藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

『常陸国風土記』を歩く

常陸国風土記』の記述に比定されている場所を歩いてきました。
その終盤にさしかかり、残っている行きづらい場所をバイクで廻ることに。
 
最初は高浜です。
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茨城県内最大規模(全長186m,高さ11m)を誇る舟塚山古墳
 
今日のルートは去年タクシーでまわろうと計画していました。
が、タクシーでは入れない道が少なくないことがわかり今日に至りました。
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土浦駅を過ぎるとすぐに「土浦港」があって、当たり前ですが
「土浦」は霞ヶ浦の入り江の一つなんだ…と実感。
北上すると蓮根畑が続き、たくさんの白鷺やカモ類がエサを啄んでいました。
しかしながら、ここまでずっと幹線道路を走ってきたのは苦痛でした。
この先でそろそろ昔の街道へ入ります。
くねくねと10分ほど走ったら、直線の道路に出ました。
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恐らく、画像中央のあのこんもりの向こうに舟塚山古墳があるはず。
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たぶんここを曲がるんでしょう。
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少し走ると、左手に古墳が出現!?
この先に鳥居が見えました。
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地図にあった鹿島神社ですね。大生殿と違い、古墳の上になど建っていません。
左手に案内板がありました。
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国指定史跡なのに、道標すらありませんでした。
地元の方が犬と一緒に下りてこられたので、ちょっと上がらせて貰います。
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小ぢんまりとした本殿の裏手を上がるようです。
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道なき道を上がっていると、右手に突然、石に彫った仏さま?
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神仏習合の名残でしょうか?
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枯葉で滑りがちな斜面もあと一歩です。
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おおぉ…想像通り筑波山が見えました!
やはり常陸国霞ヶ浦筑波山を無視しては語れません。
 
常陸国風土記』の「茨城郡」より二首。
 
高浜に 来寄する浪の 沖つ浪 寄すとも寄らじ 子らにし寄らば

高浜の 下風(したかぜ)さやぐ 妹を恋ひ 妻と言はばや しこと召しつも
 
ここから霞ヶ浦を臨むつもりが、見えたのは人工的建造物ばかり⁉
舟塚山古墳を下りて常磐線を越えると高浜神社がありました。
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霞ヶ浦沿いにあるため遷座したのか、さほど古くないのか? と素通りしたら
やはり「後世に往古の遥拝所辺りに建てられたもの」とありました。
 
遥拝所とはもちろん常陸国第一の大社鹿島神宮の遥拝所で、
国府石岡市に置かれて以来、国司が着任すると報告のために
鹿島神宮へ参拝したほか、毎年の奉幣や参向の習わしがあったそうです。
国府の外港である高浜から鹿島まで舟で行くことになっていて、
天候が悪く出航できない場合など、高浜の渚にススキ、マコモ、ヨシ等で
仮殿(青屋)を造って待っていたことに由来するのでしょう。
 
ここからは霞ヶ浦沿いに東へ進みますが、
恐らく走っている道がかつての海岸線かと思います。
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と言うのも、右手は低地、左手の台地に寺社や住宅が建っていたからです。
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こちら大宮神社も素通り。近くに「玉井乃跡」があるというので
探しましたが、人家の中にあるのか見つけられませんでした。
常陸国風土記』にありますが、現在は水は嗄れているそうです。
真っ直ぐな道などありませんので、北東へ向かう道を走っていますと…
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おっ?! これは? と右手に見えた社名にひかれ、右折しました。
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突き当りに社殿があり、大勢の方が訪れていました。
この右手は現在 小美玉市立小川小学校でした。
社殿右の社務所御朱印をもらう列ができていたので左から奥へまわります。
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社殿の左手から下を見ると、急勾配の舗装路が見えました。
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本殿の裏手にはたくさんの石碑があります。
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裏から小学校の校庭のフェンスまできたら、急勾配の斜面が見えました。
私の妄想によれば、ここは古代香取海の波打ち際です!?
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崖地に建つ素鵞(そが)神社
住所が「小川古城」とのことで、当社HPを拝読しますと、
はじめ「天王宮」でしたが、水戸学(水戸光圀)の影響で神仏混淆の社号を止め、
天保11年(1840)に「素鵞神社」と改めた上、
鎮座地が低地で「千木髙知りて鎮坐す」の祝詞に反していたことから
明治2年(1869)、旧小川城外曲輪のあった高台に遷座したそうです。
 
あれまあ…?
でも、崖地の円形台地なので、古代は重要な祭祀場だったかも?
 
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道なりに東へ向かっていると、息栖神社がありました。
鹿島―香取―息栖連合軍によって征服された証でしょうか?
 
ここから真東に防衛省航空自衛隊百里基地があるため
道は東南へと下ってゆきます。
鉾田市に入って再び東北東方面に進むはずですが
どうも行き過ぎてしまったようで通るはずのない「鳥栖(とりのす)」の標識が!?
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標識を撮る間もなく通り過ぎてしまったので景色のみ。
鳥栖(とりのす)」の地名に反応したのは『常陸国風土記』に出てくる
「鳥日子(とりひこ)」の名が浮かんだため。
 
(玉造町南部?)より東北へ十五里のところに、当麻(たぎま)の郷がある。
昔、倭武天皇(ヤマトタケルノミコト)巡幸の折、この郷で鳥日子という名の
佐伯(天皇にまつろわぬ民)が命令に逆らったので討った。
 
鳥日子というくらいですから、鳥栖の長と考えられるのではないでしょうか?
しかも、私が向かっているのは「当麻(たぎま)」=「当間」です。
 
倭武天皇が屋形野の帳の宮に向かうと、車駕が行く道は狭く、
たぎたぎしい(凸凹の)悪路であったことから、当麻(たぎま)と名付けられた。
野の土はやせているが、紫が繁る。また香取、鹿島の二つの社がある。
周囲の山野には檪(くぬぎ)、柞(ははそ)、栗、柴などが林をなし、
猪、猿、狼が多く住んでいる。
 
私が走った道は「鳥栖」のすぐ南が「当間」でした。
古代は「北浦」に注ぐ川があったのではないかと想像される
沿岸(?!)を走っていると、陸側に鳥居が見えました。
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今では珍しい丸太の鳥居だったので、まわり込んでみますと
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「村社 鹿島神社」でした。
Google Mapには記載されていませんが、他社のMapにはありました。
そして他社のMapでもGoogle Mapでも、ここを左折すると黒栖神社です。
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あれぇ~、おどろおどろしい雰囲気が漂っているような?
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しかも、「村社 鹿嶋神社」と書かれています。
黒栖神社という名前を見つけたから、わざわざ来たんですよ…。
もちろん私の妄想から始まっているわけですが。
「茨城」という地名の由緒について『常陸国風土記』にこうあります。
 
あるとき、大(おほ)の臣の一族の黒坂命が、野に狩りに出て、あらかじめ
山の佐伯、野の佐伯という国巣=国栖(くず)の住む穴に茨の刺を施し、突然
騎兵を放って彼らを追い立てると、あわてて穴に逃げ帰った佐伯たちは
仕掛けられた茨の刺が体中に突き刺さり、あえなく皆死んでしまった。
ここから茨城の名となった。諺に「水泳(みずくぐる)茨城の国」という。

 別の話では、山野の賊を率いて長となり、国中で盗みや殺しをしていた
山の佐伯、野の佐伯と戦うために、黒坂命が茨をもって城を造った。
その土地の名を茨城というようになった。
 
やはり大生の大(多)一族が出て来ましたね。
すると当地の「佐伯」は南から攻められたことになります。
黒栖神社の社名は、まさにこの「黒坂命」と「国栖」を合体させたものです。
だからこそ拙宅から2時間ほどかかる鉾田市当間までバイクを走らせました。
それが「村社 鹿嶋神社」に化けていたとは…!!
 
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しかし、こういう道を走るのは大好きです。
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たぎたぎしい感じもわかりましたし。
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 社殿前のくぼんだ場所は『常陸国風土記』の
「昔、山の佐伯、野の佐伯という国巣がいた。普段は穴を掘ってそこに住み、
人が来れば穴に隠れ、去った後でまた野に出て遊んでいた」
との記述を思い起こさせます。
 
そして、当地の社殿の周囲は蜘蛛窟を想起させますが、何と…
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社殿に向かって左側のこんもりの入り口↑
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社殿後方のこんもりの入り口↑
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社殿右側のこんもりの入り口↑に〆縄がかけられていました。
常陸国でよくみられる新しい偶像が並べられているところが謎ですが。
 
常陸国風土記』の記述が真実なら本当に悲惨な大量虐殺現場から
古代の岸辺へと下りてゆきます。
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この右手がもう一つの「村社 鹿島神社」なのか、今は鳥居だけで
山へ上がる人は居ないのか、尋ねる人もいないのでわかりませんでした。
次は、かつての対岸と思われる正面の台地に上がります。
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常陸国風土記』に「鹿島、香取の二つの社がある」とあったのに
当間で見つけられなかったので香取神社を探すため。
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当社は『常陸国風土記』行方郡条記載社とあったので、私以外にも
「當麻郷」香島香取二神子之社かと考える人がおられるようです。
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たいへんな古木ですが?
境内には特に案内板などありませんでした。
残るは、さらに南下し行方市内宿にある化蘇沼稲荷神社
常陸国風土記』にある「芸都(きつ)の里」ではないかと想像しています。
 
当麻より南に芸都(きつ)の里がある。
昔、寸津比古(きつひこ)、寸津比売(きつひめ)という国栖がいた。
寸津比古は、天皇の巡幸を前にして命令に背き、無礼な態度を貫いたので
一太刀のもとに討たれてしまった。
それを愁いた寸津比売は白旗を掲げて道端にひれ伏して天皇を迎えた。
天皇が憐れんでその家を許したので、寸津比売は姉妹を引き連れ、
雨の日も風の日も、真心を尽くして朝夕に仕へた。
 
常陸国風土記』の舞台であることは地元でも認められているようです。
野友の香取神社から串挽に出て、184号線を南下していますと
右手にこんもりとした円墳(蜘蛛窟)らしきものが見えました。
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咄嗟に化蘇沼稲荷神社のことを忘れ、バイクを停めました。
実際にはここが化蘇沼稲荷神社だったのですが。
こんもりを見ていたら、氏子さんがいらっしゃったので、
「これは円墳でしょうか?」と尋ねると
「いえ、要らないものを積んだだけのゴミの山ですよ」と仰います。
「でも反対側には石碑がありますよね?」と訊くと
「そうですか? 新しいものですけど…」と言われるので
「木が生えているのですから、最近のものではありませんよね?」
と堂々巡りになってしまいました。
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ゴミの山にわざわざこういうものを建てるとは思えないのですが?↑
彫られている文字はハッキリしないのですけれど、
「文化十一年」と読めます。もしそうなら1828年です。
その年に作ったゴミの山?
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 当社の創建は「文明十年(1478)」のようですね。
しかしながら「化蘇沼」と冠しているわけですから
そもそもの御神体は「化蘇沼」でしょう。
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社殿から150mほど北へ進むと奥宮たる「化蘇沼」があります。
しかしながら現在は水量がかなり減っているようです。
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件の氏子さん曰く「以前は向こうの木が水没するくらい大きな沼だった」。
古代、こうした台地では水が無いと農業もできません。
水はとても貴重だったので祭祀が行なわれたと想像できます。
よって、1478年創建の化蘇沼稲荷神社とは別の祭祀では?
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たいへん立派な社殿です。徳川家の「葵の紋」がついているそうです。
しかしながら私が気になったのはダビデの星に似た本殿の「星」でした。
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麻賀多神社にもありませんでしたっけ?
成田市台方稷山(あわやま)麻賀多神社本社
 
もしかすると、水戸家との関係ですか?
水戸徳川家は、鹿島・香取・息栖の東国三社+神崎神社ばかりか
2,000とも3,000とも言われる数の寺社改革を断行していますからね。
 
水戸家が当地に興味を持った理由としては、甲斐国へ行った武田氏の庶流が
15世紀初頭に常陸国へ戻ってきて「武井郷」だった当地を「武田」に変えて
常陸武田氏の居城を建てたことと無関係ではないような気がします。
当社から南西に直線で1.5kmほどの行方市両宿の「神明城」が
常陸武田氏の居城だったようです。
まだまだわからないことだらけなので
今回は境内にあった石碑の社史を引用するにとどめます。
 
正一位化蘇沼稲荷神社々誌
  古来この地方を芸津郷といい聖地は郷内にあり、神社裏手に沼あり
御神体出現し化神蘇生の由を以て人これを自然体信仰として崇め祀る。
  和銅年間以後に至り芸津郷より内宿邑木崎を本郷として高家郷が分離し
芸津郷は成田庄となる、その後高家郷は武家の字を用い
更に成田庄と武家郷を併せて武井郷と改め聖地はこの郷内となる。
  第60代醍醐天皇の延喜元年常陸大掾平国香公、当社を創建すると云う。
  應永24年新羅三郎源義光公10代の後裔甲斐源氏武田信春の子
五良七良信久公上杉禅秀の乱に敗れ難を逃れんとし
式部太夫武田高信公固有の地武井郷来り住す。
  天文3年信久公6代の後裔民部大輔通信公社殿を再建
相撲を奉納武運を祈り武田郷9ヶ村の郷社と定め
正一位化蘇沼稲荷大明神と称号する。
  天明8年11月10日野火により本殿・舞殿・篭殿全焼する。
  文化元年領主水戸徳川家御連枝奥州守山藩主松平大学頭賴慎公郷民に
喜捨令を出し本社の再建復興をなす。
  安政5年12月本殿、万延元年舞殿の葺替奉行により領主
松平大学頭賴誠公より八角三葉葵の紋章を寄進せらる。
これを当社の社紋と定む、時の社掌薬師山円長寺代47世俊澄なり。
  明治32年12月氏子の浄財により本殿を銅板、
 舞殿を亜鉛板にて葺替奉行す社掌権中講義宮司宮内北湖なり。
篭殿老朽に伴い廃屋とし、昭和40年8月現在地に社務所を建設する。
宮司鬼沢閲美なり。
  昭和61年3月昭和天皇御在位60年を奉祝し氏子の総意により
浄財をもって舞殿の銅板葺替を奉行す宮司宮内則美なり。
  特に当社は江戸時代には歌人墨客訪れ
「お江戸見たけりゃ武田へおいで武田三宿江戸勝り」と歌われ
門前茶屋9軒あり、遠く奥州武州より善男善女来り盛況を呈す
境内の松尾芭蕉はせを山居由之等の句碑は往時を語る証なり。
  例大祭明治43年七区輪番制と改め成田・次木・長野江・内宿・三和・
小貫・両宿の順位にて区長祭典長となり執行する。
祭典の中核は古来より伝承せらるる青年相撲と巫子舞の奉納にあり。
この由緒ある無形文化財の保持を希求す
茲に皇紀2650年聖上陛下御即位の佳年を卜し社史を刻し後世に伝えんとす。

  平成2年11月吉日  北浦村文化財保護審議会