高志国行きは今年2月に計画していましたが、
豪雪地帯が含まれており断念しました。
今回は日帰りゆえ、越後のごくごく一部です。
昨日、突然、家人が今日を在宅執筆日としたため速攻で切符を取りました。
催馬楽に《道の口》あり。
高志国で言えば越前が道の口、越後は道の奥です。
高志国なので古くはヌナカハヒメが治めていたのか?
との疑問から、先週・先々週に続く旅に出ました。
長岡までは新幹線。その先は信越本線です。
柏崎から5社をまわって長岡駅から新幹線に乗りました。
約30分かかる長岡駅へと向かう途中、苔生した岩の上に咲いていた
ヒメレンゲに似た黄色い花…。
しかしながら、現在は道路脇に鎮座しており、
大積三島谷という住所からくるイメージとはかけ離れているように感じました。
ちなみに今日行った他の4社は駐車スペースと社殿が離れていたため、
運転手さんに撮って頂けたのはここだけでした。
一説に、現鎮座地の北西2kmほどの山上に二田城址があり、
その山中が本来の鎮座地であったが、領主の社参のために
元禄年間(1688-1704)に柏崎へ遷座したと言われています。
柏崎の旧縣社三島神社の元宮とも考えられているようです。
しかも当社は菊紋・梅紋…と、謎だらけです。
というわけで、今日最初に行ったのは柏崎の三島神社。
当社の神紋は三島の「三」で、
伊予でなく愛媛ねえ…(いつの時代の話をしてることやら?)。
旧縣社としては社叢も境内もスケールが小さいのでは? と感じました。
『越後野史』に
当社の北東20kmの山中 長岡市大積三島谷町が本来の鎮座地とあることから、
元禄年間(1688-1704)に高田藩主稲葉正通が遠祖越智氏の祖神たる
三嶋大明神を当地へ遷したと言われているそうです。
ただし、元和8年(1622) 4月15日の松平忠昌安堵状に
元禄以前から当地に鎮座していたとの説もあるそうです。
いずれにしても、現社地に741年から鎮座していた証拠はありません。
次に行ったのは社殿が国の重要文化財に指定されている多多神社。
「タタ」「タダ」とくれば、私など直ぐに「タタラ」を連想しますが、
当社は多氏の祖神を祭神としているようです。
ところが、かつては多岐神社だったという説もあり、『越後野史』に
多岐神社を刈羽郡多岐郷長橋 荘曽地村ニ在、今所祭六社明神と言う
とあるそうです。
↑『越後野史』を完全無視…。
そして昭和51年~2,800万もの国費をかけて解体修理した本殿は
コンクリートの建物に蔽われていて見ることはできません。
ただ、ためしに拝殿を覆っているガラス戸を開けたら中に入れました。
明治以降は多多神社として通っているようですが、
多岐神社の時代があったとしたらタタラ説はありませんね。
次は本日のメイン…と楽しみにしていた宮川神社。
なにしろ「宮川神社社叢」は国の天然記念物に指定されているので
社叢大好き人間の私としては期待がふくらみます。
そして明治23年(1890)に現社号宮川神社に改称されたとのことですが、
それ以前は神明宮と称していたとか。
勧請したのが始まりで、祭神は天照大御神。
おおお、たしかに神明鳥居ですね。
「神明」と刻まれています。
あまりにも広く、参道の途中に何ヶ所も茂みに入ってゆける道があって
興味をひかれましたが、ここは演奏修行を優先しました。
「天照皇大神宮」の扁額? 宮川神社ではありませんね。
やはり人口建造物は無視…ということで。
社殿の横へまわると、社殿横の木は御神木ではありませんでした。
この木よりも社殿から遠く、奥の一段低い場所に御神木がありました。
本当に素晴らしい社叢で、万分の一も見られなかったのは残念でしたが、
限られた時間なので、後ろ髪をひかれつつ日本海沿いを北上しました。
目指すは柏崎市西山町の御島石部神社です。
当然ながら私は「ミシマ&イソベ」と読んで向かっています。
現代人は漢字の意味にとらわれがちですが、古代は発音に当て字しただけ。
深読みは禁物です。「ミシマ&イソベ」はいずれも海人族ですが…?
「ミシマ神」については「カラ神」らしいとわかりました。
「イソベ神」は「ミシマ神」より古いため、マウントされた可能性も?
ヌナカハヒメの治める高志国を「スハ神」が糸魚川から姫川を遡上して
諏訪社だらけにしたように、「ミシマ神」も三島社に換えていったのでは?
そのことが朝廷の支配を表わすのではないかと感じるのは、
妻コノハナサクヤヒメの親神とされているからかもしれません。
あることから、何となく、「スハ神」は征服者、
「ミシマ&イソベ」は国策による移民?という気がしています。
さて、御島石部神社もやはり高台にありました。
あまりにもカンカン照りで、空と海の境が判りづらいのですが。
ここから長い参道をゆるゆると上ります。
なかなか社殿が見えてこないので、ちょっと怖くもありました。
やっと鳥居が見えてきました。海の近くだけあって社叢が極相林っぽい?!
もはや朽ち果てている…という風情ではありますが?
社殿の彫刻がすばらしい…!
本殿の彫刻は関東きっての名工で熊谷の住人 小林源太郎の弘化2年(1845)の
作品と書かれていましたが、拝殿も手がけたのでしょうか?
イソベだけあって、当社の神紋は洲浜ですよ!!
去年の3月、菅生(すごう)石部神社の項に当社の神紋のことを書いていました。
うわぉ!! 思わず声をあげてしまいました。
ヤマタノオロチ(八岐大蛇)を思わせるシイの樹叢です!?
ほとんど訪ねてくる人もないであろうおどろおどろしさを感じつつも
社叢好きの血が騒ぐ御島石部神社でした。
帰りは少し余裕が出たのか、参道の脇を見ていたら下に池がありました。
私がイメージする神社の要素(川or池 & 山or杜)を備えた古社でした。
何より自生林が素晴らしい。
案内板に
水路にて当地を通られた時、岩の懸橋が海中より磯辺まで続いているのを
不思議に思われ、船を寄せてみると、当地の荒神二田彦・石部彦の二神が出迎え
卮(さかづき)に酒を盛り、敬意を表した」とありました。
二田彦(物部氏)、石部彦(磯部氏)は戦わずして同盟を結んだってことですか?