タクシーで2分ほどの場所に蹴裂(けさき)神社があります。
当社のルビは「けさく」ではなく「けさき」でした。
「さく」も仲間と言われていますが。
ふと左手を見ると「上野城跡」?
上野城は海抜287mにあったそうです。
戦国時代には手早く築城するために丘陵や山間部に鎮座する寺社を
利用した例が少なくないので、先に蹴裂神社があったと考えたいのですが、
上野城跡に蹴裂神社があると書かれたものもあり、詳細は不明。
境内地には巨木があり、古い祠も残っているようですが?
さらに裏へまわってみてビックリ!?
地元で結構な言われようの天守閣風ふるさと資料館とはこれでしょうか…?!
しかも地図上では、ここは歌舞伎公園となっています。
何と「市川團十郎家」発祥の地でしたか…。
しかし今は歌舞伎どころではなく蹴裂神社、蹴裂明神です。
『日本伝説集』より山中共古説を引用させて頂きます。
甲斐甲府の地は、昔、一面の湖水であって、冷たい水の面が、富士の頂きを
逆様に映していた。
地蔵菩薩がこの土地の様子を見て、
「この水を除けて陸地を造ったら、人も住まれよう、畑も出来よう、
どうにか成らぬものか」と二人の神様に相談をされる。
神様たちはこれを聞いて、「いかにも道理」と賛成して、一人の神様が山の
端を蹴破って、今一人の神様が山を切り穴を開けて、その処に一条の水路を
開いて、大湖水の水を今の富士川へ落とさせる。
それを見た不動尊は、引っ込んではいられぬと、これも川瀬を造られる。
この二仏二神のおかげで、甲府の土地は現われたのである。
山を切り穴をあけられた神は今、甲府の西に、穴切神社としてまつられ、
山を蹴破られた神は、蹴裂明神として知られている。
瀬立不動が川瀬を造った不動様で、今、甲府の東光寺にある稲積地蔵という
のが、はじめに云いだした地蔵様である。もとは、法城寺に在ったのを、後に
東光寺に移したのである。その証拠には、法城の二つの文字は、水を去り土を
成すと読まれるではないか。
不動尊が出てくるとなると…仏教が日本に入って以降の話であり、
甲府盆地に縄文中期の遺跡があることで簡単に退けられますね。
神社の多くが日本の建国神話にもとづいて社名や祭神を決めた歴史に鑑みると
蹴裂明神もあとづけなのかも知れません。
取り敢えず、ここから南東の山中にある次の蹴裂神社へ行ってみましょう。
下九一色郵便局から東へ進み、上九一色へ右折する手前の下芦川にあります。
「目的地に到着しました」とナビに言われるも、寺社など見当たりません。
すると運転手さんが「ここを上って行って下さい」と仰います。
ほんとかしら? この右側の道?
何もなかったらどうしよう…との不安を感じつつ一人で歩き始めました。
しばらく上っても建造物は見えてきません。
運転手さんは車の向きを変えて、さっきの上り口で待機して下さってます。
あっ、建物がありました!! 手前のお寺は日蓮宗とのことですが、無住でした。
十数歩で鳥居前の石段です。
ここまでの道もこの先もずっと道沿いに石垣が築かれていました。
地図上は蹴裂神社でしたが、扁額は↑明治以前の「蹴裂大明神」です。
荒れ果てていたらどうしようとの不安が消え、↓隣の大乘寺を撮る余裕も。
裸眼0.05のまま歩いているため撮影時は気にならなかったのですが、
パソコンに取り入れてから大乘寺の窓ガラスを見てギョッとしました。
恐らくガラスが割れた個所に人の顔がプリントされた紙でも貼ったのでしょう。
もう一枚にも写っていました。まるで肝試し?!
くわばらくわばら…。さっさと退散いたしましょう。
なぜこのような山中で祀っているかということです。
笛吹川と合流する芦川は目の前を流れていますが、
もしかすると大地の分裂、断層etc.をも暗示しているのでしょうか?
一宮・二宮・三宮…というのは法律や約束があるわけではなく、
いわば自己申告です。名乗ったもん勝ち!?
当社の社殿前に立つと、ここからは見えない富士山を遥拝することになります。
いつもながら、社殿など建つ前からあったに違いない石の方が気になりました。
わざわざ囲われていますが? 富士川大橋の手前にあって立ち寄っただけなので
ササッと2,3枚撮影して先を急ぎました。
あらら…ずいぶんド派手な鳥居ではありませんか!?
地図には「飛川神社」とありましたが、「飛川宮」ですか…。
本殿を見にきました。
えええ~!? 昨日もありましたよね、ビッシリと網が張り巡らされていて
中の社殿が全く見えない(撮れない)神社。
甲州には多いのでしょうか? とんだ道草になりました。
いやいや…次がメインなのですから腐らず行きましょう。
え? ここですか? こちら側に看板がありますが。
『行基菩薩』によるものと多彩ではあるが、
(中略)
この狭隘な出口ゆえに
この狭隘な出口ゆえに
水害に苦しめられてきたこの地が新たな歴史を刻むこととなったのは、
念願の「富士川禹之瀬河道整正」工事第一期(昭和62年~平成3年)が
始まってからでした。
いや、やっばり富士川の方でしょうか?
甲府盆地が湖だったとしたら、このあたりで堰き止められていた格好ですよね?
「あ、ありましたよ!!」
運転手さんの声で右を見たら、社殿の無い蹴裂明神がありました。
石段をあがって富士川を眺めました。
が、案内板はすでに表面が剥がれ落ちていて読めません。
ただ、地図上ではここから登ってゆくと「国見平」があるので
このあたりが伝承地であることは間違いなさそうです。
山梨県・山梨日々新聞社編集発行の『ふるさとの風物』より抜粋
ずっと昔、まわりを高い山々に囲まれた甲斐の国は、一面が広くて深い湖でした。
その水辺に住む人々は、せまい土地を耕して、貧しい生活をしていました。
「この水が引いて、広い土地に住めたらなぁ…」
人々はそんな夢のようなことを考えては、溜息をつくのでした。
その水辺に住む人々は、せまい土地を耕して、貧しい生活をしていました。
「この水が引いて、広い土地に住めたらなぁ…」
人々はそんな夢のようなことを考えては、溜息をつくのでした。
そのとき、ずっと黙っていた向山土本毘古王(むかふやまともひこわう)が
「甲斐の湖を、私が切り開きましょう」
と言いつつ、神様たちを見回しました。
「どのようにして切り開くのですか?」
「甲斐の湖を、私が切り開きましょう」
と言いつつ、神様たちを見回しました。
「どのようにして切り開くのですか?」
神様たちが聞くと、
「私におまかせください」
と言い、家来を従えて山深い甲斐の国へ出かけて行きました。
「私におまかせください」
と言い、家来を従えて山深い甲斐の国へ出かけて行きました。
そして、曽根の丘から湖を眺めました。
「こんな大きい湖の、どこを切り開くのですか?」
「すぐに筏(いかだ)を組め」
「こんな大きい湖の、どこを切り開くのですか?」
「すぐに筏(いかだ)を組め」
そう王が命じると、家来たちは梨の木を切って筏を作り、湖面に浮かべました。
王の一行はその筏に乗って切り開く口を探しまわりましたが、なかなか良い場所が見つかりません。
ある朝、曽根の山々は黒雲に覆われ、湖の向こうの八ヶ岳まで濃い霧に包まれ、視界が遮られました。
「筏を出せ! お告げがあった。今日はきっと何かが起こる」
「筏を出せ! お告げがあった。今日はきっと何かが起こる」
と命ずる王に家来たちは反対しましたが、王は再び大声で命令し、筏は湖の彼方に消えていきました。
「あれは何だ!?」
怪物が渦を巻きながら向かってきて、王の乗った筏を引き始めました。
「これこそお告げのあった大亀だ!」
怪物が渦を巻きながら向かってきて、王の乗った筏を引き始めました。
「これこそお告げのあった大亀だ!」
と王は叫びました。大亀は筏を湖の南へ引いて行き、一時間もすると、二つの山が重なり合った谷間に筏を引き込んで、どこへともなく消えてしまいました。
やがて大粒の雨が降りはじめ、風が筏を揺さぶって、筏が着岸しました。
「ここだ! 湖を切り開くのはここだ!」
王は興奮して叫び、家来たちも声をあげて喜び合いました。
そうして岸辺に近い天戸の地に仮御殿を建て、工事に着手します。
一つ向こうの小高い丘には、水位をながめる国見御殿も建てられました。
「ここだ! 湖を切り開くのはここだ!」
王は興奮して叫び、家来たちも声をあげて喜び合いました。
そうして岸辺に近い天戸の地に仮御殿を建て、工事に着手します。
一つ向こうの小高い丘には、水位をながめる国見御殿も建てられました。
やがて甲斐の湖は水が引けて広い肥沃な土地に変わり、人々が移り住んで、新しい甲斐の国となりました。
ちょっと待って下さいよ!「うのせ」と言えば小浜の鵜の瀬。
東大寺二月堂の"お水取り"に水を送っているとの伝承を知り、二度訪れました。
鵜の瀬の伝承は、全国の神を修二会へ勧請した際、釣りに夢中になって遅刻した
若狭の遠敷明神が聖水を送ることを約束させられたことに端を発しています。
12日深夜の"お水取り"が本行のクライマックスとされます。
籠松明(かごたいまつ)が焚かれ、練行衆が祈りの合間に二月堂下にある
籠松明(かごたいまつ)が焚かれ、練行衆が祈りの合間に二月堂下にある
若狭井(わかさゐ)に水を汲みにゆくのが"お水取り"の儀式。
そのため、若狭では3月2日に送水の儀"お水送り"を行ないます。
朝廷が定めた儀式の一端を担うということは、
その地方が朝廷の支配下に置かれたことの暗示でしょう。
甲州の禹之瀬が若狭の鵜の瀬と同じ発音だったので、つい脱線してしまいました。
禹之瀬近くの蹴裂明神から撮った富士川です。
あの橋を渡ったら左折して、川沿いにある伊勢神明宮諏訪神社を探します。
昨日の船形神社も諏訪神社(明神)でした。
何だかナビが凄い道(舗装されてない!!)を教えてくれました。
これは、行きどまりというものです。土手の向こうは富士川。
上ってみたいけれど、社殿を見つけて演奏修行せねば。
とても川沿いとは思えない緑ですね! 山の中みたい。
たいへんな古社のように見えますが…?
あ~!! あそこに鳥居がある! この参道は車では入れませんね。
農道を走って土手の下の広場に停められてラッキーでした。
ずっと道が狭くてタクシーを離れられなかった運転手さんが来てくれたので
「すみませんが、演奏している写真を撮っていただけませんか?」
とお願いしたところ、たった1枚だけ撮って下さいました。
決して悪意があったわけではなく、フレンドリーで、「次はいつ来るの?」
「日程が決まったら連絡して」と携帯番号を教えて下さいました。
しかも、支払いにはイロをつけるのが当たり前なのに、
時間も運賃も端数をカットした上、チップも受け取ってくれません。
本当に順調にまわれて、たくさんの情報も頂けて有難い限りでした。
早速、次のスケジュールをお知らせしようと思います。
甲斐国、まだまだ続きますよ。
(甲州地鶏を食べるため?!)