藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

因幡国~伊福部家奥都城

午前中、坂谷神社の苔むした石段を下りるのに難渋し
2時間に1本程度しかない電車に乗り遅れてしまいました!?
運転手さんが「午後の予定は?」と訊いて下さったので、
鳥取駅前のホテルに荷物を置いてからタクシーで南下するつもりです」
と答えると、「じゃあ私が行きますよ」と仰って下さって、
そのまま午前中の運転手さんにお願いすることに。
 
途中でお腹が空き、「どこかで何か食べましょうか?」と運転手さんに尋ねたら
「時間が勿体ないので先に進みましょう、おむすびが二つあるから一つどうぞ」
と、大山鶏のおむすびを下さったので有り難く車内で頂戴しました!
私が用意すべきなのに…逆ですよね。本当に親切な運転手さんでした。
 
しかし午後一番は古代の雰囲気を味わうどころか、こんな感じ…↓
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偶像崇拝は御勘弁…の私なのに。
ここ櫻谷神社の登り口まで来たら、こんなものが立っていました!?
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出た~~~!? 日本中に幾つも候補地があることで知られる「長慶天皇陵」です。
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「伝長慶天皇陵墓」の道標、いったい誰が作ったでしょうね?
この位置から見上げると、社殿らしきものが見えます。
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すると、ここは櫻谷神社の真下ってことですね。
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しかし大丈夫でしょうか、まるで"けもの道"ですが…。
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あ、お墓らしきものがあります!?
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たしかに三基ありますね。
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いったい何故こんな場所に三基の法筺印塔が?
 
そんなことを考えつつ櫻谷神社まで登ってみると!?
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ここで冒頭の画像になるわけです。
これ以上は足が進まず、下りました。
 
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次は倉吉市で行った風宮神社と同名の神社です。
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あれ?! 見覚えのある字だと思ったら、宇倍神社の金田宮司さんではありませんか。
当社も兼務しておられるんですね。
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何と、参道が歩道橋でした!?
新しい道路を作るために旧来の参道を拠出せざるを得なかったのでしょう。
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逆L字型に、参道を左折すると社殿が見えました。
角に「風宮さんのモミ」があります。
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社叢が素晴らしく、しばらく散策していたら、
車をどこかに駐車できた運転手さんが駆けつけて下さいました。
 
次は「岡益の石堂」安徳天皇宇倍野陵墓参考地です。
津ノ井国府線でいったん東に進んでから南下します。
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北に見えるのは、さっき行った面影山でしょうか?
まるで大和三山のようですね。
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安徳天皇長慶天皇と同じく、陵墓参考地の多い天皇です。
対馬にまでありましたからね。
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ちょっと散策するには「岡益の石堂」は広すぎました。
この案内図を見ただけで退散!?
今回の旅の目的の一つ美幣奴(みてぐら)神社を目指します。
「みてぐら」は幣(ぬさ)で神楽歌のタイトルでもあります。
しかも住所が八頭郡八頭町篠波(さざなみ)
「さざなみ」も神楽歌のタイトルです。
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しかしながら篠波集落内の道は地図になく、
実際に走っている道は物凄く狭く、身動きがとれませんでした。
最後は運転手さんの直感にお任せし、ようよう曲がった突き当りに石段が!!
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石段に趣があり過ぎて…期待がふくらみます。
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ついに社殿まで到達できました~!!
まだ《幣》は歌えないため、篠波の地で《篠波》を演奏。
 
ここからはひたすら西南の八上姫公園を目指します。
私都川に沿って西へ向かっていると、福本白兎神社がありました。
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ただパーツを並べただけみたい…と思ったら、その通りでした。
すでに明治元年大正3年に合祀され、社殿は成田山青龍寺に移建されていました。
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それでもここに白兎神社を置いているのは
八頭郡のなかでもここ郡家町に古墳群が集中しているからだそうです。
そしてイナバノシロウサギの神話で有力豪族の娘として描かれている八上姫。
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曳田川沿いに八上姫公園と賣沼(めぬま)神社がありました。
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この立地はすばらしいのですが、さっきの白兎像にあてられたのか
神社はもういい…という感じで素通りして奥へ。
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川沿いに奥へ進むと「嶽古墳」がありました。
古代の空気を感じられるのはこういう場所ですよね。
気を取り直して、あとひと頑張り。曳田川を渡り南下します。
ともかく難読社名の謎を解きたい私です。
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やってきました。都波只知上(つばきちかみ)神社
二ノ鳥居の先を左折すると三ノ鳥居がありました。
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鳥居のタイプが違うのは、やはり明治の一村一社の合祀令によるものでしょうか?
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地元の方は「つばきちかみ」と読んでおられましたが?
 
境内案内板「都波只知上神社概略」の由緒
伝説によれば昔人皇十二代景行天皇の朝に蜘蛛谷と云う処(大皿谷)土蜘蛛が住み、
悪行甚しく人々を苦しめたので、帝は皇子日本武尊武内宿弥を添え、
海石榴樹で作った椎で山を穿ち退治された(日本書紀巻第七 記事による)
其時の功を推崇して祭り「都波只知上神社」と稱して氏神とした。
神号「都波只知」は「海石榴市」の假名書である。
 
現在は「海柘榴市」(つばいち)なんて読んでいますが、
古代には日本語の母音は語頭以外には立たなかったので
語中の母音は前の音に吸収されていました。
松浦が「まつ+うら=まつら」となり、
荒磯が「あら+いそ=ありそ」となったように。
 
すると「つばき+いち」は「つばきち」となりますね。
「都波只知」は「海石榴市」の假名書である
と記された以上、「海柘榴市」の発音は「つばきち」だったのでしょう。
では、都波只知(つばきちかみ)神社
桜井市にあった古代の市場「海柘榴市」との関係は…?
 
さらに
「当社は佐貫村の谷隘の山麓に北面して鎮座(往古は1-2km許り奥の宮谷にあったが
氏子の参詣に不便なため、いつのころか現在地佐貫字林の谷に遷られたと伝えられる)
ともあり、遷座および近郷の氏神の合祀があったと伝えられています。
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四ノ鳥居まであったのも合祀の結果でしょう。
現在祀られている26座の中に
元々当地に鎮座していた祭神の社殿があった可能性が高そうです。
 
12/13は結局8時間半かけて11ヶ所まわってからホテルへ向かいました。
が、チェックインしたらまだ余力があったので、21年ぶりに宇倍神社へ。
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本当は御都合を伺ってから明朝にでもお邪魔するつもりだったのに
居ても立ってもいられない気持ちになり、タクシーに乗っていました。
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結婚式以来の宇倍神社です。永らく御無沙汰してしまったにも拘らず、
金田宮司をはじめ神職の皆様に歓迎して頂き、感謝の言葉もありません。
宮司様が家人の書籍や私のCDをズラッと並べて下さったのには恐れ入りました。
こちらからお送りしていなかった無礼と筆無精を恥じ入るばかり。
 
鳥取への旅の最大の目的だったお墓参りと神楽歌の演奏をさせて頂くと、
「伊福部先生の世界に近づかれましたね」とのあたたかい御言葉を戴きました。
宮司様のお導きのお蔭で家人ともども今日まで無事に生きてこられたことに
感謝の気持ちでいっぱいになりました。
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なつかしい、なつかしい、伊福部先生の揮毫です。
ここで神楽歌を演奏させていただきました。