藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

下総の崖地

ホントにうっかりで申し訳ありません。
我ながら地図をちゃんと見られず、道にも迷ってばかりでうんざりです。
 
神崎(こうざき)の次の"シマ"を矢口(やこう)と決めつけていましたが、
よくよく地図を見たら、耀窟(ようくつ)神社という怪しげな社名が!?
イメージ 2
画像↑左端が耀窟神社が鎮座する"シマ"で、
その麓には「西大須賀横穴墓群」があるそうです。
横穴墓は古墳時代後期に発生した形態で、崖に横から穴を掘って造っています。
千葉県内では上総・安房利根川南岸の東総地域に集中しているそうです。
しかしながら、こんもりを一周しても見つけられませんでした。
イメージ 1
古代「香取海」の名残なのか、このあたりでは「龍」のつく寺が目につきます。
中でも何度か前を通った印西市物木の龍湖寺の名は象徴的です。
 
さて、当地で奇妙な伝承を知りました。
文亀元年(1501)南北朝時代後亀山天皇の第三皇子・小倉宮良泰親王
曾孫にあたる「毛野飛騨守尊親」がこの地で謀殺されたというのです。
 
ところが、群馬県館林市郷土史には、
「毛野飛騨守尊親」は南北朝の戦いで吉野を逐われた落武者で
毛野国(今の栃木市より思川を遡って約3里ほど入った山間部)に城を築き
竜ケ谷城主になったとあります。
 
何の暗示やらさっぱりわかりませんし、耀窟神社の社史もわかりません。
イメージ 3
どうやら、社頭の石碑左側の「若宮八幡宮」の祭神を後亀山天皇の裔とし、
右側の「耀窟大明神」の祭神を稜威尾羽張神(=伊都之尾羽張神)としたようです。
 
古事記』葦原中國の平定
爾思金神及諸神白之「坐天安河河上之天石屋、名伊都之尾羽張神、是可遣。
若亦非此神者、其神之子、建御雷之男神、此應遣。且其天尾羽張神者、
逆塞上天安河之水而、塞道居故、他神不得行。故、別遣天迦久神可問。」
故爾使天迦久神、問天尾羽張神之時、
答白「恐之。仕奉。然於此道者、僕子、建御雷神可遣。」乃貢進。
爾天鳥船神、副建御雷神而遣。
 
天穂日命天稚彦に次ぐ三番目の神として葦原中国に派遣されそうになった
伊都之尾羽張神が「わが子 建御雷之男神を遣わすのがよろしいでしょう」と
答えて、建御雷之男神が天鳥船神と共に葦原中国へ派遣されることになった?
わかりやすいですね。
この"シマ"を支配したのが香島(鹿島)明神(タケミカヅチ)
祭神を父神(?)伊都之尾羽張神にしたのだとしたら。
 
列島各地で「この地域には『古事記』に出てくる神の名や地名がある」との
声を聞いたりしますが、それはむしろ逆に『古事記』を参考に
祭神や社名・地名を変えていった可能性の方を疑うべきでしょう。
耀窟神社の祭神も後付けではないかと感じました。
イメージ 4
さ、登ってみましょう。200段以上あるらしいですよ。
イメージ 5
ちょうど130段目に金毘羅社がありました。
私は大好きな極相林に目を奪われています。
足摺岬を走っていた時も銚子の渡海神社の社叢もこういう感じでした。
この高さまでは海辺の崖地でよく見るタイプの極相林でした。
イメージ 6
階段は208段でした。が、登り切ったところには何もありません。
右手を見ると社殿がありました。頂部は植林されたのでしょうか?
イメージ 7
台地の尾根の最奥に社殿があるというのは小林の東大社
布瀬の香取鳥見両神と同じですね。
イメージ 8
本殿の後ろは崖のようです。
イメージ 9
少し伐採すれば眼下の利根川だけでなく霞ヶ浦も見えそう?
イメージ 11
社殿をぐるりと一周したので階段まで引き返します。
イメージ 10
南面する階段から見える平地もかつては「香取海」だったのでしょう。
 
郡家の南二十里あたりに香澄(かすみ)の里がある。
大足日子の天皇(景行天皇)下総国印波鳥見の丘に登られた時、
東を振り向いて「青い波と陸の赤い霞の中から湧き上がるように見える」と
仰せになったことから「霞の郷」と呼ぶようになったと伝わるとあります。
 
その「かすみの里」に最も近いのが神崎神社で、ここに
建御雷之男神と共に葦原中国へ派遣された天鳥船神を遷座させたことも重要。
次が建御雷之男神の父 稜威尾羽張神(=伊都之尾羽張神)を祭神とする
耀窟神社のある"シマ"ということになります。
これが神話のキモでしょうね。
よってこの2ヶ所も征服されたと推測し、鳥見の丘の候補地に加えておきます。
古代にはトビ=鳥見を奉ずる人々が住む高台を鳥見の丘と呼んだかもしれず、
私は唯一の鳥見の丘を求めるつもりはありません。
仮に
威風堂々たる要塞としての矢口一宮神社を鳥の頭とするなら、
耀窟神社神崎神社が右翼、
東大社香取鳥見両神が左翼を拡げて筑波山に対峙する形に見えます。
ここに物部氏の拠点の一つがあったことを覆すのは難しいでしょう。
 
耀窟神社へ行くにあたり、先ずは伊都許利神社を目指すことに。
実際には年代が違うと言われるものの、初代印波国造伊都許利命墳墓と伝わる
古墳があったからです(拙宅から42分と出たのに60分以上かかりました…)
山あり谷ありのクネクネ道を迷いつつ、到達しました。
イメージ 12
台地の上の幼稚園の隣に鳥居が見えました。道路を挟んだ向かい側は谷です。
イメージ 13
あれ? 鳥居の扁額が伊都許利神社ではなく金刀比羅神社ですね。
何となく左奥の古墳を守っているように見えます。
イメージ 14
隣に「公津原(こうづがはら)古墳群 39号墳」とあります。
この周辺を走っていたら、あちこちに「公津原古墳群」の看板が見えました。
中でもこの「39号墳」を初代印波国造伊都許利命墳墓としているようです。
イメージ 15
しかし案内板の主伊都許利神社は既に金刀比羅神社に。
また、その隣には麻賀多神社がありました。
この北北東に「玉造」という住所があり、「まがたまかぁ?」と思いながら
走ってきたので「麻賀多眞大神」とあるのを見て腑に落ちました。
が、麻賀多神社に関してはいろいろと疑問があります。
イメージ 16
案内板がありました。
イメージ 17
麻賀多神社は↑案内板にあるように
成田市台方稷山(あわやま)の本社と
ここ千座山(ちくら)山鎮座の成田市船形手黒の奥宮があります。
『日本の神々』には
延喜式神名帳に「印旛郡一座 麻賀多神社」となっているが、
この神社の場合、本社と奥宮を合わせて一社とみるべき
と書かれ、両社の神官である太田家伝来の古文書が引用されています。
応神天皇の時代、印波(いんば)国(印旛郡一帯)の初代国造となった
伊都許利(いとこり)命が霊夢をうけ、杉の木の下より七つの玉を掘り出し
鏡とともに祀って一社を創建(奥宮)、麻賀多眞大神と称し、降って
伊都許利命七代の孫 広鋤(ひろすきの)手黒彦(てぐろひこ)推古天皇16年(608)
稷山の地に稚産霊命遷座して大宮殿(本社)と称し、
ここに二つの麻賀多眞大神が成った。
しかし延喜18年(918)、朝廷の宝物である三種の神器の一つと同名で
あることを遠慮して、麻賀多神社に改名したという。
 
それで鳥居をくぐった右手の古墳を初代印波国造伊都許利命墳墓にしたわけですね。
イメージ 18
まぁ古墳の主ほどいい加減なものはありませんが…。
 
不思議なことに、印波国造といっても印旛郡内の麻賀多神社(麻賀多十八社)
すべて印旛沼の東岸か南側に位置し、沼の北および西側には一社もありません。
印旛沼の北側(現 印西町)鳥見神社が分布していることは既に書いた通りです。
佐倉市鏑木町の麻賀多神社HPにも
麻賀多神社という神社は、当社をはじめとして佐倉市内に11社・
隣接する酒々井町2社・成田市2社・富里市2社・八千代市1社を数えます。
一見多く存在するようですが、これを全国的に見ますと他の地方には見られない、
珍しい名前の神社で、印旛沼の東側から南にかけての地域にのみ存在する神社です。
とありました。
神社が先祖や祖神を祀ることから始まった以上、民族や氏族の移動に伴なう
全国的な広がりがあって当然ですが、それが無いとすれば、
官製の神社として創祀された可能性をも考慮する必要がありそうです。
 
もう一つの謎は、祭神が稚産霊神ゆえか、
八千代市勝田の駒形大明神八千代市上高野・保品の駒形神社
佐倉市内田の駒形神社を「麻賀多神社」とした例があったこと。
一口に駒形神社と言っても祭神が定まっているわけではなさそうですが、
まがた」は理解できても「まがた」には無理があるような気がします。
根拠を明らかにして頂けるとスッキリ理解できるのでしょうけど…。
 
イメージ 19
社殿には興味がないので、さっさと社叢に入らせて頂きました。
イメージ 20
やはり崖地ですね。
イメージ 21
この真下の道を上がってくるはずが、反対側の幼稚園のほうから来ました!?
イメージ 22
帰りはあの道を下って"シマ"の形を確かめてから北上しました。
イメージ 23
谷から再び台地に上がると「公津原(こうづがはら)古墳群 25号墳」がありました。
この先はずっと古墳が続きますが、ふと左手を見ると印旛沼!!
イメージ 24
古代「香取海」はこの台地ギリギリまで迫っていたのかもしれません。
イメージ 25
玉造の「外小代地区公園」にぶつかりました。
公園の西側に9基の古墳があるそうです。
ここを左折して北上し、松崎(まんざき)二宮神社へ。
イメージ 26
道端に突然ありました。先日の矢口一宮神社からの興味です。
征服者が格付けしたのかも?
イメージ 27
夥しい数の石碑や祠が社殿の周囲に配置されています。
イメージ 28
ちょっと不気味なので僅かに残っている社叢に入りました。
かつては広大な社叢を誇っていたであろうことが想像できます。
何度もコロコロ変わったであろう祭神を確かめる気にはなれません。
この台地を下りて西大須賀の耀窟神社を目指したのでした。
イメージ 29
さぁ、どの"シマ"かなぁ…とワクワクしつつ走っていたのですが…。
左手に見えたこれは…!?
イメージ 30
先日熊野神社の帰りに撮って字がハッキリ写ってなかった
「一号 堺松」ではありませんか!!
二宮神社から下りて右折するところを左折してしまったのです。
V字の反対側を走っていたとは…。
何とか利根水郷ラインに出て、冒頭の画像を撮った次第です。
イメージ 31
何度同じ道を走ることやら…。
この道を長豊橋まで引き返し、利根川の土手を走りながら帰宅しました。
イメージ 32
できることなら、"シマ"の周囲をクネクネ走ってゆく場所へは
行かなくて済むよう祈るばかりです。
が、まだまだ古代「香取海」の"シマ"は存在します。