に敗れた経緯(?)が書かれています。
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ただし、当地は中央自動車道建設に伴って遷座させられた場所だと
わかっていたので、直線で260m離れた旧社地へと向かいます。
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中央自動車道をくぐったら、ほとんど重なるような位置にありました。
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昭和53年の「遷座記念」碑です。
右手を見ると「洩矢大神御舊趾」碑がありました。
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洩矢(もりや)神社は「物部守屋」との関係を否定していますが、
諏訪大社上社の奥に位置する守屋山および守屋(もりや)神社とは
関係がありそうに思えます。もっと調査が必要ですが。
 
帰りは茅野駅からスーパーあずさ号に乗るため、諏訪湖の南岸を東へ走ります。
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ここまでも狭い道に悩まされてきたわけですが、
小坂の御頭御社宮司神社へ行こうとしたら階段前への道が見つかりません。
どう地図を見ても、実際に車で行ったり来たりしてみても、
民家と民家の間の狭い道を歩くしか方法は無さそうです。
ただし、狭い坂道なので、駐車スペースがありません。
ともかく道の狭さと駐車場の無さに苦労した2日間でした。
 
高台にある御頭御社宮司神社から諏訪湖を眺めることを諦めて東へ進み、
千鹿頭神社を目指します。
またしても中央自動車道沿いにあります。というか、この先ずっと
同じような感じで神社が中央自動車道に絡んでいました。
水戸家に倣って産土神の撲滅をはかったのでしょうか?
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おっと、通り過ぎたようです。あのこんもりがそうでしょう。
社殿へと下る道が目に入りませんでした。
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ただの草むらだと思って、一瞬で通り過ぎてしまったようです…。
しかし、車で上り下りした轍(わだち)の跡があったのには驚きました。
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下りてゆくと社殿がありました。想像していたより大きな神社でした。
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え~~「濱南宮」? 千鹿頭神社じゃないの?
冷静になって景色を見たらわかりました。
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諏訪湖の南端が見えています。だから通称「濱南宮」なのかな?
やれやれ…地図だけを見て、調べないで来るから、こんなことに。
ただ、社紋が諏訪梶で御柱もあったので、諏訪「濱南宮」なのでしょう。
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いずれにせよ演奏修行が目的なので、しっかり演奏しました。
こののちは空振りばかりで、早々に茅野駅に着いてしまいました。
 
演奏はしていませんが、御頭(オトウ)御社宮司の由緒書を引いておきます。
御社宮司は御左口ノ神、御作事ノ神とも云い、
自然信仰に基づく稲・土地の神として崇められてきた。
この神を祀るのは大変古くから拓かれた村である事を物語っている。
諏訪大社の祭神 建御名方富命という人格神が祀られたのは七世紀初頭である。
 
すると、ミシャグヂモリヤ神の関係は?
洩矢神HPにはこうあります。
洩矢神は関東、東海、関西にも影響のあったミシャクジ様のお祭りの権利も
持っていたので、その関係なのか、洩矢神の子孫の神長官の所には
ミシャクジ様の総社がございます。
そして、諏訪大社上社の御頭祭に供される鹿の頭を用意する神社の祭神
千鹿頭神は、諏訪地方に古代から伝わる民間伝承の神で、狩猟神とされます。
洩矢神洩宅神千鹿頭神
千鹿頭神は父神の洩宅神から祭政官としての地位を引き継いだとされ、
後に松本、奥州へと追放されてしまったそうです。
 
今回はモリヤ神にとっての先住民がミシャグヂ? との印象をもちました。
いくら由緒書を読んでも、実際に歩いてみないと確信がもてませんので
きっと再訪することになるでしょう。