撮影してきましたが、ここと一直線で結ばれた坤(ひつじさる)の裏鬼門は乙訓寺でした。
早良親王の幽閉先ですよね? 古代人はそこまで考えて結界を張ってたんですか?
上高野西明寺山に崇道神社が創建される60年ほど前のことでした。
その御陵に比定されているのが崇道天皇八嶋陵(やしまのみささぎ)です。
崇道神社と乙訓寺のラインを引いた時と同じくらい驚きました。
なぜなら、今日行った崇道天皇八嶋陵は GoogleMap で見ると東経135.8417で
それで桓武天皇が先手を打って失脚させたとの説もあるくらいです。
東大寺羂索院や大安寺東院に住んでいたそうです。
高い地位にあったとも言われています。
こうなると、有名どころを避けてきた私も東大寺へ行かないわけにはまいりません。
どうせ行くなら、前々から気になっていた空海寺も見たい。ということで奈良へ。
石窟に安置したことに始まり、境内には東大寺の歴代僧侶や寺族の墓があるそうです。
実は今回の訪問を機に調べるまで、正倉院が複数あったことすら知らなかった私。
これを機に、空海のことも調べてみました。
8月10日に福州長渓県赤岸鎮に漂着したそうです。
12月23日に長安に入っています。その後の目を見張るべき成果はあまりに有名です。
翌805年8月10日に伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「遍照金剛(へんじょうこんごう)」という
「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する灌頂名を与えられました。
大同元年(806)10月、博多に帰着したものの、留学予定が20年だったため、
朝廷が入京を許可せず、大同4年(809)まで大宰府滞在を余儀なくされました。
耕雲寺(高雲禅寺)と称する宮をつくって移り住み、耕雲入道と名乗った場所です。
空海のデータを少し掻い摘んだだけで、昨日今日と訪問した寺社が
さて、古代歌謡の舞台を探して旅をしている私の夢の一つは、
東大寺の敷地内で演奏することで、まさか実現するとは思っていませんでした。
ただ、わざわざ足を運ぶわけですから、奇跡を期待する気持ちはありました。
平日だから空いているかと思いきや、小学生から高校生まで
あちこちに入場を待つ列ができていました。
ただし、私は鏡池の弁財天での演奏をのみ目指しています。
いやいや、しかし、そう甘くはありませんでした。
鹿除けならぬ人除け?! 人の侵入を禁止していました。
さっさとタクシーを呼ぼうかとも思いましたが、
鏡池をぐるっと一周していたら、ベンチがありました。
そうか、ここで休んでいいなら、歌ってもいいかも?
と手前勝手な判断ながら、寺務所の真ん前なので、ダメなら注意されるはず。
気持ちよく歌っている横を寺務所へ向かう車が何台か通過するも、お咎めなし。
人通りもほとんどなく、歌い終わったら鹿の親子が近づいてきただけでした。
ちょうど換毛期なので、ボサボサ…。
次は春日大社ですが、観光客を見に来たわけではない社叢好きの私には秘策がありました。
タクシーを呼んで「上(かみ)の禰宜道まで」と言うと、運転手さんに
「ネギミチとはどんな野菜ですか?」と訊かれる始末。
50年以上生きてきて初めて聞いた言葉だそうです。
「ではナビを入れますから」と言い、iPad の音量を上げると
「そういうの、うるさくて嫌いなんですよね」……
だから、バイクを運転して走る方が楽なんです。
上の矢印でわかるように、入り口でV字に岐れています。
左の「上の禰宜道」には鹿が居ました。
さっきの運転手さんに「奥の院道」もあると言ったら
「奥の院道」、いいですねぇ…。来た甲斐がありました。
ほどなく真っ赤な(!?)社殿が見えてきました。
鹿以外には会ってませんが、到着すると本殿の方から男性の二人連れが来られました。
私の苦手なヤツ。これを目当てにいらしたのでしょうか?
静かな空間に身を置けたことに満足しつつ引き返します。
こういう道を歩いていると、一昨日ひねってしまった膝がパカッパカッと音を立てて緩み、
元の位置に填まってゆく感じがします。有難いことに帰宅時には治っていました。
行きには気づかなかった案内板↓を撮っておきます。
私は一番東の道を歩いたのですが…この案内図を見るのは難しいです。
わかった、右が北なんですね。ならば下が東なので現在位置と合ってます。
一応「上の禰宜道」の道標も載せておきますね。
この近辺でタクシーを呼べる場所を探したら、新薬師寺がありました。
数百メートルの距離なので歩きます。寺院の多い地区でした(↑の道標に「社家町」とあります)。
ド迫力の塀ですね…。通行する人は心配にならないのかしら?
手前のお寺で、新薬師寺はこの先の右側だと教えて頂きました。
たしかに、ここが新薬師寺ですが、入れません。
運転手さんが「南門なら着けられますよ」と仰っていたのが、あの角でしょうか?
角を右折すると、唐突な感じで鏡神社の鳥居が目に飛び込んできました。
鏡神社と言えば唐津ですよね? ちょっと入ってみましょう。
本殿の画像はこちら↓
縁の黒地に白の紋様は見たことがあります。やはり春日大社の社殿を移築した恭仁神社?
唐津の鏡神社をここに勧請したと考えられるとの説がありました。
ううむ…またしても怨霊絡みですね。
すぐに広嗣を祀る鏡神社二ノ宮を唐津に創建したと伝わります。
では、鏡神社鳥居の手前右の柵から新薬師寺に入ってみます。
金堂は応和2年(962)に暴風で倒壊。いつの頃からか、ここが本堂になったのだそうです。
私の関心は、池と赤い祠に向いていました。
善女龍王は
降雨がないため原因を調べると、国中の龍神を守敏が閉じ込めたらしいとわかりましたが、
唯一、守敏の手を逃れて天竺の無熱池(むねっち)に居たのだそうです。
この位置から見た鏡神社↓です。
この画像の右手奥に庭園がありました。
新薬師寺という名称から抱いていたイメージより小ぢんまりとしていましたが、
神仏習合の名残も見られ、静かで落ち着ける空間でした。
ここならタクシーを呼べるとわかり、急遽来訪してよかったです。
帰宅後、公式ホームページを拝見したら
奈良はやはり京都とは違う奥深さがありますね。
あと早良親王絡みで行っておきたいところは大安寺です。
まるで公園のように整備されていますね。
周辺を歩いたら、「大安寺旧境内」の石碑がありました。
この右手を見ると、鳥居がありました。
せっかくここまで来たので入ってみましょう。
御霊神社? 奈良で御霊神社といえば、祭神はほぼ井上(いのへ・いがみ)内親王でしょう。
母子が同日に亡くなったことで毒殺説が根強くあります。
その御霊神社の公式ホームぺージにはこう記載されていました。
奈良の町には南の出入口として三つの街道があり、疫病の侵入を防ぐための御霊会が
下つ道に他戸親王を祀る他戸御霊社が造営されました。
この井上御霊社が当社のはじめです。
ただ、大安寺の御霊神社の祭神は違いました。
元は石清水八幡宮と称したそうです。古代もっとも大切にされた「水」、その井戸を
守る神として、タカオカミと善女龍王が祀られていました。
そこまでは足を延ばせませんでした。そのすぐ南が「大安寺東塔跡」で、
大安寺の御霊神社と「大安寺東塔跡」はともに東経135.814でした。
やはりここでも何らかの結界が張られたのかも知れませんね…。
近鉄特急あをによしに乗ることを楽しみにしていました。
「あお」ではなく、きちんと「あを」と表記したのは、さすが近鉄!
あをによしのベースは2021年2月に運用を終えた「12200系」で、3億3000万円を投じて
改装され、1号車には英エリザベス女王が乗った車両が使われているそうです。
これは、期待以外の何ものもありません。
それに路線検索をしたら、これに乗らないと指定の新幹線に間に合いません。
ところが!!
券売機で特急券を買おうとしたら「この人数では買えません」としか出ません!?
駅員さんも居りません。
そこで、suicaで入り、別の改札口まで行って駅員さんに訪ねますと
「あをによしは一人では乗れません」と仰るではありませんか!?
「しかし私はこの特急に乗らないと新幹線に間に合わないんです」
「それなら一緒に子供用チケットを1枚を買えば乗れますよ」
………そんなこと何処にも書かれてないし、普通に路線検索に出るのはおかしい………
たまたま10分ほど余裕があったので最終的にペア券を買えましたが、
ギリギリに行ったら乗れなかったかもしれません。
顧客サービスって何ですねん?