藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

日高(日多,日田)郡

豊後国風土記(740年頃までに成立?)豊後国の八つの郡名が挙げられていました。
日高 (訓:日多/現:日田)
球珠 (現:玖珠)
直入
大野
海部
大分
速見
国埼 (現:国東)
 
古墳時代には国東半島を中心とする地域に国前国造、大分郡を中心とする地域に大分国造、
日田郡を中心とする地域に比多国造が設置されていたそうです。
 
豊後国風土記』にこうありました。
大足彦(景行天皇)、球磨囎唹(クマソ)を征伐して凱旋の折、筑後國生葉行宮を発ち
此の郡に幸す。神有り、名は袁久津媛、化はりて人と爲り迎へ参らせり、
國の消息を弁ふ。斯く因みて袁久津媛の郡とす。今に謂ふ日田郡は訛れるなり。
 
袁久津媛(ヲクツヒメ)とは、「玖珠川」周辺を治める頭領の名にピッタリですね。
ところが、現在は、久津媛比佐津媛(ヒサツヒメ)の名に変わっているそうです。
 
日高(日多)郡について、『和名類聚抄』(931~938年成立)
日田(ひた)・在田(ありた)・夜開(夜関/やけ)・曰理(渡里/わたり)・刃連(靫編/ゆきへ)・石井の
六郷を海部郡に当たるとしましたが、日高郡の間違いだろうと考えられています。
豊後国志』(1803)日田郡を「五郷・四荘」とし、
石井郷・刃連郷・日田郷・海部郷・國埼郡の五郷と
五馬荘・大山荘・大肥荘・津江荘の四荘の名が記されていました。
 
近代の日田郡には17の金山があったことが大分県の地質と地下資源の調査(1951)で判明。
その最たるものが鯛生金山で、昭和初期の金産出量は東洋一。日本最大の金山でした。
住所は、日田市中津江村合瀬。3年前に行きました。
その時、大山町から南下し、442号線を西進すればよいと気づいたのです。
南下ルートの出発点の一つ、大山荘に「小五馬(こいつま)」の地名がありました。
豊後国志』によれば、大山荘には万万金(ままがね)・鎌手・続木(つづき)・栗林・
小切畠・小五馬の6村があり、金属に関係すると思われる地名が目を引きます。
隣接する五馬市(いつまいち)日田郡南部金山地帯への南下ルートの一つであると同時に
かつての日田郡中川村に赤岩鉱山を有しており、五馬媛が治めたとされています。
 
日田と言えば天領天領と言えば、佐渡にも甲斐にも金山がありましたね。
 
天領日田の場合、南部ばかりでなく北部にも金山がありました。
現住所は中津市山国町草本ながら、草本金山は『矢野家伝』によれば
古代には隣接する日田郷に含まれていたそうです。
全六巻からなる『矢野家伝』は日田大山地域の一家伝に過ぎませんが、
安土桃山時代からの記録が現存している点で無視できないらしい…。
 
山国の草本金山は、金銀だけでなく辰砂(しんしゃ)の産出も見られたと
本草網目訳義』にあるそうです。辰砂は古代中国で言う不老不死の薬で
魏志倭人伝』には邪馬台国の山から丹が産出されると書かれていたとか。
 
こうしてみると、金銀水銀を手中にしていたイツマヒメって、卑弥呼みたい?!
個人的な妄想はさておき、今日は古代日田郡を南北に走ってみます。
小五馬へ向かっていますが、ただ走っているだけで楽しい私です。
この大山川は、かつて阿蘇川と呼ばれていたそうです。
阿蘇から流れてきてた?
そして阿蘇にも日田にも蹴裂伝説が!?
この大山川(阿蘇川)を渡ったところが小五馬です。
すぐに小五馬天満宮が見つかりました。
裏から来てしまったので表へまわりましょう。
ここで氏子の方から当社が1680年に遷座する以前の鎮座地(候補)を教えて頂くことに。

上の画像の真ん中あたり山の凹んだところに鉄塔が建っていまして、
その下に「御手洗谷」と呼ばれる場所があるそうです。
近年は妙見さんが祀られているらしいのですが、その神聖な土地に
足を踏み入れるための禊ぎ場が「御手洗谷」であり、あの高さまで
登り下りするのが大変なので、小五馬に下ろしたのではないかとのことです。
「さあ行きましょう。ご案内しますよ」と仰って頂いたものの、私は
6/28に骨折した左足の人差し指がまだ痛いため、次回にお願いすることに。
だからといって、↑これですか? お手製の美味しいものを堪能させて頂きました!
そればかりか「お客様にお泊まり頂ける部屋がありますから、次回はうちに泊まって
バイクであちこちお出かけになれば?」とのお言葉!?
「本気にしますから甘やかさないで下さいね」とお願いしました。
羨ましいですよね~~きれいな水と空気、私が理想とする暮らしがここにあります。
 
とは申せ、休憩ばかりはしていられません。
次は福岡県朝倉郡東峰村宝珠山へ向かいます。
東峰村と言えば小石原焼。彦山駅から南下し、小石原をU字形の底として
通過しつつ北上して博多へ戻ったことがあります。
今回は小石原へは行きませんが、小石原から陶芸が伝えられたという
小鹿田(おんた)焼の里を訪ねるのが陶器好きの私の優先事項でした。ただし
その前に、10年ほど前に地図を見て「行きたい」と思った岩屋神社へ。
初めて案内図を見た時にはハードルが高すぎて無理…と諦めたのに
今回小鹿田焼の里を地図で探していたら近くだとわかり、バイクを探して
下さるようお願いしました。そして親切な方のお蔭で足を運べることに。
 
お昼を食べていなかったので木の花ガルテンに立ち寄ってみましたが、
往きと同じくビッシリと満車だったので断念…。
北上して国道210号線へ出ました。
少し走ると、ガランドヤ古墳の前を通ったので、慌てて右折。
三隈川の名前の由来を調べていたら、日田市友田の「星隈」、
日田市庄手の「日隈」と直角三角形を形成する場所に「隈山」が造られたとの説が
見つかったのです。それがガランドヤ古墳の裏だというので見に行きました。
さて、この右奥ですが?
ここにバイクを置いては登れませんね…。登っても現在は墓地なんだそうです。
再び210号線を久留米方面へ西進していると、日田が盆地であることがよくわかりました。
さて、夜明駅の先を右折して三隈川を渡ります。
いったん右折して、すぐに左折ですね。
曲がり角に志賀神社がありました。うわあ~上ってみたいと思いましたが、
先を急ぐため、久大本線の下をくぐり、211号線を北上することに。
途中、午前中に行った高樹神社と同系列と思われる高木神社があったり、
小鹿田への分岐点があったりしましたが、先ずは岩屋神社を目指します。
ああいう橋がいっぱいありました。この先は棚田地区でした。
あ、ここが岩屋神社の鳥居でしょうか? わたしは勿論バイクで登れる場所を探します。
ありました! ここを左折ですね。
釜割橋?! いかにも…な名前ですねぇ。
やはり鉱山に関わる神なのでしょうか?
あの露出した巨岩が信仰の対象なのでしょうか?
ほほう……(私には理解できませんが)
何という急勾配。登りはともかく、下りは足指の支えが利かないので厳しそう…。
登りも下りも、石段じゃないとキツかったです…。
いや、これは、登れません(こわい)。正面が本殿らしいので、下から失礼します。
イチョウの巨木が美しく、迫力がありました。
何とか演奏修行をして、ここから東へ数kmの小鹿田焼の里を目指します。
山を下り、釜割橋を渡ると眼前に棚田の段々が広がっていました。
ここからの道が大変でした。
何度も、くぐったり、
峠を越えたり、
くぐったりして
日田市に戻りました。
とはいえ、結局、小鹿田(おんた)へは行けなかったわけですからねぇ。
 
小鹿田焼の里の周辺には、小野鉱山・玉来鉱山・照国鉱山などがあったそうで
日田市小野に隣接する中津市山国町草本・田良川地区にあった草本金山は
古代は日田郡に所属していたと『矢野家伝』に記されているというので
楽しみにしていましたが、岩屋神社から小鹿田へ向かう途中のT字路を
左折しようとしたら「通行禁止」の看板が出ていて断念しました。
(未舗装路に近いガタガタ道で、止まって撮影する気にもなれませんでした)
 
古来「鬼」とは先住民族を指す言葉で、アイヌ民族を「かだましき鬼」と呼んだり
吉備の鬼退治のように鉱山の採掘や精錬に携わる先住民を「鬼」と呼んできました。
それゆえ当地は小鹿田の表記に係わらず「おんた」と呼ばれてきたのでは?
 
前回、日田駅近くの「鬼塚(おんづか)」へ行きました。
中川村の赤岩鉱山を治めていたイツマヒメが土蜘蛛とされたことでもわかるように、
鉱山の多い日田郷には金属技術をもつ先住民が住んでいたため「鬼」地名があるのでしょうか?
今回は目的を達成できたとは言い難いものの、次回に期待します。
宿は日田出身の筑紫哲也さんの常宿だったホテルに泊めて頂いてます。
お料理は別棟で頂きました。
帆立の焼き茄子のタルタル。
ヒメアワビ。
里芋とズワイ蟹の銀餡。
お魚は鰆の炙りでした。
黒毛和牛のグリエ(赤ワインと大豆のソース)でしたが、
帰りに牛舎の横を通ったので、厳しいものがありました…。
もぉ~~~