藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

鰍沢(かじかざは)~身延

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「国見平ダイヤモンド富士」と地図にあったので行ってみました!
運転手さん曰く「お正月に頂上付近から太陽がのぼる」とのこと。
 
古い文献に、湖だった甲府盆地の水を鰍沢口から富士川へ流す様子を
朝廷の責任者がチェックするための宿舎を置いたのが国見平で、
富士川を眺めた場所が天戸と書かれていました。
たしかに、国見平からは富士川が見えません。
天戸の集落へも登ってみました。
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木が繁っていますが、富士川を見下ろせます。
 
先日は富士川沿いの道を直進しただけでジグザグ道を登ったりしませんでしたが、
帰宅後、ヤマト王権甲州における最初の拠点であったらしいとわかり再訪。
 
今日の一社目は富士川を挟んだ対岸の花開神社でした。
前回、蹴裂神社を回ったのち、佐久神社が仲間だったとわかり、
他にもあるかもしれないと探したら花開(けさく)神社がありました!!
 
ここから時間を巻き戻しますと、富士橋から撮った富士川
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そして市川三郷町山保の集落最奥の斜面に張り付くように鎮座する花開神社
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階段を上って右奥に社殿がありました。
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本殿は覆屋で守られています。
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拝殿右の祠(右端)に大きめの丸石が祀られていました。
鳥居下の畑で作業しておられた御婦人に社名を訊いてみました。
「私は嫁に来ただけで地元の人間じゃないからわからないけど
はなびらき神社じゃないかな?」と仰います。
けさくと書かれていたのですが、祭神はどなたでしょうか?」
コノハナサクヤ姫です」
 
わかりました!
コノハナサクヤ姫の表記の一つに、木花開耶姫があります。
すると、はなさく神社、転じてけさく神社かも?
蹴裂(けさく・けさき)神社の仲間ではありませんでした。
いったい何をやっているのでしょうか…私。
ここから先は前回の復習ですし。
それだけ甲州の神社が複雑化していて一筋縄ではいかないということでしょう。
 
天戸と国見平へ登ったあとは、しばらく52号線を道なりに南下します。
身延町に入り、切石という意味深な地名を右折。
夜子沢という集落に天然の石膏が出ていたとの情報があったのです。
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ゲゲゲ…?! 何やら激しく崩れてますよ…。
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実はネット検索でこの案内板を見つけて、ここまでやってきました。
だって、石膏は白なのに、社名が赤石神社なんですよ…。
運転手さんは「赤はセキだから、セッコに当て字したとか?」と仰いますが?
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この地域が非常に豊かだったらしいことは赤石神社からも想像できます。
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社地は狭いのに随神門があります。
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石段を登る前に道路から見上げたら、屋根瓦に「赤」の字がありました!
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随神門をくぐったら一段上に拝殿がありました。
この石段を登って奥へまわると、素晴らしい細工の本殿が!?
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私が見た案内板を探していたら、下の道路際にありました。
その位置から赤石神社の裏側を撮ってみました。
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社地そのものがL字カーブを利用した船形にも見えますね。
しかし、本殿の位置から横を見ると、ここも崩れそうで怖い…。
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まだ石膏を採掘しているようにも見えますが?
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それとも県指定の「天然記念物」として管理されているのでしょうか?
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いずれにせよ、豊かな地域だったようですね。
 
ここから更に南下して「一宮 賀茂神社」を目指します。
まさしく「一宮」は自己申告制(?!)の典型のような?
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運転手さんが「なぜ身延に京都の神社が?」と目を白黒させておられます。
私は社紋が「三」だったことに目を白黒させました。
拝殿左手の社務所に女性の方がおられたので尋ねてみました。
「5年前に京都の賀茂神社から御分霊をいただきました」
は? 5年前に…ですか?
帰宅後、当社のHPをチェックすると
奈良時代(天平勝宝年間・西暦750年)、京都上賀茂神社より勧請されたとある。
と書かれていました。
賀茂神社の総本社である京都の上賀茂神社下鴨神社
世界文化遺産に登録されております。
とも。
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ああ…それでかなりこぢんまりとしていますが、砂を。
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もう少しきちんと盛られた方がよいと思いますが、余計なお世話ですよね。
こうしたオブジェよりも歴史がありそうなのがこちら↓
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ほぉ? 「源為朝」ねぇ…。疱瘡神ときたら相場は決まってますが?
なぜこの祠を拝殿の左に置いてあるのでしょう?
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…で、「一宮」って何よ? と思ったら、HPにありました。
河内領 一之宮
だそうです。しかも近くに「二宮」「三宮」も!?
当社から「二宮」下加茂神社までが直線で240m。
「三宮」飯縄神社までが直線で340m。
画像を見たら、草ぼうぼうで到達できそうにありませんでした。
 
「二宮・三宮へは歩いてゆけますか?」
「当社の兼務社ですが、私は行ったことがないのでわかりません」
は? 至近距離なのに?
「では地図の通りに行ってみます。ありがとうございました」
ということで行きどまりまで車で行きましたが、藪で先が見えませんでした。
 
次はいよいよ信玄の隠し金山とも呼ばれた奥の湯周辺へ。
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賀茂神社から少し北へ戻り、富山橋を渡ってトンネルをくぐり
常葉川を渡って下部温泉駅でトイレ休憩。
すぐ近くに「甲斐黄金村・湯之奥金山博物館」がありました。
駅から下部川沿いの狭い坂道を登りつつ下部温泉郷を通過し、湯之奥へ。
山間部の金山まで行くのは無理なので、
舗装路のある湯の奥が限界ということで行ってみました。
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またしても「徒歩にての所要時間」に騙されました!?
写真ではわかりづらいのですが、物凄い急勾配で足が進みません。
途中で引き返そうかとも思いましたが、ここを登ってみることが重要と考え、
運転手さんにお願いして車を上の道に移動して貰いました。
想像通り、湯の奥山神社から左へ進む道の勾配は緩やかでした。
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けれど山の生活を垣間見るにはここを徒歩で登る必要がありました。
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国の重要文化財「門西家」ですが、「もとは佐野姓」が引っかかりました。
阿讃山脈を走っていた時、よく佐野姓が出てきたので山岳地帯に強い氏族かと?
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この建物は集落の中で異彩を放っていました。
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何とか「下部町指定文化財 天然記念物 うらじろがし」の看板まで来ました。
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この古木が「うらじろがし」なのでしょうか?
山神社の名にふさわしい佇まいですね。
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ちょっと吉野の山奥にいるような錯覚にとらわれました。
暑い中、急坂を登ってきて汗がとまらず朦朧としていたからでしょうか。
 
さぁ、そろそろ時間切れです。
もう一社、蔵王神社へ行きたかったのですけれど、
地図にのってないほどの山道を走って片道30分と出ました。
特急に乗る身延駅までは25分。駅前に子之神社があるようです。
残り時間次第で、演奏修行できるかもしれません。
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ん? 「大國主命殿」?
あ、根の国底の国で子之(ネノ)神社ですね!?
まるでとってつけたように駅の真ん前にありました。
ここはやはり富士川の守りということで納得するしかありません。
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社殿の裏手を通る遊歩道がありました。今日下って来た甲府方面を望みます。
正面に見えるのは南アルプスの青笹山・青薙山でしょうか?
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身延~富士までは特急。その先は鈍行で蒲原へ。
行けそうで行けなかった駿河国二宮 豐積神社へやっと行けます。
静岡神社庁のHPには「とよすみ」とありましたが、
地元の方は「とよづみ」と濁られます。
豊玉姫」と「安曇」をくっつけたような名前ですね。
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あ、創建当初の祭神は「豊受姫」でしたか…。
豊玉姫」でも「豊受姫」でも、所詮、人の創作ですから。
それにしても、「積」を「すみ」と濁るのは不自然です。
そして、ここでも「木花開耶姫」!?
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しかし、駿河国二宮とは思えないほど暗くて寂れた感じですね…。
縄文海進を考えると海岸沿いの神社よりも高台の神社が重要でしょう。
出発前に検索して縄文の遺跡を見つけました。
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「当神社」とは由比阿僧の阿蘇宇神社です。
拝殿の前から鳥居越しに海と伊豆半島が見えました。
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現在は高台ですが、かつてはこのあたりまでが海だったので
近くに「ふなつ」(?)という地名があると運転手さんが教えてくれました。
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こんな風景を見ながら下りて由比駅へ。
解決される疑問は極めて少なく、新たな疑問は増えるばかり。
もう少しフォッサマグナを歩きたいですね…。