その南方の台地にある五馬市(いつまいち)の地名がずっと気にかかっていました。
「シキ・シカ・シコ」の法則で言うなら「イツマ・イツモ」となるからです。
玖珠川の「クス・クズ・クヅ」は「国巣・国栖・国津」に通じ、
土蜘蛛(つちぐも)や八束脛(やつかはぎ)といった先住民をあらわす言葉ですから、
近くに「イツマ・イツモ」地名があるとなれば、古代のクニの中心地?
紀元前後、日本列島には百以上のクニがあったとされ、それぞれに
国主とその妻(ヒコ・ヒメ?)が居たと考えられています。
ヤマト王権はそうした先住民らを「クス・クズ・クヅ」などと呼んでいました。
その拠点が出雲・伊豆といった地名に通ずる「イツモ・イツマ」と呼ばれていたら?
古代「イツモ」や「ヤマト(邪馬台国etc.)」は、たった一つではなかったはず。
1号石室(5世紀中葉~後半)の40代女性1人・30代男性1人、
2号石室(5世紀後半~6世紀)の40代と20代女性2人・30代男性1人の人骨が発見されています。
1号石室、2号石室とも40代女性と30代男性は姉弟で、
年齢の高い順に埋葬されたと推定されています。
祀ったという神社があって、境内に五馬媛の墓といわれる「元宮古墳」があるようですが、
「宇土古墳群」のように男女の別や年齢を調べたのでしょうか?
・夏 4月3日、熊県(くまのあがた)に着いた。
・4月11日、海路から葦北(あしきた)の小島に泊り、食事をとった。
・5月1日、葦北から船出して火国(ひのくに)に着いた。
・6月3日、高来県(たかくのあがた)から玉杵名邑(たまきなのむら)へ行き、
土蜘蛛(つちぐも)の津頰(ツツラ)を殺した。
・秋 7月4日、筑紫後国(つくしのくにのみちのしりのくに)の三毛(みけ)すなわち現在の
三池に着き、高田の行宮(かりのみや)に入った。
・7月7日、八女県(やめのあがた)に着き、幾重もの山の彼方に八女津媛が居ると聞く。
・8月、的邑(いくはのむら)に着いて食事をした時、食膳掛が盞(うき)を忘れた。
かつて筑紫の人々は、盞を浮羽(うきは)と言ったため、地名が浮羽となった。
しかしながら、18年8月に浮羽に着いてから19年9月までの記載がありません。
その「ヒサツ」の名が訛って「ヒタ」の地名になったとされているのです。
サ行音(往古の発音は「ヒシャトゥ」?)が消えて「ヒタ」に転訛するでしょうか?
JR日田駅の東南東約700mに久津媛神社があります。
久津媛神社のある会所山は「今はヨソの山と呼ぶが、昔はエソと呼んでいたらしい」と
任ぜられた鳥羽宿禰にまつわる鳥羽塚などの古墳があるとも言われています。
久津媛はもともと山頂で景行天皇と共に祀られていたそうですが、858年に
エソとは蝦夷?
一般的だと思いますが、その定義には諸説あるようです。
一番近いものを熟蝦夷(にきえみし)と名づけています」と答えたとあります。
夷の字を分解すると「弓人」となり、上代日本語でユミシになるとか、
本来は「鄙の勇者」といった意味ではないかとか、
ヤマト王権にとっての先住氏族であったことなども取り沙汰されていました。
文献における最古の例はエミシ(毛人)で、5世紀の倭王武の上表文に
「東に毛人を征すること五十五国。西に衆夷を服せしむこと六十六国」
というふうに、夷の字が使われていたとも。
すると九州で「エソ」が使われてもおかしくはありませんね。
ヒサツヒメと名のる神が人に姿を変えて出迎えたと地元で言われていますが、
此の郡に幸す。神有り、名は袁久津媛、化はりて人と爲り迎へ参らせり、
國の消息を弁ふ。斯く因みて袁久津媛の郡とす。今に謂ふ日田郡は訛れるなり。
何と「久津媛(ヒサツヒメ)」ではなく、「袁久津媛」ですよ!?
そもそも「ヒサツ」→「ヒタ」への訛化が理解できなかったのですが、
「袁」なら「遠」と同じなので、発音はワ行音の「ヱ(ン)」か「ヲ(ン)」。
ならば「ヲクヅヒメ」又は「ヱクヅヒメ」となりませんか?
会所山の真南に、玖珠川と大山川が合流して三隅川となるポイントがあります。
古代、漢字は、意味ではなく読み仮名(発音)の役目を担っていたため、
「袁久津媛」と玖珠川・球珠川の「クヅ・クズ・クス」の付会は重要です。
「クズ川」周辺を治める頭領の名なら「ヒサツ」より「ヲクヅ」でしょう。
日田市には数多くの遺跡や古墳があります。
●ガランドヤ古墳=3基からなる古墳群のうち2基が装飾古墳。横穴式石室に彩色壁画有。
●ダンワラ古墳=出土した鉄鏡が曹操高陵から出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と型式が類似。
このダンワラ古墳は久津媛神社の南東約1kmにあり、住所も同じ日田市日高です。
地名の「日田」との付会なら「ヒサツ」→「ヒタ」への訛化より
久津媛神社の鎮座地「日高」との関連「ヒタカ」→「ヒタ」の方が納得できます。
(そもそも「日田」は『和名類聚抄』に「日高」郡と記され、「比多」の訓が付いていました)
こうした古墳よりも興味をひかれるのが久津媛神社の真南、
久大本線を挟んで約340mの距離にある「鬼塚(おんづか)」です。
その「鬼塚」が会所山の真南、三隅川(玖珠川)との中間地点にあるのです。
現在、市営住宅に囲まれた耕作地にぽつんと残る日田市竹田の「鬼塚」が
古代の墳墓かどうかは不明です。見た目は鬼を平らげて集団で葬った蜘蛛窟ですが?
しかし、久津媛神社、ダンワラ古墳、鬼塚はなぜ九大本線で分断されたのでしょう?
中央のこんもりが「鬼塚」だと思いますが、そこに至る道がわかりませんでした。
画像左端が久津媛神社のある会所山です。
そんな「クヅ・クズ・クス」の地にある「鬼塚」から南東に直線で約10km、
「宇土古墳群」を目指します。
いや、しかし、ぐるぐるまわっても↑これしか見つけられません。
こちらの案内板も見つけられませんでした…。
やむなく「宇土古墳群」から南(北緯131.01)約370mにある元宮神社へ。
景行天皇が当地の土蜘蛛五馬媛を祀ったとの伝承に基づいて創建されたようです。
おおお…このような山の上に立派な神社が!?
社殿に向かって左手にイツマヒメの墓とも言われる古墳がありました。
「前方後円墳にして、頂部で長さ40m、巾30mである」と書かれています。
すると、元宮神社そのものが古墳の上に建っているわけですね。
日本神話に照らすと、各国のクニ主が大国主(役職名?)で、その妻として夥しい数の
ヒメがおり、しかも古代は女性がドンだったということでよろしいでしょうか。
そこから西南西に直線で880mの天ヶ瀬五馬市に玉来(たまらい)神社があります。
この階段下はこんなに広々してます。
農村舞台があれば最高でしたが、近くに、古い庄屋の館があるようです。
玉来神社は元宮神社から遷座してきたらしく創建は不明。祭神は元宮神社と同じ
この巨木が凄い!! 左手奥が蜘蛛窟っぽい!? と大騒ぎの私。
毎年10月26日・27日には「五馬市くにち」が行なわれるそうです。
北部九州の秋祭りの呼称として知られる「くんち」の同義語と思われる
あったとされ、「御九日」「御供日」「御宮日」などと表記されていました。
私は「くにち」を「国津」の訛りではないかと疑っていまして
さて、玉来神社と古い庄屋の館のある当地22ha、66,000坪に、
大山町農業協同組合が農業者のテーマパーク「五馬媛の里」を展開しています。
200余種の椿、枝垂れ紅桜などの桜、梅、花モモ、あじさい、やまぼうし、
アカシア、サルスベリ、モクセイなど、林を彩る木々が植えられ、
ご縁あって、何度か大山町でリサイタルをやらせて頂き、その折に伺った
オーガニック農園(バイキングレストラン)でランチできればとやってまいりました。
古代祭祀が忘れ去られ、荒廃した寺社も見られる中、荒れ果てた土地を手入れし、
千年の杜をつくろうという大山町農協のチャレンジは、日本を元気にしてくれるかも?
先々が楽しみです。「五馬市くにち」に行くかも知れません。
最後に、今日の一社目だった吹上神社の画像を載せておきます。
道路から見上げた時には、徒歩では無理…と思いましたが。
「吹上公園入口」の看板から洞窟的切り通しを登ってゆくと書いてあり、
日本一気温の高い日が続いていた日田では厳しいと思いつつ頑張りました。
幸い、2台分しかない駐車スペースが1つ空いていたので心置きなく登れます。
ずいぶんハードルが高そうですね。右端に黒く写っているのはトンネルです。
どこまでも何処までも続く感じ…。もちろん日傘を差してますが、暑い。
上りはまだ勾配が気になりませんでしたが、下りは左足指が踏ん張れないため、
横向きで歩いてみたりして、凄く時間がかかりました。
ここが、最後のひと頑張りでした。
ここを過ぎて、最初に目に入ったのは弘法大師堂でした。
そして、左手に広がるこの眺望です。
1枚の写真には納まりきらないので…↓
風の良く通る吹上神社の拝殿。
奥に、一段高い場所にある吹上遺跡への道が見えてます。
ただし、私はこれ以上登る気になれず、拝殿前で演奏修行に入らせて頂きました。
そして帰途。
こんな急勾配を登ってきたかしら? と戸惑いました。
足が痛いので用心しつつ下りていたら、演奏中に私の周囲を舞っていた
黒アゲハが姿を見せてくれたので、何とか心折れずに戻れました。
一瞬、なんでこんな場所を歩いてるんだろう? と思ったことは忘れましょう!