これだけでも注目に値するのに、
13歳で(叔父とされる)大海人皇子の妃の一人となったうののさららは
671年に夫が朝廷を去って吉野山に入るのに従っています。
弟を討つべく「壬申の乱」(672)の首謀者の一人となりました。
さららの肉親への情愛とは、どんなものだったのでしょうか?
649年に父 石川麻呂が弟の讒言により中大兄皇子の軍に攻められて
自害したことで心身のバランスを崩し、憂死したとも言われます。
石川麻呂は本宗家たる蘇我蝦夷・入鹿を抹殺しようとする
その後、右大臣となったものの、結局は娘婿に討たれてしまいました。
祖父が死んだ年、僅か4歳だったさららは、母が
疑心暗鬼になり、心身を蝕まれてゆく様子を見て育ったわけです。
幼くして母を喪ったさららは、或いは
父に対してネガティヴな感情を抱くようになったのかもしれませんね。
母の死は、さららの人生にどんな影を落としたのでしょうか?
後継者になっていましたが、天武天皇の遺児の中で最も人望が厚かったのは
何としても我が子 草壁皇子を即位させたいさららは
689年4月、27歳で病死。
いかなる因果なのでしょう?
またしても後継者選びの時期に? と
高市皇子の死に疑問を抱く人もあったようです。
因幡国の豪族の娘 伊福吉部徳足比売(?-708)でした。
遺体は3年間の殯の後、和銅3年10月に当時流行し始めていた火葬にされ、
現存する16のうちの一つという貴重なものでした。
その伊福吉部徳足比売の子孫で作曲家の伊福部昭氏が
初演者の一人として私もオープニングコンサートに参加させて頂きました。
万葉の歌のおかげで古代を身近に感じられるようになってきた気が…?
そんな妄想はさておき、本題のうののさららに戻りましょう。
先日、ぼお~っと地図を眺めていたら
「当地域は娑羅羅(さらら)馬飼部・菟野(うの)馬飼部の居住地であった」
との由緒をもつ神社がありました!?
斉明天皇ったら、さららのおばあちゃんですよ。
吉野宮をつくり、さららも何度も吉野へ行ってましたよね?
社伝を鵜呑みにするほど単純ではありませんが、ともかく行ってみなくては。
↑画像のてっぺん左寄りに「鳥飼(とりかひ)」があります。
かつて鳥養(飼)牧や離宮鳥養院があったそうです。
現在「此附近鳥養院址」の碑がある場所に
『大和物語』(947-957頃成立)の中に「鳥養」の題で収録された
「あさみとり かひある春にあひぬれば かすみならねど たちのぼりけり」
の歌碑があります。
「あさみとり かひある春にあひぬれば かすみならねど たちのぼりけり」
の歌碑があります。
宇多天皇が鳥養院に御幸した際、大江玉淵の娘を召して詠ませた和歌だそうです。
なお、この付近は宇多天皇がしばしば訪れたことで字名が「御所垣内」となり、
それがここに離宮があったと推測する決め手の一つとなっています。
なお、この付近は宇多天皇がしばしば訪れたことで字名が「御所垣内」となり、
それがここに離宮があったと推測する決め手の一つとなっています。
鳥養牧とは、6牧あった「近都牧」の一つで、
「御牧」では朝廷から割り当てられた頭数の馬を生産していましたが、
「近都牧」は諸国から運ばれてきた牛馬を飼育して都に送っていたそうです。
それで淀川沿いに鳥飼の渡し跡があったんですね!?
その鳥養牧の対岸がさらら馬飼部・うの馬飼部の居住地だったようなのですが?
山科の田辺史大隅の家に養われたため名を史というとあることから、
うののさららの場合も、そう名乗っている以上、
さらら馬飼部・うの馬飼部から支援を受けていた可能性があるのでしょうか?