藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

秩父御牧

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今日は、秩父御牧を巡る予定です。
が、阿久原(あぐはら)阯に石碑が建てられているのに対し、
秩父石田牧は所在がわからないそうです。
ただ、秩父御牧秩父市北部とあり、
野牧(現 野巻)の地名が御牧の転訛との説が有力との情報があるのみ。
 
日本列島に馬がやって来たのは4世紀半~5世紀の古墳時代です。
馬の博物館副館長 末崎真澄氏は、埴輪の馬像は鬣が起立していて
より野生種に近い蒙古系馬の特徴と思われるとの見解をもとに、
鮮卑系の騎馬文化を有する人々が、野生に近い蒙古系の馬を連れて来て
東国で馬の生産牧場を開拓・運営して「牧」を完成させていった
と話しておられます。
 
また、東京大学史料編纂所教授の山口英男氏は
大和朝廷にとって甲斐・信濃・上野・武蔵は馬の産地で
これらを御牧(勅使牧)としたのは文武天皇だけれども、
朝廷が直接開拓したわけではなく、東国への版図拡大に伴ない
既存の「牧」をそのまま取り込んでいったと思われると分析されています。
 
そんな秩父御牧を特定すべく、
西武秩父駅近くのホテルから北上しました。
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秩父市堀切の駒形神社から見た武甲山(1,295m)です。
現在 GoogleMap で確認できる秩父駒形神社は一社だけ。
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当社は周囲を5つの椋神社に囲まれ、その範囲内に3つのゴルフ場があります。
よって馬場としての必要条件は満たしていると思います。
しかし甲斐の御牧に関わる神社は御牧を見下ろせる場所にあったため
社名が駒形だからというだけでよしとはできません。
 
運転手さんにお願いして、進行方向とは逆の野巻椋神社へ行って貰いました。
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え?! 読み方は「むく」ですか?
延喜式神名帳』には「クラノ・ムクノ」とありました。
また5ヶ所(野巻・吉田・皆野・中蒔田・上蒔田)椋神社
いずれも式内社の論社で、どこが式内社なのか特定されていません。
 
実は、「」と「御牧」に関して、ちょっとした妄想が!?
 
かつての山城国久世郡御牧(現 久御山町)の近く
京都府宇治市小倉町に巨椋神社があります。発音は「おぐら」。
もともと小倉町春日森にあったものが遷座したとか。
古代氏族「巨椋」連が祖神を祀ったことに始まるとされています。
巨椋氏は『新撰姓氏録』に
山城国神別 巨椋連 今木連同祖、神魂命五世孫阿麻之西乎乃命之後也」
とあり、木地師の一族だそうです。
 
同じく『新撰姓氏録』に氏があります。
和泉国神別 天孫 連 同神男天香山命之後也」
氏や巨椋氏と御牧の直接的な関係はわかりませんが、
山城国久世郡に巨椋神社があり、御牧があった…。
 
また、久世郡の御牧の場所は特定されていないものの、
昭和29年(1954)10月1日に御牧村と佐山村が合併して生まれた久御山
一帯が御牧と呼ばれた朝廷直轄の牧場だったとの説もあります。
奈良時代には橘諸兄がここから一頭の馬を選び、聖武天皇に献上したとか。
久御山町の「御」も御牧に由来すると言われます。
 
かなり強引ですが、秩父椋神社が5社あると知ったとき、
氏や巨椋氏が関係しているかも? と妄想が膨らみました。
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取り敢えず、今日は御牧(みまき)に発音が近い野巻(のまき)椋神社へ。
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眼下に馬場に向いていそうな土地(ゴルフ場?)が広がっています。
画像右端の御神木↑立派ですよね…↓
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どなたかいらっしゃれば、神楽殿で演奏修行させて頂きたかったのですけれど。
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同行者が居ると、演奏姿勢をチェックできるので助かります。
理学療法士さんの指導により、腰を緩め、
身体が「つ」の字を描くように座っています。
クラウチングスタートみたいに重心を深い位置で保つため、
腰を真っ直ぐにして歌うよりも瞬発力が出ます。
『其の駒』を演ってますが、加速する「揚拍子」も楽々でした。
 
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神川町方面へ行くため、「国神」の交差点を左折。角に国神神社がありました。
 
ここから北上してゆくと、神流川(かんながわ)の手前に「上阿久原」の交差点。
そこに道路で三角形に区切られたこんもりがあり、駒形稲荷神社が鎮座。
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本当に狭いスペースにコンパクトな祠!?
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下に見えるのが13号線です。
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わざわざここを総勢7人で訪れたのが水戸の黄門様⁉
元禄8年(1695)3月18日に児玉党の旧跡を訪ね、歌を詠みました。
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指定文化財  源 光圀の歌碑
阿久原に遠峯維行のあとを訪ねて
阿久原の牧の稲荷に鈴かけて いななく駒に いさむ武士(もののふ)
 
遠峯維行とは、のちの児玉惟行(こだま これゆき)で、
承平3年(933)4月の勅旨で官牧となった阿久原牧別当として
派遣された官人ながら、その後も武蔵国に留まり、
武蔵七党(武士団)の一つ児玉党の祖となりました。
 
駒形稲荷神社からは真西へ。同緯度の丹生神社です。
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「にゅう」でしょうか、「たんじょう」でしょうか?
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「たんしょう」でしたね。
しかも「阿須和」でも「阿諏訪」でもいいなんて…⁉
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社殿奥の木の向こうから神流川が流れる音が聞こえてきます。
たいへん清々しい空間でした。
 
「上阿久原」から南下して「下阿久原」の駒形明神社へ。
飯盛山麓に祀られている駒形明神社は遠峯維行=児玉惟行の創建といわれ、
阿久原牧の守護神として児玉党の信仰が厚かったそうです。
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ゴルフ場に隣接したこの程度の勾配を登ります。
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現在はこれだけ…でしょうか?
右から縦に読みますと、阿久原牧阯(県指定遺跡)
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次は二ノ宮 金鑚(かなさな)神社です。
常陸国なら金砂(かなさ)神社といったところでしょう。
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金鑚(かなさな)」は
砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」が語源であると考えられています。
神流川周辺では質の良い砂鉄が得られたと言われ、
御神体山たる御室山=御嶽山(標高343.4m)からは鉄の産出があったそうです。
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駐車場横の多宝塔は国指定の重要文化財で天文3年(1534)の建立。
心柱の墨書に「天文三甲午八月晦日、大檀那阿保弾正全隆」とあるそうです。
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こちらが拝殿。向かって左手に神楽殿がありました。
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この地を二ノ宮と言いますが、金鑚神社はもともと
北東約400mの地に鎮座し(現 元森神社)、そこから御室山を遥拝していました。
ほかにも周辺に金鑚神社が散見されますが、
本庄市児玉町入浅見の金鑚神社には古墳があるとわかりました。
その地名から武蔵七党中最大の武士団 児玉党
阿佐美(あさみ)氏発祥の地とわかります。
児玉党本宗家4代目庄太夫家弘の五男が
入浅見(浅見郷)に移り、阿佐美と名乗ったそうです。
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「あ あ あ、あれ古墳じゃありませんか?」
鳥居もなければ道標もない道路から脇道に入って叫びました。
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赤い社殿が見えていたので、斜面をあがります。
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社殿の前に立つと、後方が参道だとわかりました。
 
当社のすぐ北の児玉町蛭川に駒形神社があって
児玉党の本宗家2代目 児玉弘行が神田を寄進したとか。
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こちらは児玉党の本宗家4代目庄太夫家弘の四男が今井郷蛭川荘に移住して
蛭川氏の祖となっていますが、室町時代の蛭川郷は丹党安保氏の領地でした。
古墳時代とは年代が違い過ぎて古墳の主はわかりませんが、
古代製鉄に携わった氏族の可能性が高いのではないでしょうか?
 
武蔵七党は平安末期から鎌倉時代室町時代にかけて
武蔵国を中心に下野、上野、相模など近隣諸国にまで勢力を伸ばした
同族的武士団の総称で、その構成氏族は文献によって異なります。
 
武蔵七党系図』によれば
横山党(先祖は小野篁)
猪俣党(横山党の一族が猪俣となる)
野与党(先祖は桓武平氏の平基宗と称す)
村山党(先祖は桓武平氏の平基宗と称す)
西党(土着した武蔵国日奉宗頼の子孫が西氏を称す。西野党とも)
丹党(平安時代に関東へ下った丹治氏の子孫を称す。丹治党とも)
児玉党(本姓は有道氏。本宗家は児玉氏→庄氏→本庄氏)
 
すると、もともと阿須和大明神だった丹生(たんしょう)神社
丹生(にふ)の産地などではなく、丹党氏神だったのかも知れません。
 
平安時代末から中世にかけての武蔵七党の活躍で
水戸黄門までもが訪れたという秩父ですが、
秩父は「和銅」の献上により年号が和銅(708)に改まったとされるほど
古い歴史をもっています。
今回はそこまで踏み込めませんでしたが、金鑚神社古墳の主を含め
今後その歴史に迫れればと思っています。