藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

うののさららのひめみこ

古事記(712)と『日本書紀(720)の編纂を企画し、
天皇としては初めて(?!)同じ墳墓に入った第40・41代天皇
これだけでも注目に値するのに、
第41代 持統天皇(645-702)は日本の天皇として初めて火葬されています。
 
13歳で(叔父とされる)大海人皇子の妃の一人となったうののさらら
実父 天智天皇と夫 大海人皇子の関係がギクシャクした際、
671年に夫が朝廷を去って吉野山に入るのに従っています。
その翌年、天智天皇が歿し、異母弟の大友皇子が後を継ぐと
弟を討つべく「壬申の乱(672)の首謀者の一人となりました。
 
さららの肉親への情愛とは、どんなものだったのでしょうか?
 
さららの母 蘇我倉山田石川麻呂の女(むすめ)遠智娘(をちのいらつめ)
649年に父 石川麻呂が弟の讒言により中大兄皇子の軍に攻められて
自害したことで心身のバランスを崩し、憂死したとも言われます。
 
石川麻呂は本宗家たる蘇我蝦夷・入鹿を抹殺しようとする
中大兄皇子中臣鎌足らに取り込まれ乙巳の変(645)に関与。
その後、右大臣となったものの、結局は娘婿に討たれてしまいました。
祖父が死んだ年、僅か4歳だったさららは、母が
疑心暗鬼になり、心身を蝕まれてゆく様子を見て育ったわけです。
幼くして母を喪ったさららは、或いは
父に対してネガティヴな感情を抱くようになったのかもしれませんね。
 
母の死は、さららの人生にどんな影を落としたのでしょうか?
 
天武天皇となった大海人皇子が亡くなったあとのこと。
さららの子 草壁皇子(662-689)天武天皇8年(679)吉野の盟約で事実上の
後継者になっていましたが、天武天皇の遺児の中で最も人望が厚かったのは
さららの実姉(故)大田皇女の子 大津皇子(663-686)だったようです。
何としても我が子 草壁皇子を即位させたいさらら
686年9月に天武天皇崩御すると、翌月、大津皇子を謀反の罪で処刑。
 
周囲の反感を買ったためか、草壁皇子皇位につくことなく
689年4月、27歳で病死。
いかなる因果なのでしょう?
 
草壁皇子の死によって、さらら飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位。
天皇となったさらら太政大臣として支えたのは天武天皇の長男
高市皇子(654 ?-696)でした。が、持統天皇10年(696)7月10日に薨去
またしても後継者選びの時期に? と
高市皇子の死に疑問を抱く人もあったようです。
 
翌697年2月に皇太子となったのは草壁皇子の子 軽皇子でした。
そして同年8月1日、持統天皇は14歳の軽皇子に譲位したのです。
軽皇子=文武天皇(683-707)が即位すると、持統天皇は初の太上天皇となりました。
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この間、694年の藤原京遷都など、藤原不比等(659-720)の台頭が目ざましく、
文武天皇が即位すると不比等の娘 藤原宮子が妃となりました。
これ以降、藤原朝臣姓の名乗りが不比等の子孫に限定されてゆき
藤原氏=不比等家」の傾向が強まったと言われています。
 
その文武天皇采女として仕え、慶雲4年(707)従七位下を授けられたのが
因幡国の豪族の娘 伊福吉部徳足比売(?-708)でした。
ところが伊福吉部徳足比売は、翌和銅元年7月1日、藤原京で病没。
遺体は3年間の殯の後、和銅3年10月に当時流行し始めていた火葬にされ、
遺骨は故郷因幡国に送られて同11月13日に稲葉山の中腹に葬られました。
その遺骨を収めた骨蔵器に刻まれた銘文・墓誌奈良時代以前の金石文として
現存する16のうちの一つという貴重なものでした。
しかもこの墓誌銘は、因幡国で発見された最古の文字とも言われています。
骨蔵器は国の重要文化財に指定されて東京国立博物館に保管されています。
 
その伊福吉部徳足比売の子孫で作曲家の伊福部昭氏が
鳥取市国府町に因幡万葉歴史館がオープンする際に作品を委嘱され、
初演者の一人として私もオープニングコンサートに参加させて頂きました。
万葉の歌のおかげで古代を身近に感じられるようになってきた気が…?
 
そんな妄想はさておき、本題のうののさららに戻りましょう。
先日、ぼお~っと地図を眺めていたら
「当地域は娑羅羅(さらら)馬飼部・菟野(うの)馬飼部の居住地であった」
「また斉明天皇行幸地、神功皇后軍馬の安全祈願所とも言われている」
との由緒をもつ神社がありました!?
斉明天皇ったら、さららのおばあちゃんですよ。
吉野宮をつくり、さららも何度も吉野へ行ってましたよね?
 
社伝を鵜呑みにするほど単純ではありませんが、ともかく行ってみなくては。
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↑画像のてっぺん左寄りに「鳥飼(とりかひ)」があります。
かつて鳥養(飼)離宮鳥養院があったそうです。
 
現在「此附近鳥養院址」の碑がある場所に
『大和物語』(947-957頃成立)の中に「鳥養」の題で収録された
「あさみとり かひある春にあひぬれば かすみならねど たちのぼりけり」
の歌碑があります。
宇多天皇鳥養院に御幸した際、大江玉淵の娘を召して詠ませた和歌だそうです。
なお、この付近は宇多天皇がしばしば訪れたことで字名が「御所垣内」となり、
それがここに離宮があったと推測する決め手の一つとなっています。
 
鳥養牧とは、6牧あった「近都牧」の一つで、
牧には「御牧(=勅旨牧)」「諸国牧(=官牧)」「近都牧」がありました。
今年は甲斐や秩父信濃の「御牧」を幾つか訪ねてみました。
「御牧」では朝廷から割り当てられた頭数の馬を生産していましたが、
近都牧」は諸国から運ばれてきた牛馬を飼育して都に送っていたそうです。
それで淀川沿いに鳥飼の渡し跡があったんですね!?
 
その鳥養牧の対岸がさらら馬飼部・うの馬飼部の居住地だったようなのですが?
尊卑分脈』によれば、藤原不比等=史(ふひと)
山科の田辺史大隅の家に養われたため名を史というとあることから、
うののさららの場合も、そう名乗っている以上、
さらら馬飼部・うの馬飼部から支援を受けていた可能性があるのでしょうか?