藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

古代人の思考② 崇道天皇(大和編)

平安京の鬼門に祀られた崇道天皇早良親王(750-785)
昨日、京都御所の艮(うしとら)の鬼門として上高野西明寺山に建てられた崇道神社の社頭を
撮影してきましたが、ここと一直線で結ばれた坤(ひつじさる)の裏鬼門は乙訓寺でした。
 
え?! 乙訓寺って、藤原種継暗殺事件に連座させられ、身の潔白を証明するため絶食した
早良親王の幽閉先ですよね? 古代人はそこまで考えて結界を張ってたんですか?
 
実は、憤死した早良親王の亡骸は流刑地の淡路島へ運んで葬られていたのですが、
3人の妃(藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子)と生母 高野新笠が病死したことで
実弟の崇りを恐れた桓武天皇は、延暦19年(800)に「崇道天皇」を追号
淡路国仁井の墓所陰陽師や僧侶を派遣して鎮魂につとめたものの、
延暦24年(805)4月、ついに淡路国から大和国へ移葬したそうです。
上高野西明寺山に崇道神社が創建される60年ほど前のことでした。
その御陵に比定されているのが崇道天皇八嶋陵(やしまのみささぎ)です。
地図で崇道天皇八嶋陵の位置(奈良市八嶋町今里)を確認した私は、
崇道神社と乙訓寺のラインを引いた時と同じくらい驚きました。
なぜなら、今日行った崇道天皇八嶋陵は GoogleMap で見ると東経135.8417で
真北が東大寺、真南が箸墓古墳というライン上にあったので。
東大寺崇道天皇早良親王は深い関係にありました。
それで桓武天皇が先手を打って失脚させたとの説もあるくらいです。
天平宝字5年(761)に出家して「親王禅師」と呼ばれていた早良親王
東大寺羂索院や大安寺東院に住んでいたそうです。
東大寺では初代別当たる良弁の後継者として、造東大寺司に指令できるほど
高い地位にあったとも言われています。
 
こうなると、有名どころを避けてきた私も東大寺へ行かないわけにはまいりません。
どうせ行くなら、前々から気になっていた空海も見たい。ということで奈良へ。
 
現在の空海華厳宗大本山東大寺の末寺で、東大寺は「八宗兼学」の伝統により
華厳宗真言宗の二宗を受け継いでいるのだそうです。
奈良時代には「六宗兼学」の寺とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」が
ありましたが、平安時代になって、桓武天皇の南都仏教抑圧策で「造東大寺所」が廃止。
さまざまな圧力の中で、唐から帰朝した空海別当となって寺内に真言院を開いたことで、
空海が伝えた真言宗と、最澄が伝えた天台宗を加えて「八宗兼学」とされました。
 
空海は、空海東大寺の境内に草庵を構え、自ら彫った「阿那地蔵尊」を堂宇の
石窟に安置したことに始まり、境内には東大寺の歴代僧侶や寺族の墓があるそうです。
東大寺別当職は、2022年現在、第224世を数え、空海弘仁元年(810)に第14世別当に就任。
空海は現在、東大寺の外にあり、画像右手に正倉院が位置しています。
実は今回の訪問を機に調べるまで、正倉院が複数あったことすら知らなかった私。
これを機に、空海のことも調べてみました。
 
延暦23年(804)、前年遭難した遣唐使船の代わりに再度遣唐使が派遣されることを知った
空海(774-835)は、入唐直前に東大寺戒壇院で得度受戒したとの説が有力視されています。
空海橘逸勢らが乗った第16次遣唐使船は804年5月12日に難波ノ津を発ち、
8月10日に福州長渓県赤岸鎮に漂着したそうです。
空海は福州の長官へ長安留学の嘆願書を提出し、同年11月3日に長安入りを許されて
12月23日に長安に入っています。その後の目を見張るべき成果はあまりに有名です。
翌805年8月10日に伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「遍照金剛(へんじょうこんごう)」という
「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する灌頂名を与えられました。
翌806年3月に長安を出発した空海は、8月に明州を出航して帰国の途につくも
暴風雨のため五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港。
大同元年(806)10月、博多に帰着したものの、留学予定が20年だったため、
朝廷が入京を許可せず、大同4年(809)まで大宰府滞在を余儀なくされました。
空海和泉国槇尾山寺に滞在した後、7月の太政官符を待って入京。
和気氏の私寺 高雄山神護寺に入りました。
弘仁2年(811))から3年(812)にかけて乙訓寺の別当を務めた空海は、
弘仁14年(823)正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場としています。
天長元年(824)2月、勅により東寺と西寺が神泉苑で祈雨法を修し、東寺の空海が成満。
天長6年(829)には、白雉元年(650)役行者が開基したという志明院を再興しています。
志明院(岩屋山金峯寺)は、昨日行った長谷八幡社を創建した惟喬親王(文徳天皇第1皇子)
耕雲寺(高雲禅寺)と称する宮をつくって移り住み、耕雲入道と名乗った場所です。
空海のデータを少し掻い摘んだだけで、昨日今日と訪問した寺社が
歴代天皇親王と関わりをもっていたことがわかります。
 
さて、古代歌謡の舞台を探して旅をしている私の夢の一つは、
天平勝宝4年(752)4月9日に東大寺の盧舎(遮)那大仏像の開眼会で演奏された歌を
東大寺の敷地内で演奏することで、まさか実現するとは思っていませんでした。
ただ、わざわざ足を運ぶわけですから、奇跡を期待する気持ちはありました。
平日だから空いているかと思いきや、小学生から高校生まで
あちこちに入場を待つ列ができていました。
ただし、私は鏡池の弁財天での演奏をのみ目指しています。
いやいや、しかし、そう甘くはありませんでした。
鹿除けならぬ人除け?! 人の侵入を禁止していました。
さっさとタクシーを呼ぼうかとも思いましたが、
鏡池をぐるっと一周していたら、ベンチがありました。
そうか、ここで休んでいいなら、歌ってもいいかも?
と手前勝手な判断ながら、寺務所の真ん前なので、ダメなら注意されるはず。
気持ちよく歌っている横を寺務所へ向かう車が何台か通過するも、お咎めなし。
人通りもほとんどなく、歌い終わったら鹿の親子が近づいてきただけでした。
ちょうど換毛期なので、ボサボサ…。
東大寺の鹿はおとなしいですね。安芸の宮島では巨大な母鹿に通せんぼされたのに。
東大寺御神体山のように見える若草山へ行った時の鹿はこちら↓。夏毛がきれいです。
 
次は春日大社ですが、観光客を見に来たわけではない社叢好きの私には秘策がありました。
タクシーを呼んで「上(かみ)禰宜道まで」と言うと、運転手さんに
「ネギミチとはどんな野菜ですか?」と訊かれる始末。
50年以上生きてきて初めて聞いた言葉だそうです。
「ではナビを入れますから」と言い、iPad の音量を上げると
「そういうの、うるさくて嫌いなんですよね」……
だから、バイクを運転して走る方が楽なんです。
上の矢印でわかるように、入り口でV字に岐れています。
私は左側の「上の禰宜道」ではなく、紀伊神社へ続く「奥の院道」をのぼります。
左の「上の禰宜道」には鹿が居ました。
さっきの運転手さんに「奥の院道」もあると言ったら
春日大社は神社なんだから、奥の院なんかあるはずがない」と否定されました。
神仏分離は明治時代の政策で、それまでの神仏習合の歴史の方が長いのに…。
奥の院道」、いいですねぇ…。来た甲斐がありました。
ほどなく真っ赤な(!?)社殿が見えてきました。
鹿以外には会ってませんが、到着すると本殿の方から男性の二人連れが来られました。
私の苦手なヤツ。これを目当てにいらしたのでしょうか?
静かな空間に身を置けたことに満足しつつ引き返します。
こういう道を歩いていると、一昨日ひねってしまった膝がパカッパカッと音を立てて緩み、
元の位置に填まってゆく感じがします。有難いことに帰宅時には治っていました。
行きには気づかなかった案内板↓を撮っておきます。
私は一番東の道を歩いたのですが…この案内図を見るのは難しいです。
わかった、右が北なんですね。ならば下が東なので現在位置と合ってます。
一応「上の禰宜道」の道標も載せておきますね。
 
この近辺でタクシーを呼べる場所を探したら、薬師寺がありました。
数百メートルの距離なので歩きます。寺院の多い地区でした(↑の道標に「社家町」とあります)
ド迫力の塀ですね…。通行する人は心配にならないのかしら?
手前のお寺で、薬師寺はこの先の右側だと教えて頂きました。
たしかに、ここが薬師寺ですが、入れません。
運転手さんが「南門なら着けられますよ」と仰っていたのが、あの角でしょうか?
角を右折すると、唐突な感じで鏡神社の鳥居が目に飛び込んできました。
鏡神社と言えば唐津ですよね? ちょっと入ってみましょう。
本殿の画像はこちら↓
縁の黒地に白の紋様は見たことがあります。やはり春日大社の社殿を移築した恭仁神社?
 
東大寺要録』に末寺の薬師寺について
天平19年(747)光明皇后が夫聖武天皇の病気平癒のため薬師寺を建て、七仏薬師像を
造った」とあり、天平時代後期に薬師寺を復興した際、その鎮守として
唐津鏡神社をここに勧請したと考えられるとの説がありました。
 
ううむ…またしても怨霊絡みですね。
天平9年(737)4月から8月にかけて藤原四兄弟が相次いで亡くなると、
不比等の孫 藤原広嗣が翌天平10年(738)大宰少弐に任ぜられたそうです。
その広嗣が天平12年(740)8月に、天地による災厄の元凶たる吉備真備と僧正
玄昉を追放すべきとの上奏文を出すと、逆に11月に肥前松浦郡にて処刑されます。
のち、天平17年(745)に筑紫に配せられた玄昉は、観世音寺落成式に臨んだ折に急死。
広嗣の崇りかと恐れた吉備真備は、天平勝宝2年(750)肥前国司に左遷された際
すぐに広嗣を祀る鏡神社二ノ宮を唐津に創建したと伝わります。
 
では、鏡神社鳥居の手前右の柵から薬師寺に入ってみます。
正面が、光明皇后聖武天皇の病気平癒のため七仏薬師像を納めた本堂かと思いきや、
金堂は応和2年(962)に暴風で倒壊。いつの頃からか、ここが本堂になったのだそうです。
堂内の薬師如来坐像奈良時代後期から平安時代初期の作で、
周りの十二神将立像は奈良時代の作ながら、もともと当寺にあったわけではなく、
高円山麓にあった岩淵寺から薬師寺へ移されたとも伝わります。
私の関心は、池と赤い祠に向いていました。
またしても善女龍王ですか。ここから約500m離れた春日大社奥の院
「善女龍王が尾玉を納めた」と書かれた「龍王珠石」がありましたね。
善女龍王
天長元年(824)、長引く旱魃に対し、淳和天皇興福寺(西寺)の守敏と東寺の空海に命じて
神泉苑で祈雨法を修めさせた際、1週間にわたる守敏の修法は効果なく、空海が行なうも
降雨がないため原因を調べると、国中の龍神を守敏が閉じ込めたらしいとわかりましたが、
唯一、守敏の手を逃れて天竺の無熱池(むねっち)に居たのだそうです。
空海はその善女龍王を呼び寄せて国中に大雨を降らせることに成功したと伝わります。
よって薬師寺創基の天平19年(747)ではなく、あとから祀られたのではないでしょうか。
この位置から見た鏡神社↓です。
この画像の右手奥に庭園がありました。
薬師寺という名称から抱いていたイメージより小ぢんまりとしていましたが、
神仏習合の名残も見られ、静かで落ち着ける空間でした。
ここならタクシーを呼べるとわかり、急遽来訪してよかったです。
帰宅後、公式ホームページを拝見したら
春日山中にあった「香山堂」が薬師寺の前身ではないかとありました。
奈良はやはり京都とは違う奥深さがありますね。
 
あと早良親王絡みで行っておきたいところは大安寺です。
まるで公園のように整備されていますね。
周辺を歩いたら、「大安寺旧境内」の石碑がありました。
この右手を見ると、鳥居がありました。
せっかくここまで来たので入ってみましょう。
御霊神社? 奈良で御霊神社といえば、祭神はほぼ井上(いのへ・いがみ)内親王でしょう。
聖武天皇の皇女にて光仁天皇の皇后たる井上内親王は、宝亀3年(772)
光仁天皇の第1皇子で百済系氏族の高野新笠を母とする山部親王桓武天皇を推す
藤原百川の策謀により、天皇呪詛の疑いをかけられて皇后位を剥奪されました。
御子 他戸(おさべ)親王も皇太子を廃され、母子とも大和国宇智郡(五條市)に幽閉された後、
宝亀6年(775)4月27日に薨去されました。
母子が同日に亡くなったことで毒殺説が根強くあります。
 
そして桓武天皇は当社から程近い奈良市薬師堂町に御霊神社を創建したそうです。
その御霊神社の公式ホームぺージにはこう記載されていました。
奈良の町には南の出入口として三つの街道があり、疫病の侵入を防ぐための御霊会が
営まれ、上つ道に早良親王を祀る崇道天皇社、中つ道に井上皇后を祀る井上御霊社
下つ道に他戸親王を祀る他戸御霊社が造営されました。
この井上御霊社が当社のはじめです。
創建は「崇道天皇」の追号と同じ延暦19年(800)でした。
 
ただ、大安寺御霊神社の祭神は違いました。
大同2年8月17日、大安寺の鎮守社として宇佐八幡宮より八幡大菩薩を勧請とあり、
元は石清水八幡宮と称したそうです。古代もっとも大切にされた「水」、その井戸を
守る神として、タカオカミと善女龍王が祀られていました。
再び大安寺方面へ南下してゆくと推古天皇があり、「元石清水八幡宮」の看板が!?
ここより更に南に「八幡神社(元石清水八幡宮)」がありましたが、時間切れで
そこまでは足を延ばせませんでした。そのすぐ南が「大安寺東塔跡」で、
大安寺御霊神社と「大安寺東塔跡」はともに東経135.814でした。
やはりここでも何らかの結界が張られたのかも知れませんね…。
 
在りし日の「近鉄バッファローズ」ファンの私としては、
近鉄特急あをによしに乗ることを楽しみにしていました。
あお」ではなく、きちんと「あを」と表記したのは、さすが近鉄
あをによしのベースは2021年2月に運用を終えた「12200系」で、3億3000万円を投じて
改装され、1号車には英エリザベス女王が乗った車両が使われているそうです。
車体のカラーには天平時代に最も高貴な色とされた「紫檀(したん)」が選ばれています。
これは、期待以外の何ものもありません。
それに路線検索をしたら、これに乗らないと指定の新幹線に間に合いません。
ところが!!
券売機で特急券を買おうとしたら「この人数では買えません」としか出ません!?
駅員さんも居りません。
そこで、suicaで入り、別の改札口まで行って駅員さんに訪ねますと
あをによしは一人では乗れません」と仰るではありませんか!?
「しかし私はこの特急に乗らないと新幹線に間に合わないんです」
「それなら一緒に子供用チケットを1枚を買えば乗れますよ」
………そんなこと何処にも書かれてないし、普通に路線検索に出るのはおかしい………
たまたま10分ほど余裕があったので最終的にペア券を買えましたが、
ギリギリに行ったら乗れなかったかもしれません。
顧客サービスって何ですねん?