神武の東征以前、日本列島に居た先住民らは
鬼、土蜘蛛、国栖(くず)、佐伯(さへき)などの蔑称を与えられました。
いわゆる“天皇にまつろわぬ民”ですが、その中でも
私が興味をひかれたのが「…トベ」と呼ばれた女性酋長です。
「六月乙未朔丁巳 軍至名草邑 則誅名草戸畔者」
(旧暦6月1日、軍が名草邑に至り、名草戸畔という者を誅殺した)
とあるのが名草邑および名草戸畔に関する唯一の記述だとか。
その名草邑を訪れたく地元の伝承を調べた私は震え上がりました。
曰く
誅殺された名草戸畔(ナグサトベ)は、頭、胴、足を切り離されたので
名草の住民らは、頭を宇賀部(うかべ)神社(別名おこべさん)、
胴を杉尾神社(別名おはらさん)、足を千種神社(別名あしがみさん)に埋葬。
この三社をまわろう…と計画したものの、だんだん気が重くなり、
名草の濱宮と、名草戸畔の死後代わって紀伊国を治めた紀氏出身の
母をもつ武内宿禰を祀る武内神社などをまわり、お茶を濁しました。
紀氏は名草戸畔を遠縁に位置づけて後継者としての正当性を主張したとか。
なお、海南市小野田の集落にある宇賀部神社の社家 小野田氏は
1944年に情報将校としてフィリピン・ルバング島に派遣されて以来
30年にわたり任務解除命令を受けられないまま戦闘を続行し、
1974年に帰国した小野田寛郎(1922-2014)元少尉の本家筋にあたるそうです。
そもそも名草戸畔とは、特定の人物を指す言葉ではなく、
「名草の長」といった地位を表わしており、戸畔(とべ)の語源には
ただしトメ説は時代が逆のような気もします。
八坂斗女命、八坂比売命、八坂刀自神 等があり、
トメがヤマト王権において使用されていたからです。
その点、アイヌ語のトペは、古代ハ行音の発音が“F”になる前に
"P"または"B"だった時代があるため、トペ=トベは納得できます。
同じく『日本書紀』巻第三、名草戸畔の次段に
「天皇獨與皇子手硏耳命、帥軍而進、至熊野荒坂津(亦名丹敷浦)、
丹敷戸畔という者を誅した時、神が吐いた毒気で人々が萎え、皇軍もまた振るわなかった)
とあります。二人目の「…トベ」丹敷戸畔(ニシキトベ)の登場です。
その丹敷戸畔が毒ガス攻撃?
これはやはり、丹敷戸畔の「丹」が辰砂・硫化水銀を指し、
熊野に鉱山が多いことから、鉱毒を暗示したものでしょう。
同じく『日本書紀』巻第三よりトベや土蜘蛛を誅した記述を引いてみます。
「己未年春二月壬辰朔辛亥、命諸將、練士卒。
是時、層富縣波哆丘岬、有新城戸畔者。
又和珥坂下、有居勢祝者。臍見長柄丘岬、有猪祝者。
此三處土蜘蛛、並恃其勇力、不肯來庭。天皇乃分遺偏師、皆誅之。
又高尾張邑、有土蜘蛛、其爲人也、身短而手足長、與侏儒相類、
皇軍結葛網而掩襲殺之、因改號其邑曰葛城。
夫磐余之地、舊名片居、亦曰片立、逮我皇師之破虜也、
大軍集而滿於其地、因改號爲磐余。」
特定できませんでしたが、「新木山古墳」に近い新城神社へ行ってました。
土蜘蛛を葛で一網打尽にしたことで「葛城」と名づけたという
あ、「…トベ」では尾張国の眞敷刀俾(マシキトベ)を祀ったとされる
下知我麻神社へも行ってました。
気になりますね。
神武の東征以前の「…トベ」に対し、
ヤマト王権では、地域の女首長を表わす尊称が「ヒメ」になります。
「ヒメ(比売、比咩、日女、孫女、火売)」を名乗る神社が120前後もあったとか。
しかも、若狭比古神社と若狭比売神社、龍田比古神社と龍田比女神社、
伊予豆比古命神社に祀られた伊予豆比古と伊予豆比賣など、
ヒメヒコが対になった例が目立ちます。
これはヤマト王権以前との決定的な違いです。
宇宙のありとあらゆるものは相反する陰と陽の二気が調和して初めて
自然の秩序が保たれるというのが陰陽思想です。
陰=月光・夜・女・偶数・腹・静・水…
陽=日光・昼・男・奇数・背・動・火…
瀬戸内海の大姫島(おぎじま)が男木島、姪姫島(めぎじま)が女木島の表記に
変わったのも陰陽思想の影響であろうと以前書きました。
よって、ヒメヒコと対になった神社は『記紀』以降の