藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

古ヤマト?

古代のヤマトの中心はどこにあった? というのが積年の疑問。
漢字はあて字であり、発音が重要との視点から言うと
最右翼は「こやまと」ということになります。
今日はそんな「こやまと」を目指す旅ですが、
他にまわりたい場所もあるのでタクシーを7時間予約。
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若草山では鹿と遊びました!
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ここ若草山山頂へは有料道路を通って鶯塚古墳を見に来ました。
4世紀末に築造された全長103mの前方後円墳です。
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若草山を下りてからも古墳を幾つか見て、大和西大寺から京都へ移動しました。
 
こちらは↓同じく4世紀末築造の垂仁天皇皇后日葉酢媛命 狹木之寺間陵
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考古学的名称は佐紀陵山古墳。盗掘による修陵時の発掘調査によって
埋葬主体部の詳細が判明している数少ない古墳だそうです。
このあたりは古墳密集地なので緑が多く、別世界のようでした。
 
現実を見れば、台風21号が近づいて来ており、一刻も早く新幹線に
乗るべきでしたが、ベッドを替えたことで腰痛を経験中の私は
京都駅からホテルに直行してしまいました。
何しろ朝から荷物を持って坂や階段を上り下りした上、
縄文の磐座(?)を見るために山登りをしたので疲れ果てました。
 
今日最初に行ったのは大和朝倉駅に近い素盞鳴神社でした。
朝倉で神楽歌《朝倉》を歌いたかったし、
昨日行った玉列神社素盞鳴神社遥拝所があったためです。
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画像左寄りのこんもり辺りが玉列神社でしょうか?
大和朝倉駅南口から見ると、近鉄大阪線を挟んで北側に玉列神社
駅を出て南面すると左手に見えるこんもりの中に素盞鳴神社がありました。
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思いのほか小さな神社で、拝殿の前には座るスペースもありませんでしたが、
社殿の奥には磐座があるそうです。拝殿前からは全く見えませんでしたが↓
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ところで、大正10年に大神神社の摂社となった玉列神社はなぜ
この素盞鳴神社を遥拝しているのでしょうか?
もしかすると、昨日私が祭神に感じた違和感と関係があるかも?!
現在、玉列神社の祭神は大神神社の祭神たる大物主大神の子 玉列王子命。
では、それ以前は?
かつて椿大明神と呼ばれた玉列神社と椿つながりの
椿大神社都波岐神社の祭神は猿田彦大神ですが…?
謎は尽きません。
 
再び大和朝倉駅へ戻って予約していたタクシーに乗ると
もう汗ダクでしたが、素盞鳴神社は車では行けませんでした。
次に向かった大宇陀本郷の八阪神社は、地図に道がありませんでした。
しかもナビ通りに走って行ったら、行き止まり!?
「私が勘だけで走ってみていいですか?」と仰って
運転手さんが細い坂道をドンドン登って行ったら鳥居がありました。
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ビックリです!! 結局、運転手さんの直感に支えられた一日になりました。
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石段を登り、赤い鳥居をくぐったら円形の台地になっており、
更に階段を登った所に本殿がありました。
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Google Maps に道が載っていないような場所に
これほどきれいに整えられた神社があろうとは!?
目的地の逆方向へ走ってきた甲斐がありました。
 
ここからは、更に南下し、上芳野の総社水分(みくまり)神社へ行きました。
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当社の祭神は女神で、宇陀水分神社男神なのだとか。
まあ、全ては人が決めたり変えたりするわけですが…。
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とても立派な社殿でした。
 
続いて行ったのは、その名も菟田野大神鎮座の神御子美牟須比命神社です。
かの大神神社の奥宮と聞いて、立ち寄ることにしました。
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式内社にして古首(こす)明神」とは!?
長ったらしい神名より重要かと思われますが?
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小ぢんまりとした社殿ながら、高台にあり、たしかに清々しい場所でした。
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ここからは一気に下って近鉄大阪線を越え、都介野岳を目指します。
都介野岳は都祁富士とも呼ばれる標高631mの独立峰ですが、
裾野の標高が500mなので、さほど高く感じません。
その東麓 都祁小山戸(おやまと)に鎮座するのが都祁山口神社
今は「おやまと」と発音するらしい小山戸に惹かれました。
しかも、都介野岳周辺には縄文の遺跡があるのだとか。
そして何と、都祁山口神社から登って行くと御社尾の磐座があると言うのです!!
御社尾は「ごしゃお」と発音されるらしいのですが、
縄文のミシャグジ神に通じる「みしゃ」とも読めます。
ここが今回の旅のメインです。
 
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先ず都祁山口神社に入り、右手の階段を上ります。
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そこから尾根づたいに木の根が突き出た険しい道を歩きます。
雨が降っていたら絶対に到達できなかったと思います。
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途中(およそ中間地点?)、苔むした石があり、運転手さんが
「ここですかね?」と仰ったので、
「縄文の巨石信仰なら石に文字を彫ったりしないと思います」
と申し上げました。「都祁○○○」の五文字が彫られていました。
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磐座の手前には、こんな巨石が!?
ここからが参道というか、道らしい道です。
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ちょっと大きさがわかりづらいのですけれど
岩盤の頭部のみが出現しているようです。
奥まで行って見るには鳥居をくぐらねばならず、
そんな勇気はないので裏側からは撮っていません。
 
御社尾の磐座に関しては、
都祁水分神社の起源となる磐座で、元慶3年(880)に水分神が白龍の姿で降臨した
と伝わるとも言われますが、それなら御社尾の名はミスマッチでしょう。
 
ともかく、「おやまと」の地に「ごしゃお」の磐座があったことを
「古ヤマト」の地に「ミシャグジ」の祭祀があったと脳内変換して大満足の私。
益々あぶない奴になってきました。
 
ここで、宇陀市室生多田という住所に興味を持ち、北東方面へ。
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小ぢんまりとした春日神社ですが、「ムロ」「タタ(ラ)」という
製鉄地名なので太古の祭神はどうだったのでしょうか?
また、この地域の本殿が丹生を思わせる朱塗りであったことにも惹かれました。
 
ここからは一路北上し、柳生を目指しました。
奈良市大柳生町の水木古墳群の向かいにある夜支布山口神社です。
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巨木が林立する夜支布山口神社ですが、巨石信仰の立磐神社の地に
あとから押しかけて来たらしいです。
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かつての大和国添上郡柳生郷は柳生家発祥の地とされ、
「夜支布」「夜岐布」「楊生」「養父」などの表記を「やぎふ(やぎゅう)」と
発音してきたようですが、戦国時代に衰退した柳生氏が台頭したのは
家康時代だったと言われます。
そして明治維新まで柳生藩を領した柳生氏は、明治に子爵となりました。
 
ただし夜支布山口神社については、
當社地は立岩に神霊が宿る霊地として巨石信仰の古代から崇拝され、
立岩の前には早い時期から社殿が建てられていたが
後世に山口神社が當社地へ移され立盤の神が攝社となった神社である。
春日大社蔵の記録及び社殿から發見された墨書によると
現社殿は春日大社享保御造替時に新造された本社本殿の第四殿を
延享御造替時(一七四四~一七四七)に當地へ移譲されたものである
と記されています。
(一説に、もとは当社の南方600mほどの集落に鎮座していたとも…)
 
延喜式神名帳』によれば
大和国には夜支布・伊古麻・巨勢・鴨・当麻・大坂・吉野・石村・耳成・都祁の
山口神社と、長谷・忍坂・飛鳥・畝火の山口坐神社があったようです。
 
もと春日大社の第四殿で国の重要文化財に指定された社殿と立岩
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ここから奈良奥山ドライブウェイへ行く途中、最後に立ち寄ったのが
忍辱山町の素盞鳴尊。奥まった急坂の突き当たりにありました。
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本殿はもちろん、拝殿兼神楽殿も坂を登り切るまでは全く見えません。
驚きの空間でした。そして本殿はやはり朱塗り。
 
まだまだ考えはまとまりません。今後も足を運びたいと思います。