バイクで走ってみて、どこからでも比叡山が見えることに驚きました。
9日の午後は雨の予報でしたが、有難いことに曇りでした。この時だけ夕陽が射したのです。
今日最初に行ったのは賀茂波爾神社でした。
一方通行の道路に面していて、ナビの指示がメチャクチャで周辺をグルグル回りました。
社名から想像できる通り、下鴨神社の境外摂社なのだそうです。
祭神は「波爾安日子神」と「波爾安日女神」、ハニですよハニ。
前回ハヅカシ神社へ行き、こう書きました。
「はつかし」の語源は「はにかし」?
「はに」=「埴土」+「かし」=「水に浸し練る」
まさしくこのハニで、当社の近くを流れる高野川は
かつて「埴川(はにがわ)」とも呼ばれていたそうです。
羽束師神社の近くで、桂川が西高野川、鴨川と三つに分かれています。
「埴土」に関わる渡来系技能集団の移動があったかも知れないと感じさせてくれます。
神紋は下鴨神社と同じ「二葉葵」でした。
鬼門つながりで言うと、上高野西明寺山に創建された崇道神社は乙訓寺と繋がっています。
乙訓寺は、罪に問われた早良親王(750-785)が幽閉され、無実を訴えて絶食した場所でした。
ただし、鳥居の扁額と右手の石柱の表記は「崇導神社」でした。
小野毛人の墓があったのは、もともと小野氏のテリトリーだったからでしょうか?
後からどんどん祭神を被せてゆくのが日本の神道の特徴だとしたら、
現在の祭神や鎮座地からは何も見えてきませんね。
遷都によって、桓武天皇は奈良仏教の力を殺ごうとしたと考えられており、
奈良仏教側には影響力の低下を恐れる勢力があったわけで、朝廷は
785年9月23日夜に種継を射殺したと断定し、大伴継人・佐伯高成らを捕らえました。
その後、乙訓寺に幽閉された早良親王は身の潔白を主張して絶食。
淡路島への流罪途中、山崎の高瀬橋付近で絶命したと伝わります。
悪疫の流行、皇太子の罹病など次々と不幸に見舞われます。
死後、祟り神として恐れられた早良親王ですが、
艮に祟り神を祀るというのは“毒をもって毒を制す”といった意味合いだったのでしょうか?
艮の鬼門としてはもう一社、長谷(ながたに)八幡社へ行きました。
鳥居から直角に左折したところに社殿があるって、どういう意味があるのでしょうか?
祭神が変わった時にそうなる場合が多いと読んだことがあります。
第1皇子の惟喬親王が皇太子になれなかったのは母が紀氏の出で、
その弟のために、親王が八幡社を創建したという社伝は不自然でしょう。
創建年の近い崇道神社と同じく、朝廷が御所の鬼門にあたる神社を再利用しただけですよね?
ともあれ、御所の鬼門封じが艮と坤を結ぶ形になっていたことを確認できました。
あとは、御所の真西にあたる嵯峨・嵐山方面へ行きました。
一方通行やバイクすら入れない道が多く、かなり時間を浪費しました。
が、これまで地下鉄などを乗り継いで行ってた場所をバイクで走ってみると
京都の街が非常にコンパクトに感じられて楽しかったです。
バイク屋さんからは大原が近いため、当初そちら方面を走りたいと思っていたのですが、
五智山如来寺を開創したのか? との疑問が膨らみ、今回は嵐山方面へ向かうことに。
そのため下調べが出来ておらず、新幹線の中で検索しました。
公式ホームページにこうありました。
「あだしの」は「化野」と記す。「あだし」とははかない、むなしいとの意で、
又「化」の字は「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ化る事や、
極楽浄土に往来する願いなどを意図している。
この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後世土葬となり
人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所である。
すると、風葬によって骨となり、土葬されて骨となったものが土になったわけですね。
ただ、平安京遷都がなければ、この地はずっと葬送の地のまま放置されたかもしれません。
そう感じたのは、鬼門のラインを引くうちに、ここが御所の真西だと気づいたからです。
真西にあってもよさそうですが、空海は野晒しにされた死者を弔うために、この地に
千体とも言われる石仏を埋め、密教の五智(法界体性智,大円鏡智,平等性智,妙観察知,成所作智)を
これを一人の僧侶が単独で行なえたでしょうか?
(京都御所の南端から嵯峨・嵐山方面を撮影。まっすぐ西進しています)
理由として、平城天皇が病弱で、子供達が幼かったことが挙げられています。
11月12日に伊予親王母子はともに毒を仰いで自害したとされています。
薬子は毒を飲んで自殺したそうです。
このとき、大同元年(806)10月に帰朝したものの、20年の留学期間を満たしておらず
弘仁2年(811)に、千体もの石仏を化野に埋めたと知り、そう感じた次第です。
真言宗か浄土宗かといった次元ではなく、もっと大きく深い世界のようです。
■第52代 嵯峨天皇 嵯峨山上陵 (北嵯峨北ノ段町)
■第56代 清和天皇 水尾山陵 (嵯峨水尾武蔵嶋町)
■第91代 後宇多天皇 蓮華峯寺陵 (北嵯峨朝原山町)
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■第58代 光孝天皇 後田邑陵 (宇多野御池町)
■第59代 宇多天皇 大内山陵 (鳴滝宇多野谷)
■第62代 村上天皇 村上陵 (宇多野上ノ谷町)
■第64代 圓融天皇 後村上陵 (宇多野福王子町)
嵐山と渡月橋が見えてきました。この先を右折すれば化野へ行けますね。
地図を見ると、すぐ右手に「長慶天皇 嵯峨東陵」があるようです。
たしか因幡国の面影山にもありましたね。
ところが、狭い道が苦手なナビが一方通行の道をグルグル回るよう指示するだけで
「長慶天皇陵」への入り口が見つかりません。やむなく勘だけで細い路地に入ったら…
え?! まさかココ…ってことはありませんよね。
バイクを返せないので左折すると…
これは…五芒星というものでは?
それにしても、タクシーでは入れない道ですし、探しても来れないような場所でした。
地図を見て「長慶天皇陵」の南だとわかっても、ここから引き返す道は一方通行かも
知れず、もう一周する時間が惜しいので先を急ぎます(結局、何の直感も無かった!!)。
ここを左折ですね。和服姿の男女が列をなして歩いていて
バイクでどこまでゆけるのかわかりませんが、ともかく野宮神社へ。
安永9年(1780)刊行の『都名所図会』には「弁財天」としか記載されていないのに
「白峰弁財天」と称した理由は何なのかを知りたかったのです。
崇徳上皇さまの御陵がある五色台の白峰を知る人間として「白峰」の文字は
看過できません。なにしろ「白峰」に坐す日本最大の怨霊ですからね。
縮尺は絵図と変わらないようですね。扁額は立派でしたが…。
小さな祠の前に椅子が重ねられているサマたるや…!?
結局、なぜ「白峰弁財天」となったのかはわからないとのことでした。
平安時代の話ではなく、平成元年のことなのに?
ただ、京都観光の実態を拝見できました。
ここから北上して、いよいよ化野へ向かいます。
車で入れる道が限られているのか、かなり迂回させられ、高い場所から下っています。
すぐ右手に台地がありました。もしや、化野念仏寺ってこの上なんですか?
地図を見ても高低差がわからないので驚かされることばかり。
駐輪場があったのでバイクを停め、画像右手の階段をあがってきました。
が、「本日の受付は終了しました」のカードが吊るされていました!!
この時、16:40。恐らく受付は16:30までだったのでしょう。
ですが、この地形を見てわかりました。風葬・鳥葬の地だったんですね…。
藤棚などあるようですが、怖いのでわざわざ入らずとも構いません。
そそくさと失礼して、先ほどの赤い鳥居まで戻りました。
古代から有名なランドマークだったのでしょうか。
鳥居の扁額に「愛宕山」とあります。
私はそちら方面へは直進せず、次の交差点を右折して宝ヶ池方面へ戻ります。
少し走ると、地図に護法堂弁財天とあったので左手を覗き、画像1枚のみ撮りました。
レンタルバイクの返却時間があるので、階段を登る余裕はありません。
わき目もふらず走っていたら、大きめの池が!!
さすがにこの大きさは目に入ります。地図を見たら「広沢池」でした。
福王子を過ぎて、きぬかけの道からナビが指示した北大路通りを走り、
川端通りへ出たので北上したら、あっさり高野川を渡ってハーレーダビッドソンへ。
渋滞もなくスムーズに走れたので、まだ40分の余裕がありました。
ガソリンも入れなくてはならないし、もう1ヶ所近場へ行くとしましょう。
あ、ここですね。川沿いの細い道を走っていたら突然、目に飛び込んできました。
平安京ができたことで、こうした古代信仰が朝廷の祭祀に取り込まれたりして
社殿や鳥居をもつ神社になり、『延喜式神名帳』(927)に名を残すなど
格式が重んじられていったわけですね…。
やはり来てみてよかったです。近代建築を見て廻っても始まりませんので。
また、今回もっとも勉強になったのは
大きくV字に曲がって上り下りしつつ迂回したため感じませんでしたが、
護法堂弁財天があるとわかって停止した場所から小倉山山麓を撮ったら
どうやら真西にあたる正面の山麓に化野念仏寺があったようなのです。
そう気づいて調べたら、バイクで5分近く走ってきたのに、
護法堂弁財天と化野念仏寺の直線距離は350mでした!?
古代、おそらく、この間は谷だった。今も桂川に注ぐ川がありますね。
やっと理解できました。
化野念仏寺の中に川があるのかと思っていたら台地の上に建っていて、
諦めて帰る途中、偶然撮った画像がヒントになろうとは…。
片や、化野念仏寺は小倉山(296m)の麓に鎮座。
私のような者にはハードルの高い謎解きですが、
現実に仰々しい建造物を建てたりして鎮魂せずとも、小さな空間を意識的に調えることで
娑婆(=忍土)を浄化させ得るとの考え方を古代人がもっていたのかも知れないと感じました。