朝、ホテルから小淵沢の大滝湧水へ直行しました。
この青空で、気温は20℃超え(甲府は29℃超え‼)です。
荷物が多かったので、運転手さんが神社の前へつけて下さいました。
でも階段は上がっていません。隣から水音が聴こえたので。
すばらしいですね! 昨日、雨の中を移動した疲れも吹っ飛びました。
さて、どの神楽歌を演ろうかしら? と思ったら↓カニ?!
もう何度目でしょう? カニが一緒に石段を登ってくれたこともありました。
ここはもう稲搗き蟹の歌しかありません。
演奏修行していたら、視力0.05の私にも朧げながら
何やら階段らしきものが見えました。
楽器を片付けてから撮ってみたら、磐座への石段でした。
もちろん石段を上ったりせず、早々にタクシーを呼んで駅へ向かいました。
まだ雲が多いようですが、日焼け止めは必要でしょう。
小淵沢から鈍行で山梨市へ向かう車中でupしました。
前回の運転手さんにお願いして、夕方まで甲府盆地を走り回ります。
山梨市駅の改札で、2週間前にお世話になった運転手さんが
待機して下さっていました。
先ずは山梨市駅から4分ほどの山梨岡神社です。
甲州ほど同名の神社がひしめき合っている地域は珍しいのではないか
と思われますが、石森山の山梨岡神社は江戸時代は「熊野明神」、
御室山の山梨岡神社は「日光権現」「山梨明神」などと呼ばれ、
明治元年に山梨岡神社と改称。
どちらが延喜式内社山梨岡神社であるかはわかりませんし、
どちらも違う可能性もありますが、興味ありません。
私にとって重要なのは、石森山にダイダラボッチ伝承があること。
甲府盆地にポツンと唐突に(!?)存在を誇示するかのような石森山。
石の狭間を登って山梨岡神社へ。
まるで城塞ですね…。
もちろん社殿は素通り。360°の眺望が期待できるてっぺんを目指します。
ここがてっぺんで、当たり前ですが、やはり360°見渡せました。
私の前にあるプレートは「朝日崔」。朝日を仰ぐ崖という感じでしょうか?
以前、花輪台貝塚で歌った《昼目歌》を演ることにしました。
いかばかり よきわざしてか 天(あま)照るや
ひるめの神を しばし止(とど)めむ しばし止めむ
いづこにか 駒を繋がむ 朝日子が
さすや丘べの 玉笹の上に 玉笹の上に
御神楽では、神迎えをして神と遊び(音楽を奏すること)を楽しんだのち
神送りや神上げの歌が演奏されます。
その中でも《昼目歌》は少しでも長く神にとどまって頂けるよう
「よきわざ」を披露したり、朝が来ると去らなくてはならない神の
乗物たる駒(馬)を朝日のさす丘に繋いで準備しておきましょうと歌います。
甲府盆地において甲斐の黒駒を繋いでおくに相応しい丘と言えばここでしょう。
下りる際、「朝日崔」の右奥に回り込んで
古代人なら神楽岩とでも呼びそうな平べったい巨岩を発見‼
この上に座って演奏すべきでしたね…。
次は「橋立明神」に関連する 3社です。
その名称から天の橋立を本貫とする海部氏の斎く神と確信してルートを決定。
山梨市駅に近い順で、橋立大神社から。
お⁉ 運転手さん凄い。社地の広さがわかります。私、演奏してるので。
しかし残念ながら由緒書きがありませんでした。
次は金櫻神社なので全く期待できません。
金峰山の金櫻神社とは無関係な方を向いていますが?
最後に、住所が一宮町「橋立」の甲斐奈神社へ。
「聲に今一段よけいあると、人に聞せ謡ふ者、けいこのつみたる人としるべし」
を体現するために、理学療法士さんの助言も容れて、
背中や腰をできるだけ丸くして歌っています。
背中や腰をシャンと伸ばすと、立派に声を張り上げる歌い方になりがちなので。
こののち宮司さんに質問を投げかけたところ、
ご自身の調査内容を踏まえて御教示くださいました。
可能性があると仰います。
「坂折宮」の現住所は笛吹市御坂竹居で、
竹居はヤマトタケルが居た土地を表しているとの説らしいです。
御坂だけあって、坂道を鋭角に曲がりつつ登って車を停めました。
振り向くと、甲府盆地が見えます。
徒歩で上がっている時、桃畑の横に置かれた「坂折宮」の石碑を発見⁉
すぐ上のこんもりのようです。
これはまた、道が狭すぎて訪れる人を拒むかのような立地ですよね?
あったのは比較的新し目の石碑と小さな社殿のみで、
こちらが本当の「酒(坂)折宮」なのかどうか、真偽の程は不明。
予定外の「御坂」まで足をのばしたので一社カットし、鉾衝神社へ。
424年創建とあるものの、異名同音の桙衝神社へ行ったことがあったため
関係の有無を確認したく訪問しました。
424年とは、アメノウヅメを祀った時を言いたいのではないでしょうか?
鳥居をくぐって左に、何気に「源氏代々の祈願所」とありました↓。
桙衝神社から勧請した可能性は低くないと思われます。
ただし源氏が勧請したとなると、424年はあり得ません。
現 鉾衝神社の前身が境内社として残っている可能性あります。
鳥居から見えない位置、拝殿に向かって右側に小さな社がありました。
もちろん、上の画像の〆縄をかけられた石の可能性もありますが?
諸々の祈願・奉幣があったという表門(うわと)神社です。
ゲゲゲ?!「八乙女宮」?
後方に表門古墳があるので表門神社だと思うのですが?
古墳のてっぺんに本殿があり、上がってくれた運転手さんが
「稲荷神社でした」と不思議がっておられました。
でも、ここは、八乙女神社でも稲荷神社でもなく、表門神社なんです。
「向山土本毘古王」とする説がありましたが、現在では女性とされています。
その「向山土本毘古王」の本拠地とされるのが
上の平方形周溝墓群の南数百メートルに鎮座する佐久神社です。
高台にあって、眼下に下流で滝戸川と合流する小さな川が見えます。
佐久は裂くに通じるそうですが、どこをどう裂くのを見ていたのでしょうか?
低くて狭い丘陵にへばりついているといった風情の社殿でした。
いま、古代との繋がりを感じようとするのは難しいようですね…。
この略記にある「紀元前561年頃 甲斐の中央部は一面の湖で」との記述が
縄文中期の大規模遺跡の発掘などにより否定されているとはいえ、
わざわざ漢文でこの原文を書いた、政治的とも言える意図は無視できません。
今日はもう一社佐久神社へ行きます。
先ずは蹴裂神社や佐久神社の位置関係をチェックしておこうかと…。
ここから北上して笛吹川を渡り、3社目となる宇波刀神社へ。
町中の普通の神社ですが、社殿に向かって右手の木と祠が気になりました。
社殿を無視して演奏する私、ホントにおかしいですよね…。
↑捻れを悪化させた靴も揃えてませんし!?
韮崎市円野町下円井(円比女絡みの地名)の宇波刀神社のルビは「うわと」、
甲府盆地鎮座の当社は「うわと」。「波」は「わ」ではなく「は・ば」ですが?
こうなってくると、もう日本語も神社の社伝もどうでもよくなりますね…。
信頼できるデータを見つけられず、ほとほと嫌になりながら、
意地で最後の佐久神社へ向かいます。
案内板があってもなくても困る私。
祭神が「天手力雄」(あめのたぢからを)だと思ってきたら「天手刀雄」?!
それ、誰? 状態ながら、しょせん神なんて人がつくったものですから。
むしろ地名の「河内」(コーチ)に惹かれてやってきました。
せめて演奏修行だけは真面目にやっておきましょう。