藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

佐那と阿波

ふふふ…フェイント。再び奈良へ⁉
先週、若草山へ行った折、地図上で
もう一つの都祁山口神社を見つけました。
けれど場所が離れていたので、後世に勧請されたのだろう
と想像して素通り。それが論社だったとは…。
しかも江戸中期の『大和志』(1734)は現 天理市杣之内町の都祁山口神社
「在山口村 今称水口明神」を式内大社に比定していたのです。
 
日本三代実録』天安3年(859)1月27日に正五位下とある「都祁山口神」は
大和国十四所山口神社の一つです。
天平2年(730)の『大倭国正税帳』(正倉院文書)には
「都祁神戸、稲壱佰参拾陸束、租壱拾束壱把、合壱佰肆拾陸束壱把、
用肆把祭神残壱佰肆拾弐束壱把」とあります。
 
私が足を運んだ都祁山口神社は標高約500mでしたから
山の口というよりは山の中?
しかも都祁水分神社の旧社地でした。
神社が目的ではなく、ミシャグジを思わせる「御社尾」の磐座へ
行っただけなので、社名や由緒を調べていませんでした。
よもや同名の神社があろうとは……。
 
という次第で、4日に戻ったばかりなのに10日に出かけることに。
都祁山口神社だけなら日帰りできますが、
わざわざ行くわけですから一泊します(押し切りました!!)。
そして今まで放置していた疑問とも向き合うことに。
 
古事記』によれば、粟国は大宜都比売(大粟比売神・八倉比売命)
律令制において長国造の領域を含め令制国として認められた粟国は、
和銅6年(713)元明天皇の好字令で地名の二字表記が推奨され
阿波国」に変更されました。
そんな「阿波国」の代名詞とも言える大宜都比売ですが、
伊勢国丹生の郷より神馬に乗り八柱の伴神とともに現在の徳島県へ移り、
粟を蒔いて国土を運営したと伝わります。
その上、粟とともに「阿波国」を構築した長の中心たる佐那河内の地名は
同じく伊勢国丹生の郷の佐那に由来するようなのです。
 
奈良へ向かう前に伊勢国丹生の郷とやらを探してみることにしましょう。
今日は数日前から降水確率80%でしたが、先週は2日3日とも34℃超と
暑かったので、熱中症の心配をするよりはマシかと…。
しかし、初めて乗った快速みえ、指定席が1両のみということで取れず、
自由席が1両のみとも知らずに乗り換えたら、発車15分前にはほぼ満席でした。
網棚もいっぱいで、座席から離れた場所に琴のケースを置いてます!?
電車の本数が少なく、タクシーを松阪から呼ぶしかない場所なので
なかなか足が向かなかったのでした…。
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丹生大師、正式名「女人高野丹生山神宮寺成就院」に行ってきました。
伊勢国丹生の郷と言われれば、私にはここしか思い浮かびません。
伊勢や志摩へ行った際に立ち寄ろうと何度計画しても実現しなかったのに
夜までに橿原神宮前に着けば良いというまたとないチャンスが訪れました!!
 
ここ丹生は古代より水銀の産地として知られ、古代日本で使われていた
水銀のほとんどが当地で採掘されたと考えられています。
もちろん、かの奈良東大寺の大仏にも丹生の水銀が使われました。
中世には日本で唯一の「水銀座」が存在し、全国各地からやってくる商人や
鉱夫らが「丹生千軒」と謳われた繁栄を支えていたそうです。
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社叢大好き人間の私、丹生神社の参道に圧倒されました。
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神宮寺を含めた広大な敷地に社殿が点在している感じも素晴らしいです。
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参道の奥には丹生中神社がありました。
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まさしく「多気町丹生」の地名にふさわしい由緒です。
丹生中神社に向かって左手が丹生神社の社殿でした。
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本殿は伊勢の神宮を意識しているのでしょうか?
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そして、前週玉列(玉椿)神社へ行ったせいか、椿が目につきました。
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伊勢椿は、文献に江戸時代でも「嵯峨天皇の御宇に植し」とあるため
空海が海石榴市(つばいち)玉列神社から移植した可能性も?
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こちらが↑伊勢椿の原木。
丹生神社の隣が神宮寺の薬師堂、その左手が本堂でした。
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そして、本堂の隣には↓空海像?
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さらに上ると大師堂があるようでしたが、階段工事中にて
撮影位置にあった東屋で演奏修行させて頂きました。
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大師堂の本尊たる「弘法大師像」は空海四十二歳の自画像として自ら刻んで
安置したと伝わるもので、二度の兵火をくぐり抜けてなお鎮座しています。
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女人禁制の高野山に対し、神宮寺は女性の参詣が許された「女人高野」でした。
この山容を維持できたのは、仏像や調度品の金具などのメッキ、
白粉など顔料の材料としての水銀生産によるものでしょう。
中世以降は次第に産出量が減り、衰退していったとはいえ、
近世の丹生伊勢商人発祥の地として、また丹生大師門前町・宿場町として
栄えていた様子がうかがえました。
 
今日の演奏修行旅は多気駅から松阪駅まででした。
丹生大師前後の神社についても画像をあげておきます。
佐那と佐那河内に関しては何の接点も見つけられませんでした。
ただ、タクシーで走っている道沿いの景色がとても似ていました。
海辺に住む海人族が好きな地形があるように、
山間部に住む海人族にも好きな地形があるのかな? と感じました。
 
なお、この周辺に難読地名が多いことには驚かされました。
運転手さんの発音を聞くと、まるで外国語のようでした!?
 
一社目は普通に相生(あひおひ)神社
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ただし住所が多気多気町兄国(えくに)?!
 
二社目は相鹿上(あふかがみ→おうかがみ)神社
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住所は多気多気町相可(あふか→おうか)
 
そして、三社目が佐那神社
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↑とても古社には見えませんが、古社です。近代社格は県社。
しかも住所が丹生地名を匂わす仁田(にた)でした。
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豊受大神宮(外宮)との関係が深く、神宮の式年遷宮に合わせて
外宮造替使によって社殿が建て替えられた6社のうちの1社だそうです。
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何しろ『古事記』や『皇太神宮儀式帳』に記載のある「佐那県」の名を
負ってますからね。近世にはこの周辺を「佐奈谷」と称していたらしいし。
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磐境も幾つかありましたが、祭神は天手力男命と曙立王命。
古事記』に「手力男神者、坐佐那那県也」
「此曙立王者、伊勢之品遅部君、伊勢之佐那造之祖」とあります。
 
ここから丹生大師へ。さらに松阪駅方面へ向かう道すがら、
松阪市御麻生薗町(みおぞのちょう)鎮座の天麻神社
発音がわからず検索したところ「てんま」と読んでおられました。
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私はタクシーでここまで来ましたが、下の階段からここまでのぼるだけでも
かなり時間がかかるのではないでしょうか。
そして、あのこんもりの頂点に社殿があるとはいえ、当社より奥の道路が
通行止めになるほどの大雨が降ったあとで泥濘んでいたため断念…。
 
次は松阪市庄町の紀師神社
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由緒不明ながら紀師神社の論社になっており
調べようがありませんでしたが、石積みが特徴的でした。
 
さて「阿波国」との関連が疑われる松阪市阿波曽(あはそ→あわそ)町に来ました!
社名は何と逢麻神社です。
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阿波国一ノ宮の一つ大麻(おほあさ→おおあさ)比古神社に対し、
「あふあさ」→「おうあさ」に着目する方もおられますが?
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社殿の左右に植えられた椿の木にのみ石垣が組まれているのも不思議…。
 
再び山麓の細い道に入り、松阪市射和町の伊佐和神社
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紀師神社同様、山腹にへばりつくように建てられていました。
石積みも似ていますね。社殿も似ているように感じました。
「いさわ」という社名から志摩国一之宮伊射波(いさは)神社との関連を
疑ってみましたが、稚日女尊(加布良古大明神)と伊佐波登美尊を主祭神とする
伊射波神社に対し、当伊佐和神社の祭神は建速須佐之男命でした。
 
この地域に阿波忌部の麻や、荒妙(麻)・和妙(絹)といった織物関係の社名および
地名が多く見られるのは、渡来文明の影響があったからかもしれませんね。
そして、漢字はあくまでも当て字であり、その読みを正かなで書いても
現代かなづかいで書いても、運転手さんの発音とは程遠いと実感できました。
 
ところで↓これは佐那神社にあった力石です。
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祭神が天手力男なので、巨石を持ち上げる力くらべと掛けたいのかもしれません。
この石を見て、気づいたことがありました。
愚か者という点では私の右に出る人は居ないと自負(!?)していますから
いつものように遅すぎる気づきなのですけれど…(12年も勉強して、やっと今?)
 
先ず、私の演奏修行の目的は、ヤマト王権の“まつりごとシステム”が
現在も機能しているかどうかを試すことです。
神が存在するとは思っていません。
音楽や宗教を純粋なものと受け取るほど単純ではありませんし、
いかなる事柄であっても信じたら終わり(思考停止)と自戒しています。
疑って疑って最後に残った上澄みに真理の片鱗が映し出されるのだとしたら
気が遠くなるほどの時間がかかって当然です。
生きているうちに到達できそうにない境地だからこそ、十代から
「人生は死ぬまでの暇つぶし」と嘯いてきた私にピッタリな"遊び"なのです。
("遊び"とはすなわち『梁塵秘抄』の“遊びをせむとや生まれけむ”に包含される演奏行為)
 
紀元前の中国において音楽と言葉が国の柱だったことは確かです。
孔子を読めば明らかですし、実際に古代中国では王朝が変わるたびに
楽師を皆殺しにし、新たな音律や度量衡を定めていました。
そしてヤマト王権はそんな中国の「礼楽思想」を採り入れたわけです。
律令制を確立しようとした天武&持統天皇は列島各地の先住民の祭祀を
奉献させて宮中祭祀を整えてゆきます。
日本列島を治めるためには国々の魂が宿る歌(言葉と音楽)を手中にする
必要があると考えたからです。その中で、コトも天皇の楽器となりました。
各豪族(征服された民)が伝承していた歌はヤマト王権の神楽歌となったのです。
 
701年の雅楽寮設置以降、複数の渡来音楽から「日本の雅楽」が醸成されてゆく
一方、日本古来の歌は宮中祭祀を担います。
そして現在の宮中御神楽(みかぐら)ノ儀の大元と言える形が完成したのが
一条天皇の御代(1002)でした。
 
その宮中の御神楽に「採物歌」と呼ばれるジャンルがあります。
(さかき)、(みてぐら)、(つゑ)、(ささ)、(ゆみ)、(たち)、(ほこ)等の
歌があり、人長(にんぢやう)という舞人の長がこれを手に採って舞います。
いわゆる神の依代というものでしょうか?
御神楽ノ儀でなぜそんなことをするのか、やっと気づきました。
 
神が常駐しているなら神迎をする必要はない
ヤマト王権が社殿や祭祀具、磐境などに神が常駐していると考えていたなら、
御神楽において依代に神を降ろす必要はありません。
こんな基本的なことすら私は考えてみませんでした。本当のバカですね。
 
朝廷が千年以上もの間、神迎・神遊・神上という御神楽ノ儀を続ける根拠は何か?
祭祀を通して国づくりの基本姿勢を知りたいと思いました。
そして今、6年余の演奏修行を経て、ヤマト王権の祭祀には征服した各氏族の
祖神を慰撫し、もてなすという側面があったのかもしれないと感じています。
 
天皇が神なら神迎をする必要はない?
明治の国家神道で「神」になった天皇ですが、年に一度くらいは
他民族の祖神を迎えてもてなしてきたのかもしれません。
(これでまた一年おとなしくしていて下さいねって頼んでたりして?!)
 
ヤマト王権が神を身近に常駐していないものと考えて祭祀を行なっていたとして
古代人はどうだったのでしょう?
磐境や巨木などに神が宿っていると信じていたのでしょうか?
もっとも太古は先祖神を祀るだけだったので
ご先祖様に手を合わせるという日常的な行為だったと思いますが。
 
今や祭神に関係なく、かつて敵対していた氏族の先祖にすら
「おねだり」に行く現代人が増えていると聞きます。
社殿や御神木に神が宿っているとも限らないのに
お参りに行くことにどんな意味を見出しておられるのでしょうか?
 
神の存在を認識したことのない私が演奏修行する目的は
大自然に触れることと壮大なる暇つぶし!?
その中で疑問が一つ一つ解消されてゆくのは途轍もなく楽しいことです。