藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

将門ゆかりの地 2

今日もまた暑い一日でした。
ヘルメットをかぶっていると、風を切って走っていても蒸れてきます。
また、バイクで走り始めると、2-3時間は水を飲まないため
熱中症にならないよう、今日は曇ってから出掛けました。
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帰途、土手を走りながら18:13に撮った小貝川です。
 
3日連続「香取海」を走って守谷市を探索しました。
行きは、小貝川を越え、取手駅前から利根川沿いを走って守谷市高野へ。
守谷市立高野小学校です。
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前回は「鈴塚」を目指していたため素通りしましたが、校舎の向こうの
こんもりが、將門が高野山金剛峯寺のイメージで創建したと伝わる海禅寺です。
そもそも海禅寺という名称が引っかかりますよね…。
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海禅寺から見た高野小学校。
この下まで水が来ていた可能性はないのでしょうか?
利根川は度重なる洪水で流路が変わってきました。
利根川流域において初めて治水事業が実施されたのは神護景雲2年(768)
利根川初の「堤防」建設が建久5年(1194)というのですから、
坂東太郎の異名を持つ利根川の治水は為政者の最優先課題だったと思われます。
利根川流域の群馬県高崎市太田市茨城県南部、埼玉県北部では
利水のための遺構が確認されていますが、將門の時代はどうだったのでしょう?
 
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←こちらは利根川の変遷がわかる霞ヶ浦河川事務所提供の地図です。
 千年余り前、將門の時代の利根川は青い線でした。すると、利根川ではなく「香取海」に面していたから海禅寺
 
新しいところでは、明治初期の地図に、海禅寺の下は茶畑(現 高野小学校)、
南へ向かう「流山」という道が利根川に突き当ると「高野渡」がありました。
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海禅寺についての資料は↑『海禅寺縁起』だけなのでしょうか?
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こちらが江戸時代に建てられたらしい供養塔ですが、
『縁起』の「平新皇と称し…」に対し、↓「平親皇」?
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あれま…!? この調子では真実に迫れそうにありませんね…。
 
ならば、以前「鈴塚」へ行った折、階段で遊んでいた中学生に聞いた
「お化け石」でも探しますか…。
何でも、昭和50年7月頃、高野中坪地区にある成田山不動明王の石碑に
「人の顔が浮かぶ」という噂が近所の小学生たちの間で広がったそうです。
その噂をテレビ局や週刊誌等が取り上げたことで、
全国各地から見物客が押し寄せたのだとか。
 
將門の調伏に成功した成田山憎しで住民は絶対に成田山へ行かない
とまで言われている高野に、なぜ成田山不動明王の石碑が?
この疑問を解消してくれればよいのに、単なる「お化け石」騒ぎだったようで。
でも今の中学生が知っていたというのは、さすが旧 北相馬郡高野村ですね。
 
地図を見ると、將門創建の海禅寺からバイクで1分ほどの距離でした。
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おっ?! 鉄条網ですね! 人を歓迎していない感じがしますが?
隣に地図には名称の無い社殿があります。
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恐る恐る見に行くと↓
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「日光大権現」ですって?!
將門を調伏させたってことですか?
しかし、何となく新しい感じがするのですが…?
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この石碑、千年以上経っているのでしょうか?
そうした歴史的事実がどこにも書かれていないので、ここも空振り…。
 
ここから天満宮の方向に羽鳥天神山古墳があると書かれていたので
ナビに「天満宮」をセットしました。
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「高野」にも古墳が点在しているからか、こんもりを上がったり下りたりします。
しかし、このまま直進するかと思いきや左折の指示!?
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普通の車でこんな道を通りますか?
もちろん果敢なバイク乗りの私は走りました!
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左手のこんもりに鳥居が見えます!!
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しかし…上に何があるやらわからないのに、この階段を昇れますか?
私としては珍しく逡巡し、バイクを停めるスペースも無いため、
こんもりの端っこまでバイクを走らせました。
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すると、小さな池に〆縄が!?
後ろには水田が広がっていて、農業用水として大切な水が祀られていたのです。
ならば…と意を決してバイクを停め、階段を上がりました。
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右が地域の公民館、左が天満宮のようです。
それ以前に、丘陵の上の真丸い平地ですから古代祭祀の場であったはず。
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建物とは無関係に円形舞台の真ん中に座って演奏修行させてもらいました。
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低い丘陵ながら、水田を見下ろす眺めの素晴らしいこと!
階段を下りると、先日行った「鈴塚」↓(妙見社があった)が見えました。
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画像中央のこんもりですが、距離にして僅か200mです。
こうした拠点を繋ぎ合わせてゆくのが「新皇」の都構想だったのかも?
 
ところで、どれが羽鳥天神山古墳だったんでしょう? 全くわかりませんでした。
では將門が天慶元年(938)興世王のために分城を築いて「今城」と称したという
城址を探します。住所は「今城村」→「高野村」→「守谷市けやき台」です。
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公園としてきれいに整備されていました。
地形がわからないのでこの道の突き当りまで行ってみると
台地の上に建てられていたことがわかりました。
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恐らく眼下の低い土地の向こうに見える台地に「お化け石」と海禅寺があります。
 
帰る道々、將門が創建したと伝わる西林寺(天台宗)を訪ねました。
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相馬家と深い繋がりがあった大寺とされ、かつては境内に守谷城にあった
將門の守り本尊を祀る妙見八幡社があったといわれていますが?
あとかたもなし…。
地図を見ると、近くに「守谷総鎮守」八坂神社という仰々しい名前の神社が。
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ずいぶん間口の狭い神社ですね…(土地が上がっている部分のみ)
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社地はほぼ社殿の幅しかない細長い形でした。
「守谷総鎮守」というわりには古社の雰囲気がないなぁ…と思い
調べたら、806年に創建された後、1598年に高野村から遷座とのことです。
もしかすると、1594年に始まる家康の利根川水系の河川改修との関連かも
しれません。伊奈氏を中心とした利根川東遷事業です。
利根川東遷事業により、江戸湾を河口としていた利根川
銚子を新たな河口とし、現在の利根川水系の基礎が築かれました。
 
さて、今度こそ帰ろうと走っていたら、こんな図を見つけました。
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小さくて判りづらいのですけれど、八坂神社の位置も示されていました。
広い城域が濠に囲まれ、水を湛えていた様子が窺えます。
 
これで取手~守谷にかけての將門ゆかりの地はまわれたでしょうか?
耳寄りな情報がありましたら御教示くださいませ。
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画像右端が何度も渡った稲豊橋です。
中央は小貝川沿いの市之代古墳群で、まだ探訪できていません…。