今日もミニミニバイク旅です。
ユリ科の「オホアマナ」に似ていますが?
「オホアマナ」は別名を「ベツレヘムの星」と言うそうで、
「ベツレヘムの星」は八芒星ですが、「オホアマナ」は六花弁です。
ホントは何という花なんでしょう? ご教示ください。
さて、今日も將門ゆかりの地をまわりましたよ。
先ずは生誕地…というか母方の実家があったとされる場所です。
あのこんもりの住所は取手市本郷です。すると右手に平たく見えるのが
將門の本拠地の一つだったとされる大日山古墳でしょう。
信号を右折して、こんもりの右側へまわりこみました。
やはり右手の病院の向こう、左へ広がっているのが大日山古墳です。
ここを左折して急坂を一気に登ります。
すると、唐突に右手にありました。春日神社です。
いや、神社と言われても…と驚きましたが、この周辺に將門の母の実家
縣犬養氏の屋敷があったと言われています。
「下総国の防人部領使少目(さきもりのことりづかいしょうもく)
縣犬養宿禰浄人(あがたいぬかひのすくねきよんど)」の末裔としています。
今日は他の候補地をまわってみることにしました。
150mの距離で、この周辺に縣犬養氏の屋敷があったと言われています。
境内が広大で驚きました。山門をくぐってから撮った画像↓です。
(勝手にバイクを停めちゃって↑すみません)
東漸寺観音堂の裏には↓こんな石祠がありました。
由緒の詳細は不明としているのは、將門ゆかりの地であることを
隠したい時期があったからでしょうか?
また11世紀には存在していた相馬御厨の場所も特定されていません。
ただ、この「本郷」の西の地名が「駒場」であり、
「本郷」の神明神社は、今は道路に面して建っていて、社地も狭く、
ここを縣犬養氏の屋敷跡とする説には首をかしげざるを得ません。
將門の母や弟の將頼が海禅寺に住んでいたと記載されているそうです。
それ以前に、「とりで」と呼ばれる地形が馬場には向いていないと感じます。
4/4に訪れた「平將門公史跡」たる鈴塚村の妙見社とは比べものになりません。
今は住宅地の中に埋没してしまい、鳥居を探すのにも骨が折れました。
目の前を関東鉄道常総線が走っていて、線路沿いの細い道へ入るにも
他所様の宅地を通りぬけるといった感じでした!?
千年前の様子はわかりませんが、高低差のある土地ですし、
広々とした馬場というイメージはありませんでした。
そこで、今日は再び「高野」の地形を見に行こうとしているものの、途中、
やはり縣犬養春枝の居城跡との伝承がある戸頭神社へ行ってみることに。
「戸頭」に縣犬養春枝の居城があったと言われる理由の一つに、
この辺りの人々が將門を調伏した成田山へ行かないことがあります。
また、この地は「七里の渡し」という利根川沿岸の交通の要衝で
土手へ上がっても、利根川は見えず、支流の水門だけが突っ立っていました。
『北相馬郡志』に「地理志料云、戸頭者津頭也、疑古駅址、観応二年(1351)、
「戸頭は津頭なり、古駅の址だったのではないか」と推測すると
船着き場たる津頭には渡船場や宿場町があったはずです。
今の地図を見ても想像がつきませんが、かつては神社前の街道に
料理屋などが軒を連ね、川止めの時には三味線の音が絶えなかったとか。
ナビが間違えて戸頭神社を通り過ぎてしまったので引き返します。
土手から戻るのにいったん下り、神社の手前で上り坂になりました。
社殿に向かって左側が崖のようになっていたので、往古はここが
利根川の岸だったのかもしれません。
一見すると普通の神社のように見えますが、合祀の嵐だったようです。
裏のマンションは、もしかして社地を切り売りしたものでしょうか?
香取神社として創建された当社は、明治45年に鹿島、八坂、面足、阿夫利等の
各社を合祀して戸頭神社と改称されたそうです。
では以前からマークしていた「高野」の浅間神社へ。
驚くべきことに、浅間神社までの道は舗装されていました!
ここはやはりバイクで上がるしかないでしょう。
たしかに富士山の方を向いた浅間神社がありました!
反対側は階段でした。参道を見ると神仏習合の跡が色濃く残っています。
社殿の右奥へまわりこんでも数多くのオブジェが並べられていました。
それにしても富士塚の上とは思えないほど広々としています。
気持ちよく演奏修行していたら、何かが降ってきました!
演奏後によくよく見たら、食べられないソメイヨシノの実のようです。
思いがけないプレゼントと、演奏上のヒントを得て意気揚々と帰途につきます。
帰りは遠回りをして富士塚の周囲を巡る道を一周してみました。
ここは馬場として利用できたのではないか…との素人考えが浮かびました。
狭隘で高低差のある道もありますが、なだらかに続く道もあります。
それが將門が海禅寺を創建するきっかけになったのではないかと感じますが、
地図上では先日行った際に一段低く見えた高野小学校に隣接しています。
もしかすると戸頭神社と同じく、崖の上に建っているのでしょうか?
行って現場を見ないと何もわかりません。
近くに「お化け石」(成田不動明王の石碑)もあるらしいので行ってみますか…。
今日は、もう一ヶ所まわって帰りました。
地図上で大日山古墳に隣接する仏島山古墳です。
以前、地元では大日山古墳に將門の墓があると伝わっているとの話を読み
仏島山古墳は場所もわからなかったので素通りしてしまいました。
ところが、仏島山古墳に將門の墓があるという説もあったのです。
もちろん、どちらも史実ではありません。
何らかの理由があってそのように語り継がれているわけです。
こんな道を見つけてバイクで登ってみたのに
着いた先は大日山古墳の上に建つ岡神社でした!?
諦めて帰ろうとしていると、近所の方がお子さんを連れて歩いておられました。
夢中で「仏島山古墳はどこですか?」と尋ねると
「その先の民家の間を抜けた突き当りです」と教えて下さいました。
突き当りまで行くと看板がありました。
將門の墓は、これ以上、古墳を崩されないための"まじない"でしたか…。
人の墓を掘り起こすとはとんでもない世の中ですねぇ。
全国各地にさまざまな形で祀られた將門様はどんなお気持ちなのでしょうか?