藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

古代人の思考① 崇道天皇(山背編)

前回、平安京の裏鬼門(坤)へ行ったので、今回は艮(うしとら)の鬼門へ。
平安京の最大の守りは艮に位置する比叡山でしょう。
バイクで走ってみて、どこからでも比叡山が見えることに驚きました。
常陸国における筑波山と同じですね。
18:30、レンタルしたバイクを返却に来た宝ヶ池ハーレーダヴィッドソンから見た比叡山
9日の午後は雨の予報でしたが、有難いことに曇りでした。この時だけ夕陽が射したのです。
 
今日最初に行ったのは賀茂波爾神社でした。
一方通行の道路に面していて、ナビの指示がメチャクチャで周辺をグルグル回りました。
社名から想像できる通り、下鴨神社の境外摂社なのだそうです。
祭神は「波爾安日子神」と「波爾安日女神」、ハニですよハニ。
前回ハヅカシ神社へ行き、こう書きました。
 
「はつかし」の語源は「はにかし」?
「はに」=「埴土」+「かし」=「水に浸し練る」
 
まさしくこのハニで、当社の近くを流れる高野川は
かつて「埴川(はにがわ)」とも呼ばれていたそうです。
 
羽束師神社の近くで、桂川が西高野川、鴨川と三つに分かれています。
鴨川は、葵公園のある鴨川デルタで賀茂川と高野川に分かれ、桂川→鴨川→高野川と
「埴土」に関わる渡来系技能集団の移動があったかも知れないと感じさせてくれます。
川から近い当社の「波爾井御神水」は名水として知られ、下鴨神社へ供えられたとも。
神紋は下鴨神社と同じ「二葉葵」でした。
当社を表鬼門として、京都御所を通過して結ばれる裏鬼門は長岡京市子守勝手神社です。
 
鬼門つながりで言うと、上高野西明寺山に創建された崇道神社は乙訓寺と繋がっています。
乙訓寺は、罪に問われた早良親王(750-785)が幽閉され、無実を訴えて絶食した場所でした。
貞観年間(859-877)京都市左京区上高野西明寺山に創建されたという崇道神社です。
ただし、鳥居の扁額と右手の石柱の表記は「崇神社」でした。
小野毛人の墓があったのは、もともと小野氏のテリトリーだったからでしょうか?
後からどんどん祭神を被せてゆくのが日本の神道の特徴だとしたら、
現在の祭神や鎮座地からは何も見えてきませんね。
 
さて、のちに崇道天皇追号された早良親王
皇統を天武系から天智系に移した光仁天皇の第2皇子たる早良親王は、
のちに桓武天皇となる第1皇子 山部親王の同母(高野新笠)弟でした。
神護景雲2年(768)に出家するも、宝亀元年(770)に父が即位して光仁天皇になると親王に、
天応元年(781)桓武天皇が即位すると皇太子になりましたが、延暦4年(785)9月、
長岡京造営の指揮を執った藤原種継暗殺への関与を疑われ、淡路島への流罪が決まります。
 
長岡京は遷都決定後半年ほどで造営したため、藤原種継は昼夜を問わず働いたそうです。
遷都によって、桓武天皇は奈良仏教の力を殺ごうとしたと考えられており、
奈良仏教側には影響力の低下を恐れる勢力があったわけで、朝廷は
長岡京推進派の藤原種継を快く思わない大伴・佐伯の両氏が共謀して
785年9月23日夜に種継を射殺したと断定し、大伴継人・佐伯高成らを捕らえました。
大伴家持が「種継を除く計画を早良親王に諮って実行」と語ったという彼らの証言で
事件直前に死去した大伴家持は官位を奪われ、早良親王は皇太子を廃されたのです。
その後、乙訓寺に幽閉された早良親王は身の潔白を主張して絶食。
淡路島への流罪途中、山崎の高瀬橋付近で絶命したと伝わります。
 
そののち、桓武天皇の第1皇子安殿(あて)親王(774-824⇒平城天皇)が皇太子になると、
桓武天皇は母 高野新笠(?-789)や皇后(平城天皇嵯峨天皇の母)藤原乙牟漏(760-790)の死、
悪疫の流行、皇太子の罹病など次々と不幸に見舞われます。
それを早良親王の祟りと恐れた桓武天皇は、延暦19年(800)
流刑地の淡路仁井に葬られた早良親王に「崇道天皇」の尊称を贈り、
延暦24年(805)奈良市八嶋町今里の八嶋陵(やしまのみささぎ)に移葬しました。
そして大同元年(806)に即位した平城天皇奈良市西紀寺町に崇道天皇社を創建。
 
死後、祟り神として恐れられた早良親王ですが、
艮に祟り神を祀るというのは“毒をもって毒を制す”といった意味合いだったのでしょうか?
 
艮の鬼門としてはもう一社、長谷(ながたに)八幡社へ行きました。
当社と大山崎離宮八幡宮(元の石清水八幡宮)を結ぶライン上に京都御所があります。
鳥居から直角に左折したところに社殿があるって、どういう意味があるのでしょうか?
祭神が変わった時にそうなる場合が多いと読んだことがあります。
(当社の創建は天皇家絡みとされていますが、元はそれ以前の支配者の氏神だった可能性を疑うべきかも?)
天安元年(857)文徳天皇の第1皇子でまだ13歳だった惟喬親王(844-897)が、
7歳の異母弟 惟仁親王(850~881⇒清和天皇)八幡大神を勧請して創建とはこれいかに。
第1皇子の惟喬親王が皇太子になれなかったのは母が紀氏の出で、
嘉祥3年(850)に右大臣藤原良房の娘明子が惟仁親王を生んだためです。
その弟のために、親王が八幡社を創建したという社伝は不自然でしょう。
創建年の近い崇道神社と同じく、朝廷が御所の鬼門にあたる神社を再利用しただけですよね?
ともあれ、御所の鬼門封じが艮と坤を結ぶ形になっていたことを確認できました。
 
あとは、御所の真西にあたる嵯峨・嵐山方面へ行きました。

一方通行やバイクすら入れない道が多く、かなり時間を浪費しました。
が、これまで地下鉄などを乗り継いで行ってた場所をバイクで走ってみると
京都の街が非常にコンパクトに感じられて楽しかったです。
 
バイク屋さんからは大原が近いため、当初そちら方面を走りたいと思っていたのですが、
平安京の鬼門について考えているうちに、なぜ空海弘仁2年(811)に化野に
五智山如来寺を開創したのか? との疑問が膨らみ、今回は嵐山方面へ向かうことに。
そのため下調べが出来ておらず、新幹線の中で検索しました。
空海開創の五智山如来寺は、現在、華西山東漸院念仏寺と称し浄土宗に属しています。
公式ホームページにこうありました。
 
「あだしの」は「化野」と記す。「あだし」とははかない、むなしいとの意で、
又「化」の字は「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ化る事や、
極楽浄土に往来する願いなどを意図している。
この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後世土葬となり
人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所である。
 
すると、風葬によって骨となり、土葬されて骨となったものが土になったわけですね。
ただ、平安京遷都がなければ、この地はずっと葬送の地のまま放置されたかもしれません。
そう感じたのは、鬼門のラインを引くうちに、ここが御所の真西だと気づいたからです。
仏教も神道もよくわかりませんが、"西方浄土"なんて言うくらいだから
真西にあってもよさそうですが、空海は野晒しにされた死者を弔うために、この地に
千体とも言われる石仏を埋め、密教の五智(法界体性智,大円鏡智,平等性智,妙観察知,成所作智)
あらわす五智如来の石仏を曼荼羅川の河原にたてたというのです。
これを一人の僧侶が単独で行なえたでしょうか?
(京都御所の南端から嵯峨・嵐山方面を撮影。まっすぐ西進しています)
五智山如来寺の創建年代は伝承によれば弘仁2年(811)
前年弘仁元年(810)平城上皇が復位を試みた「薬子の変(平城太上天皇の変)」が起きています。
延暦25年(806)桓武天皇崩御しても、皇位継承を巡る内部紛争は続いていたのです。
 
大同元年(806)桓武天皇第1皇子で皇太子だった安殿(あて)親王(=平城天皇)が即位すると、
同母弟の神野(かみの)親王(桓武天皇第2皇子⇒嵯峨天皇)が皇太弟となりました。
理由として、平城天皇が病弱で、子供達が幼かったことが挙げられています。
大同2年(807)10月、平城天皇の異母弟 伊予親王が謀反の罪に問われた「伊予親王の変」が
起こり、母の藤原吉子ともども川原寺(弘福寺)に幽閉されて飲食を止められ、
11月12日に伊予親王母子はともに毒を仰いで自害したとされています。
大同4年(809)4月、平城天皇発病。これを叔父 早良親王や弟 伊予親王の祟りと考えて譲位。
天皇の寵愛を受けて専横を極めた尚侍 藤原薬子とその兄の参議 藤原仲成は反対するも
平城天皇の意思は固く、同年4月13日に神野親王が即位して嵯峨天皇となりました。
皇太子には平城天皇の第3皇子 高岳親王が立てられています(薬子の変に伴ない廃太子)
 
その翌年(810年1月or2月)平城上皇平城京へ移り、"二所朝廷"といわれる状態に。
大同5年9月6日に平城上皇平安京を廃し平城京に遷都する詔勅を出すと、
嵯峨天皇は拒否し、東国での挙兵を画策する平城上皇の東向阻止を坂上田村麻呂
命じます。その結果、平城上皇平城京へ戻り、同年9月12日に剃髮のうえ出家、
薬子は毒を飲んで自殺したそうです。
 
このとき、大同元年(806)10月に帰朝したものの、20年の留学期間を満たしておらず
大同4年(809)まで大宰府滞在を余儀なくされた空海は高雄山神護寺に入っていました。
大同5年(810)の変を受け、空海嵯峨天皇側で鎮護国家のための大祈祷を行なったのです。
そうした経緯から、不浄を忌む神道における天皇陵の造営地確保のために
古代からの風葬の地の浄化を空海が依頼された可能性を疑うのは当然でしょう。
弘仁2年(811)に、千体もの石仏を化野に埋めたと知り、そう感じた次第です。
しかも、この話、空海の五智山如来寺化野念仏寺の始まりとされているとか、
真言宗か浄土宗かといった次元ではなく、もっと大きく深い世界のようです。
 
論拠というほどではありませんが、↓京都市右京区天皇陵です。
■第52代 嵯峨天皇 嵯峨山上陵 (北嵯峨北ノ段町)
■第56代 清和天皇 水尾山陵 (嵯峨水尾武蔵嶋町)
■第88代 後嵯峨天皇 嵯峨南陵 (嵯峨天龍寺芒ノ馬場町)
■第90代 亀山天皇 亀山陵 (嵯峨天龍寺芒ノ馬場町)
■第91代 後宇多天皇 蓮華峯寺陵 (北嵯峨朝原山町)
■第98代 長慶天皇 嵯峨東陵 (嵯峨天龍寺角倉町)
■第99代 後亀山天皇 嵯峨小倉陵 (嵯峨鳥居本小坂町)
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■第58代 光孝天皇 後田邑陵 (宇多野御池町)
■第59代 宇多天皇 大内山陵 (鳴滝宇多野谷)
■第62代 村上天皇 村上陵 (宇多野上ノ谷町)
■第64代 圓融天皇 後村上陵 (宇多野福王子町)
■第66代 一条天皇 圓融寺北陵 (龍安寺御陵ノ下町)
■第69代 後朱雀天皇 圓乘寺陵 (龍安寺御陵ノ下町)
■第70代 後冷泉天皇 圓教寺 (龍安寺御陵ノ下町)
■第71代 後三條天皇 圓宗寺陵 (龍安寺御陵ノ下町)
■第73代 堀河天皇圓教寺 (龍安寺御陵ノ下町)
 
嵐山と渡月橋が見えてきました。この先を右折すれば化野へ行けますね。
地図を見ると、すぐ右手に「長慶天皇 嵯峨東陵」があるようです。
たしか因幡国の面影山にもありましたね。
ところが、狭い道が苦手なナビが一方通行の道をグルグル回るよう指示するだけで
長慶天皇陵」への入り口が見つかりません。やむなく勘だけで細い路地に入ったら…
え?! まさかココ…ってことはありませんよね。
バイクを返せないので左折すると…
これは…五芒星というものでは?
安倍晴明」の墓所でしたか…(納得)
それにしても、タクシーでは入れない道ですし、探しても来れないような場所でした。
地図を見て「長慶天皇陵」の南だとわかっても、ここから引き返す道は一方通行かも
知れず、もう一周する時間が惜しいので先を急ぎます(結局、何の直感も無かった!!)
ここを左折ですね。和服姿の男女が列をなして歩いていて
バイクでどこまでゆけるのかわかりませんが、ともかく野宮神社へ。
あった!! 境内社白峰弁財天について神職の方に話を訊きにきました。
安永9年(1780)刊行の『都名所図会』には「弁財天」としか記載されていないのに
「白峰弁財天」と称した理由は何なのかを知りたかったのです。
崇徳上皇さまの御陵がある五色台の白峰を知る人間として「白峰」の文字は
看過できません。なにしろ「白峰」に坐す日本最大の怨霊ですからね。
縮尺は絵図と変わらないようですね。扁額は立派でしたが…。
小さな祠の前に椅子が重ねられているサマたるや…!?
結局、なぜ「白峰弁財天」となったのかはわからないとのことでした。
平安時代の話ではなく、平成元年のことなのに?
ただ、京都観光の実態を拝見できました。
 
ここから北上して、いよいよ化野へ向かいます。
車で入れる道が限られているのか、かなり迂回させられ、高い場所から下っています。
すぐ右手に台地がありました。もしや、化野念仏寺ってこの上なんですか?
地図を見ても高低差がわからないので驚かされることばかり。
駐輪場があったのでバイクを停め、画像右手の階段をあがってきました。
が、「本日の受付は終了しました」のカードが吊るされていました!!
この時、16:40。恐らく受付は16:30までだったのでしょう。
ですが、この地形を見てわかりました。風葬・鳥葬の地だったんですね…。
藤棚などあるようですが、怖いのでわざわざ入らずとも構いません。
そそくさと失礼して、先ほどの赤い鳥居まで戻りました。
古代から有名なランドマークだったのでしょうか。
鳥居の扁額に「愛宕山」とあります。
この坂を登った先の愛宕念仏寺の鳥居なのか? 愛宕山そのものの鳥居なのか?
私はそちら方面へは直進せず、次の交差点を右折して宝ヶ池方面へ戻ります。
少し走ると、地図に護法堂弁財天とあったので左手を覗き、画像1枚のみ撮りました。
レンタルバイクの返却時間があるので、階段を登る余裕はありません。
わき目もふらず走っていたら、大きめの池が!!
さすがにこの大きさは目に入ります。地図を見たら「広沢池」でした。
 
福王子を過ぎて、きぬかけの道からナビが指示した北大路通りを走り、
川端通りへ出たので北上したら、あっさり高野川を渡ってハーレーダビッドソンへ。
渋滞もなくスムーズに走れたので、まだ40分の余裕がありました。
ガソリンも入れなくてはならないし、もう1ヶ所近場へ行くとしましょう。
あ、ここですね。川沿いの細い道を走っていたら突然、目に飛び込んできました。
平安京ができたことで、こうした古代信仰が朝廷の祭祀に取り込まれたりして
社殿や鳥居をもつ神社になり、『延喜式神名帳(927)に名を残すなど
格式が重んじられていったわけですね…。
やはり来てみてよかったです。近代建築を見て廻っても始まりませんので。
 
また、今回もっとも勉強になったのは
嵯峨鳥居本化野町の化野念仏寺と、嵯峨鳥居本一華表町の護法堂弁財天の位置でした。
大きくV字に曲がって上り下りしつつ迂回したため感じませんでしたが、
護法堂弁財天があるとわかって停止した場所から小倉山山麓を撮ったら
どうやら真西にあたる正面の山麓化野念仏寺があったようなのです。
そう気づいて調べたら、バイクで5分近く走ってきたのに、
護法堂弁財天化野念仏寺の直線距離は350mでした!?
古代、おそらく、この間は谷だった。今も桂川に注ぐ川がありますね。
やっと理解できました。
空海が「曼荼羅川の河原に五智如来の石仏を立てた」というのはこの川だったんですよ。
化野念仏寺の中に川があるのかと思っていたら台地の上に建っていて、
諦めて帰る途中、偶然撮った画像がヒントになろうとは…。
 
護法堂弁財天は、五山送り火の「鳥居形」が点火される曼荼羅(270m)の麓に鎮座。
片や、化野念仏寺は小倉山(296m)の麓に鎮座。
曼荼羅山の別名は万灯籠山、仙翁寺山ですが、空海が化野に「両界曼荼羅」を構想した際、
化野を「金剛界」、曼荼羅山を「胎蔵界」としたことに因むと伝わります。
 
私のような者にはハードルの高い謎解きですが、
現実に仰々しい建造物を建てたりして鎮魂せずとも、小さな空間を意識的に調えることで
娑婆(=忍土)を浄化させ得るとの考え方を古代人がもっていたのかも知れないと感じました。