益田岩船
朝一番に行ってきました!
9/2に日没と競争して負けたので再訪した次第。
先日、無理をしなくてよかった…とつくづく感じました。
険しい道を5分と書いてありましたが、
昨日まで雨が降っていたためか、5分では到達できませんでした。
坂道が泥濘んでいて、下りでも5分強かかりました。
でも、険しい道を登って巨岩らしきものが見えた瞬間は感動しました!!
益田岩船の大きさは東西約11m、南北約8m、高さ約4.7m。
重量は800トン~900トンと推定されています。
ことから、その存在は江戸時代には広く知られていたはず。
益田岩船については
平安時代に造られた灌漑用の貯水池「益田池」の築造を記念して
星占いをおこなうための天文台、
諸説あるものの、未だ結論は出ていないようです。
上記はそれぞれ既にこの地にあった巨大な船形石を利用した可能性を
におわせているものの、誰が、何のために上部に大きな穴をあけたのか
という根本的な疑問に答えるものではありません。
この点について、私は建造中の古墳であったと考える説に注目しています。
益田岩船から南西約500mに牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)があります。
近年の発掘調査により、斉明天皇の陵墓である可能性が高まっていますが、
この牽牛子塚古墳の石室が巨石をくりぬいた「横口式石槨」で、
それが2つ並んでいるのです。
要するに、益田岩船を上部の穴が側面になるよう横に倒すと
牽牛子塚古墳と同じ「横口式石槨」が2つ並んだ形になります。
それで、益田岩船は何らかの事情で建造を中断し放棄された
牽牛子塚古墳のプロトタイプであるとの説が出てきたわけです。
では、益田岩船はなぜこの地に放置されたのか?
その理由として最も説得力があるのは
上部に開口した大きな穴の一つから水が少しずつ流れ出ているという事実。
死者を埋葬する古墳では、石室に亀裂があっては困ります。
亀裂を通して内部に水がたまると埋葬施設としての意味がなくなります。
雨水が浸透して亀裂が拡大し、石室が崩壊してしまう恐れさえあります。
それゆえ、益田岩船は作りかけのまま放置されたのではないでしょうか。
この親切には、ほっこりしました。
どこまでが道でどこからが崖かわからなかったので助かりました。
益田岩船の出入口たる階段下で9/3にお世話になった運転手さんと待ち合わせ。
ここから5時間の予約です。最後が桃尾(もものを)の滝。
この滝の手前に石上神宮の元宮と言われる石上神社があって
前々から行ってみたいと思っておりました。
この橋を渡ると社殿があります。
社殿が苦手な私ですから、やっぱり橋を渡ってないってわかりますよね?
滝は大好きなのですが、変な人口建造物があって
運転手さんがとても苦労して撮って下さってます。
昨日まで雨だったからか、とても水勢が強く、演奏がかき消されるほどでした。
今日のメインテーマは、もう一つの都祁山口神社です。
ちょうど石上神宮の南、桃尾の滝へのルート沿いにありました。
9/3に行った都祁山口神社との比較は前日のブログに書きましたが、
実際に足を運んで何を感じたか? ということですね。
このこんもりですが、例によって駐車スペースがありません。
社殿の手前が円形台地だったので、中央で演奏してみました。
一応、都介乃岳と向かいあう形で座っています。
階段を上ると、社殿の奥に「御社尾」よりずっと小さな磐座がありました。
もちろん大きければよいというものではないと思いますが。
そして、その奥に「遥拝所」があったのです。
当社の東10km奥にある都介乃岳の方を仰いでいるようでもあります。
都祁小山戸の都祁山口神社はこの遥拝ラインより南にあり、
都介乃岳の南西に位置しています。
そして当社の祭神は大山祇命、
久久迩知命と波爾夜須命が配祀されているとのことです。
神を祀り崇敬されたのが、都祁山口神社の起源だろうと考えるとありました。
また鎮座地について、
宇多天皇の寛平3年(891) 8月、社殿を高山の麓である現在地に遷され、
都祁山口神社を造営されたとも傳えられていると書かれていました。
これは…国家祭祀としての祈年祭(としごひのまつり)で祈願の対象とされた
山口坐皇神(やまのくちにますすめがみ)について調べる必要がありそうです。
今回から始めた倭の六県(むつのあがた)ともども足を運び調査しようと思います。
以下が倭の六県に坐す大和國六御縣(むつのみあがた)神社とされています。
9/11に行った一社目は「高市御縣坐神社」
よもや橿原タクシーの隣の小社が御縣神社とは想像できず
岡寺まで上って社務所で質問しまくりました。
「うちは元々お向かいの治田神社さんと同じ場所にあったんですよ」
と教えていただいたので、治田神社まで行ってみました。
拝殿の手前におられるのは、もしかして二宮さん?
などと語りかけている場合ではありません。
最初に行ったあの祠だったのかも? と思い、引き返して貰いました。
これが道路から見えれば、二宮さんにお会いすることもなかったでしょう。
駐車スペースどころか、車一台通るのがやっとの道なので早々に退散しました。
↑
未熟ですみません!
「高市御縣坐神社」ではありませんね。出直します。
いや、しかし、社頭に↑こうありました。
鳥居の扁額は「豊受大神」でしたが…?
ややこしいことはやめていただきたいですね…。
三社目は大きな拝殿の奥に真っ赤な本殿がありました。
当社には三輪山の遥拝所があり、ここから真東の三輪を目指します。
ところが、ナビで「志貴御縣坐神社」を目指すも道が狭過ぎて入れません。
地図を頼りに遠回りをして、やっと到達…。
右手に案内板がありますね。
うわ~これは何だか重要な場所へ来てしまったようです!?
石がゴロゴロしているここが磯城瑞籬宮跡なのでしょうか?
私は対馬で「シキ・シカ・シコ」の法則を知りました。
シカの海人の居住地において「志貴・志賀・志古」は同義語です。
漢字は当て字なので、時代ごと地域ごとに異なります。
そのシキの本拠地に「志貴御縣坐神社」があり、
実はここへ辿り着くまでにナビ通りに走っていて右折できず、
車を反すために左折した道沿いに鳥居がありました。
「せっかくだから降りてみていいですか?」と車を降りてビックリ!!
円形の台地。まるで古代の祭祀場です。
地図を見ると神坐日向(みわにますひむかひ)神社!?
以前読んだ文章が一瞬のうちに脳裏を駆け巡りました。
大神神社側は反対したものの、海人族の象徴たる高宮が鎮座していた
当地への遷座が強行されたというものです。
さ、そんなご都合主義は無視して《昼目歌》を演っちゃいましょう!
このときは太陽に向かって演奏したつもりでしたが、あとで地図を見ると
同じ東経 135.8528 の真南183mに「志貴御縣坐神社」がありました。
間違いなくここが海人族の聖地「タカノミヤ(高宮・多賀宮)」だったのでしょう。
その本拠地に瑞籬宮が造営された理由は記紀に書かれています。
神武東征の折、長髄彦(ながすねひこ)との戦いで苦戦した磐余彦尊は
兄弟と相対し、兄磯城を殺して勝利しました。
その後、大王家に続々と后を送り込んで磯城氏を繁栄させたとのこと。
ここから北上し、四社目 「山邊御縣坐神社」を目指します。
天理市の住宅街に鳥居が!?
間違いありませんね。かつては広大な社地を有していたのでしょう。
観音堂の十一面観音が気になりますね。
無住の場合、現物はたいてい博物館などに保管されてますが?
いや、244cmの十一面観音がここに安置されているようです!?
ならば演奏修行させていただくほかありませんね。よっこらしょ…と。
えええ~!? なんでこんな格好を撮られてしまったんでしょう。とほほ…。
ここから桃尾の滝へ行った後、25号線を下り、169号線を北上して
天理教教祖墓地の西にある 「山邊御縣座神社」を目指しました。
が、やはり道が狭すぎて、見えているのに近づけません。
「行けるところまで行ってみますよ」
と運転手さんが進み始めた途端、倒木を除去している作業車が見えました⁉
万事休す…。そのままバックして奈良駅まで走ってもらいました。
六御縣神社への道は狭い!
これが今日の学びでした。