藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

六御縣(むつのみあがた)神社

前回の続き…大和國六御縣神社です。
先日時間切れでまわれなかった「添御縣坐神社」。
現在、当社には二つの論社があります。
歌姫御縣山(みかたやま)鎮座と三碓(みつがらす)鎮座の「添御縣坐神社」です。
論社なので、祭神はいずれも以下の三神。
天照大神の弟とされる建速須佐之男命
スサノヲとの結婚を条件に櫛に変えられた櫛稲田姫命
添御縣の国魂神を祀る添縣主の祖神「武乳速命」(たけちはやのみこと)
 
未だ決着のつかない「添御縣坐神社」ですが、歌姫には長屋王の歌碑があります。
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佐保過ぎて寧樂の手向けに置く幣は妹を目離れず相見しめとそ (万葉集巻3-300)
 
申すまでもなく、神亀6年(729)藤原四兄弟によって抹殺された
高市皇子の長男 長屋王の歌です。
天武天皇の孫の中でも特に血統の良かった長屋王を自殺に追い込んだ
藤原四兄弟は、妹で聖武天皇の妻だった光明子を皇后に立てて政権を手中に
したものの、天平9年(737)にあっけなく全員が天然痘で病死。
昔も今も生臭い事件がありますね。
そんな歴史の舞台を歩くのもなものです。
(ちなみに、は神楽歌の墨譜に出てくる音楽用語でもあります。
急に音が甲高くなる箇所にはの字が付記され、低音が続く箇所をと言います)
 
また、天理市の「山邊御縣坐神社」の論社も二社あって
先日は二社目を眼前にしながら到達できませんでした。
今日も再チャレンジしますが、日没との戦いです。
先に書いちゃうと、
ナビに頼らず勘だけで運転手さんに指示を出したら行けました!!
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この時すでに17時を過ぎています。
どんどん奥へ入ってゆくと、変わったつくり!?
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二ノ鳥居の左手に社殿がありました。
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社殿に向かうと、9/11は正面右手の林の奥から当社を見ていたらしい…。
 
益田岩船社地は、住宅街にある井戸堂町の 「山邊御縣坐神社」より広いものの
どちらが真の?!「山邊御縣坐神社」かと問われれば、
わからないとしか答えようがありません。
あまりに長い年月が過ぎたとしか…。
 
さて、奈良へ行く前に、9/3に日没で断念した蚕ノ社へ行きました。
正式名称は木嶋坐天照御魂神社でしょうか?
左隣に小さな「蠶神社」の碑が見えます。
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ここに椿丘大明神が鎮座していると知って来ました。
海柘榴市の玉列神社絡みの興味です。
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ところが?! 入れません!!
更に本殿の方へ進むと…
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あれえ~~~?!
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これは、やはり、あの台風21号の被害でしょうか?
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9/3に来るべきでした(僅か1日の差でこんなことになるなんて…!?)
しかし、コンクリート製の三柱鳥居は無傷のようでした。
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太秦天神川駅へ戻る途中、当社から1分ほどの民家の前で話しておられたご夫婦に
蚕ノ社の樹木が倒れたのは台風21号の時でしょうか?」と尋ねたら、
「え?! 木が倒れてるんですか、全然知りませんでした」とのことでした。
至近距離なのに御近所の話題にも上らないのでしょうか…。
私など、三柱鳥居への興味で頭がいっぱいですが?
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東京都墨田区向島三囲(みめぐり)神社にある「三角石鳥居」です。
三井家が木嶋坐天照御魂神社の三柱鳥居を模した?
 
そもそも京都西部が養蚕・織物・染色の一大産地となったのは
秦氏が養蚕・織物の技術者を連れてこの地にやってきて
織物の祖神を祀る蚕ノ社を創ったのが始まりだそうです。
呉服屋を営む三井家も蚕ノ社を信仰し、その境内に
三井家の先祖 三井高安夫妻を祀る「顕名霊社」を1751年に建てています。
1831年、同社の三柱鳥居を再建した際には三井家も援助したようです。
明治以降、三井家の「顕名霊社」は
紆余曲折ののち墨田区向島三囲神社に移されたそうです。
松阪の豪商 三井氏が江戸進出とともに、享保年間に三囲神社を江戸における
守護社と定めたことが三井広報委員会のHPに記されています。
企業の柱が先祖を祀る神社?
三本の鳥居が井戸を囲むように立つから三井?
由緒には三井寺の僧のことも書かれていますね。
こうなると、
古代中国「後漢」の孝献帝の子孫で日本に帰化した三津首(みつのおびと)との
関連も視野にいれなくてはなりません。
天台宗の開祖 最澄=三津首広野(みつのおびとひろの)ら渡来人勢力と
三井寺=天台寺門宗総本山園城寺(おんじょうじ)、三井氏、
三柱鳥居にはどんな繋がりがあるのでしょうか?
 
海人族の本拠地の一つ対馬和多都美神社に三柱鳥居があるため
「三」にこだわっている次第です。
 
さて、先を急ぎましょう。太秦から京都駅へ戻り、近鉄大和西大寺へ。
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あ、秋の雲になりましたね。
 
先日の宿題「添御縣坐神社」です。
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たしかに「歌姫御縣山(みかたやま)鎮座」と書いてあります。
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参道沿いに「瓣財天」の碑のみありました。
社地は広いのですが、社殿は上の画像だけでした。
 
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車内から平城宮大極殿跡を眺めながら三碓の「添御縣坐神社」へ。
三碓(みつがらす)って、スゴイ地名ですよね?
三つ足鳥居とか、三本足のヤタガラスとか?
何しろ神武天皇を先導してヤマトに導いたヤタガラスですから、
奈良県には沢山の伝説や所縁の地があるようです。
 
添御縣坐神社」に着きました。
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やはり御縣神社への道は狭かった…!! ここから石段を登ります。
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驚きの「境内全域」重要文化財?!
ですが、社殿には興味がないので、道標に導かれて龍王神社へ。
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先ずは坂を登って天之香具山神社
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なぜ、ここに天之香具山神社
いったん登ってから、降りきったところに龍王神社
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奥に池があるようです。
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不思議な神社ですね…。
池と龍王神社があった場所に御縣神社を創建したのなら理解できますが?
結局、どちらが真の「添御縣坐神社」なのか、見当がつきませんでした。
 
次に向かったのは登彌(とみ)神社。またの名を木嶋(このしま)大明神と言います。
午前中に行った蚕ノ社こと木嶋坐(このしまにます)天照御魂神社と同じです。
両社の由緒を読むと、「天照御魂」とは「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」
(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)のことかと?
当地は何と、皇紀2年に神武天皇が皇祖天神を祭祀した場所と伝わります。
ヤマト地方の豪族たるナガスネヒコが奉じる神として神武天皇より前に
鎮座していたニギハヤヒが当地を明け渡したためと神話にあります。
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登彌神社にあった説明板です。
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私には理解できませんが…。
 
ここから更にニギハヤヒを追って矢田坐久志玉比古神社へ。
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プ、プ、プ、プロペラ!?
「航空祖神」とは、高千穂に天降って東征しなくてはならなかった神と違い、
ヤマトにドンピシャ天降ったニギハヤヒを讃えた言葉ではないかと…?
先の登彌神社矢田坐久志玉比古神社から分霊したとの説もあるそうです。
「天照國照彦天火明くしたまニギハヤヒ」ですから。
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ニギハヤヒも大変ですね。「このしま」に坐したり「やた」に坐したり…。
ニギハヤヒゆかりの神社が続いたあとは新城(にき)神社へ。
 
三月甲午朔、命小紫三野王及宮内官大夫等遣于新城令見其地形、仍將都矣。
己酉、幸于新城。
新城とは、663年の白村江の大敗後、「都はふたところ、みところに作れ」との
理念を掲げた天武天皇が新たな拠点を作ろうとした場所で、
3月1日に三野王らを派遣した後、16日に行幸しています。
戸隠と比べると、どこに魅力があるのだろう? と悩むような立地でしたが。
なお、現在の住所表記は「新木」です。
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さっき横を走った新城神社に近い「新木山古墳」が遠くに見えます。
この周辺は道が狭すぎて、ナビに指示された道はほとんど曲がれず、
周辺をグルグルまわるほかありませんでした。
ともかくタクシーが入れる道を探して行くほかありません。
20分近く迂回して、やっと到着!
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これは…?! 放置されてる? こんな草むらへは怖くて入れません。
でも、天武天皇が歌った記録のある大歌を歌ってみたい!!
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何とも根性のない、へなちょこな位置に座ってますね~。
また、今日は仕立て上がったばかりのシルク混コットンのワンピースを
着ていたのですけれど、湿度高め30℃の中を歩き回って汗をかき、
コンビニのトイレで着替えました。Tシャツってホントに楽ですね!!
明日の降水確率が50~80%だったので濡れてもよいTシャツを持参してました。
 
天理市の「山邊御縣坐神社」へ行ったあと、松阪へ移動。
ホテルへ入るや否やワンピースを洗濯し、
食事付きだったのでホテル内で松阪牛の陶板焼をいただきました。
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見た目よりは美味しかったです。
一泊二食付きで「黒毛和牛」が8,500円、
松阪牛」が11,500円だったので後者にしてみました。
あと、炊き合わせを追加したら丁度お腹がおさまりました。
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デザートの果物も美味でした。
朝食のバイキングにはトロットロの松阪牛スジカレーがあるんですって!?
小麦アレルギーの私には食べられませんが…。
 
明日の午前中は山登り! どうか雨になりませんように。