藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

遺跡と将門

世間はゴールデンウィークとやらで盛り上がっています。
25日の抜歯後、薬を飲んでいた私はやたら眠くてぼんやりしていたのですけれど
今日からは薬を飲まなくてよいためバイクで走ってみることにしました。
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小貝川のまわりはこんなに青々としてエネルギーが漲っています。
冬のあいだ何度も往復した土手を走ってみました!
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今日は先日行った姫宮神社の先の縄文遺跡を目指しているので
もっと近道があったのですが、わざわざ土手を走りました。
すると何度も通った間宮林蔵記念館の近くを走ることになります。
間宮林蔵記念館の北の狸渕(むじなぶち)の土手に上がり、
守谷市方面へ稲豊橋を渡るとすぐに右折します。
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ここが縄文の姫宮遺跡がある台地です。
 
そのまま直進していると、いったん下って小貝川沿いに出ました。
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この先の水道橋(?)を左折して次の丘へ登ります。
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急坂を登ってすぐ左折すると熊野神社があるはずです。
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ああ、この左のこんもりの中ですね…。かつては北相馬郡守谷町同地でした。
周囲が同地貝塚同地古墳群ということで来てみました。
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ふう…ん、さすが熊野神社と言うべきですかね?
バイクで近づいてカメラを向けても平然と歩いています。
ただし、3本足ではなく、2本でした。
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鳥居手前のこの緑!!!!! 声も出ないほどきれいでした。
ただ、何の樹なんだかわかりません。葉っぱはイロハモミジに似ていました。
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樹の裏側からも撮ってみました。
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小さな社殿の奥と右側に竹林が広がっています。
もちろん社殿や社名が問題なのではなく、縄文遺跡のある場所に来て
空気を吸ったり神楽歌をうたったりすることが栄養補給になります。
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縄文遺跡や貝塚のある場所には必ずと言っていいほど
こうした細い道がありますね…。一人では怖くて入れない
まるで異次元への入り口のような雰囲気を漂わせています。
 
ところが、バイクの向きを変えると目の前は公道です。
そこを南下すると田植え前の水田が広がっていました。
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地図上には次のこんもりの右手に天神神社があります。
なぜここに菅原道真が? との興味で立ち寄ることに。
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しかし、何度この道を行ったり来たりしても右折ポイントはここだけ…!?
いくら私が冒険野郎でも、あの真っ暗な穴に突っ込む勇気はありません。
このまま素通りして、次の縄文遺跡を目指します。
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あ、あれが神明神社だわ!
農道が地図に載っておらず、周囲をグルグルまわってしまいました。
そうなると直感に頼るしか手がありません。
行きどまりに見える道を入ったら左手にこの光景が広がっていました!!
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こんな道を走れるのもバイクなればこそ! たしかに神明神社と書いてあります。
しかし、暗くて社殿がよく見えません…。
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でも、こんもりの中へ入るとこんなに明るい神社でした。
縄文遺跡の上に立っているかと思うとワクワクしますね。
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昨日、整体で教わった楽坐の時に体重をかけるポイントを探してみます。
なにしろ今までと逆の方向に体重をかけるらしいので大変です。
座って空を仰ぐと、こんなにきれいな緑が広がっていました!!
《祓戸》+《神擧》=25分でポイントがほぼ定まりました。
あとは回数を重ねて慣れるだけですね。
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楽器を片付けて、農道から公道へ出ると「神明遺跡」の道標が!?
さっきは全く目に入りませんでした。神明神社は目と鼻の先ではありませんか!?
まぁ、こんなものか…と社殿のあるこんもりを見ながら嘆息…。
このあたりの貝塚や遺跡へすんなり行けたことなどありません。
 
さて、実はここへ来たもう一つの理由は將門の子孫にまつわる伝説によります。
もちろん將門の子孫に関する伝承は歴史的事実とは認められていません。
それを承知の上で書きますが、当社(神明神社)は長治元年(1104)、
將門の孫 相馬文国が伊勢神宮より勧請したと伝わっているそうです。
 
●天慶3年(940)の將門没後、子の將国が常陸国信太郷へ落ち延び信太氏を名乗る。
●將国の子 文国は各地を流浪するも子孫が相馬郡に戻り相馬氏を名乗ったという。
●文国の末裔 師国に嗣子がなく、同族の相馬師常を養子に迎えた時点で將門の
男系血筋が途絶えた。
 
幾つかの伝承に照らせば、各地を流浪していた相馬(信太ではないのか?)文国が
神明宮を伊勢神宮より勧請して創建したと言い切るのは難しそうです。
わざわざ將門の子孫の名を借りずとも、当地に複数の神明宮が現存するのは
11世紀(平安時代後期)には伊勢の神宮相馬御厨があったから
と考えるのが自然ではないでしょうか。
 
そもそも私が「將門ゆかりの地」に興味をもったのは、將門の本拠地の一つが
古墳時代後期の大日山古墳(取手市岡=旧北相馬郡)であったり、
五十塚古墳群の鈴塚(守谷市鈴塚=旧北相馬郡鈴塚村)であったり、
姫宮遺跡遷座した姫宮神社の祭神が將門の妾とも娘とも言われている点です。
 
現在も縄文遺跡の周辺に住む人々は「どんなに不便でもこの土地を離れない」
と仰るほど、二千年以上にわたり壊滅的な災害に遭っていないことを
重視しておられます。恐らく千年前の將門の子孫もその点に着目したのでしょう。
古代からの人々の知恵に敬意を払い、遺跡を訪ね歩いている次第です。
 
さて、ここまで来れば、將門誕生の候補地の一つとして知られる
龍禅寺へ行ってみなくてはならないでしょう。
龍禅寺は天慶2年(939)に將門が創建し、僧伝誉によって開山されたそうです。
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当地には延長2年(924)、すでに三仏堂があり、ここへ参詣した將門が
龍禅寺を創建したとも言われています。
取手は、その地名さえ將門と付会させるような土地柄ですから
伝承を鵜呑みにすることはできませんが、三仏堂は趣がありました。
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本日は16時からのミニミニ修行でした。