藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

巨麻郡

巨麻郡の初見史料は
正倉院文書』天平宝字5年(761)12月「甲斐国司解」中の「巨麻郡栗原郷」。
郡名の由来としては、
江戸時代の『甲斐国志』など近世の地誌類による
甲斐の黒駒と称えられた良馬を産出した土地で古代に御牧が多く存在したとの説と
続日本紀霊亀2年(716)5月16日条に見られる
高句麗滅亡後の朝鮮半島情勢により甲斐をはじめとする関東や中部の7ヶ国へ
高句麗からの渡来人が帰化したとの記述を語源とする説がありました。
 
その巨麻郡=巨摩郡に「小笠原」の地名が2ヶ所あったので訪ねてみることに。
韮崎駅からタクシーで北杜市明野町小笠原へ向かっていると、地図上で
手前の三之蔵に三之蔵神社(明野村指定文化財)がありました。
運転手さんに立ち寄って下さるようお願いしたのですけれど…
全く何の情報も無し…。
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社名も無ければ、文化財データも無いのです。
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おそらく拝殿の前にあったこの建物が文化財なのでしょう。
しかし滑り台を横に置くとか…どういう美意識?
左手の広場にブランコがあったので、そちらにまとめた方が遊びやすそう…。
 
ちょっと寄り道をしたのち「小笠原」を目指しました。
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「ここはお寺ですよ」と運転手さんが正面を見て仰います。
「明治までは神仏混淆で神社とお寺は一緒ですから目的地は右にありますよ」
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ほら、あった‼ 明治以降は神仏分離五社神社ですが、扁額は五社大権現
しかし、ここを一人で登るのは勇気が要りますね…。
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奥行20cm以下の石段が苔生しているので注意して登ります。
社域全体が、丘というより塚のようにも見えます。
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拝殿が見えてきました。ここじゃ演奏できないよね…
と生意気なことを考えつつ本殿を見たら立派でビックリ⁉
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お⁉ 屋根の社紋が小笠原氏の三階菱です!
それで地名が「小笠原」…?
社伝によれば「式内笠屋神社」で、今も「笠屋権現」と俗称されるものの、
熊野本宮・新宮・那智・白山・箱根の五神を祀って五社神社となり、
長保年間(999-1004)に笠原山福昌院の配下に入って
阿弥陀・薬師・千手・十一面・文殊本地仏として以来、
笠屋神社の社名を失ったといいます。
 
ここからは来た道を引き返し、塩崎のお舟石古墳を目指しますが、
行きに、七里岩(しちりいわ)と同じ約20万年前に発生した八ヶ岳の山体崩壊に
起因するものではないかと思われる侵食崖を見かけたので撮影。
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数分で塩崎駅南西の「ラザウォーク甲斐双葉」に着きました。
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お舟石古墳は既に駐車場となり、石のオブジェがいかにも場違いな感じです。
もともとは、この上にこんもりと盛り土されていたのですね。
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この古墳は6~7世紀頃のものですが、
甲府市塩部の塩部遺跡の方形周溝墓から4世紀後半代の馬歯が、甲府市
下向山町の東山北遺跡の方形周溝墓からは4世紀末の馬歯が出土している。
また、甲府市の横根・桜井積石塚古墳群の石室内や
 甲斐市志田のお舟石古墳の周溝からも古墳時代の馬が出土している」との
記述を読み、南アルプス市「小笠原」への通り道だったので立ち寄りました。
 
再び「小笠原」を目指して走っていますと
看過できないこんもりが目に飛び込んできました‼
私が固まる様子を見た運転手さんが
「ここの地名は上今諏訪です」と教えて下さいました。
「それじゃあ上今諏訪の諏訪神社ですね?
すみませんが、引き返していただけますか」
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これは大変です‼
左の図を見ると、春宮・秋宮まであって、まさしく“今来の神”として
諏訪明神が一大聖地を形成していました。
こうなると気になるのが社殿奥の左右に位置するこんもりです。
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↑こちらは社殿に向かって左奥。
↓こちらは社殿に向かって右奥。
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迫力満点です…。
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妄想癖のある私は、もちろん蜘蛛窟ではないかと怯えているわけです。
それ以外は普通の神社に見えましたが。
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寄り道したものの、「小笠原」までは数分の距離です。
 
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北杜市明野町と同じく、こちらも「小笠原」の笠屋神社
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式内社で「巨摩郡四社の一を笠屋神社とす」とあります。
しかも社紋が小笠原氏の三階菱‼
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巨木が素晴らしかったのですが、あまりに高く伸び、
全容をとらえられませんでした。
住宅密集地にあって古代の面影を伝えるのは巨木だけ?
もしかすると「小笠原」の名が手がかりになるかもしれません。
 
私的には、どちらが式内社笠屋神社なのかというよりも、
現住所が北杜市南アルプス市であっても直線で16kmしか離れておらず
いずれも小笠原氏が治めた時期があったことに注目したいと思います。
言い換えれば、どちらも笠屋権現だった可能性があるということです。
 
次は、五社神社絡み。山登り覚悟で甲府市右左口町(うばぐち)へ。
先ず「左右口」を「うばぐち」とは読めません。当て字でしょう。
経験上、「うば」とか、最後に行く予定の住所「国母」とかは
フスミノオホカミ=イザナミを祭神とする熊野系神社の可能性が高いと思います。
地図で五社神社を見つけ、北杜市と同名だったので関連があるかも知れない
と行ってみたら、私が「うば」の暗示と思っていた熊野神社でした‼
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縁起に役小角(役行者)の「富士山霊峯の開山」が出ていたのにはビックリ⁉
甲州には富士山のコノハナサクヤヒメを祀る神社は多いものの、
役行者の富士開山に纏わる縁起に触れたことはなかったので。
 
しかし、この「祭起沿革」を目にするまでが大変でした。
先ず登り口がわからない…。
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おそらくこの橋を渡った先にある王子権現から登るのだろうと思われますが、
運転手さんがかなり奥まで見に行って下さって
「ここから一人で登るのはやめた方がいいと思います」と仰います。
そして我々は次の橋に掛かっていた「工事車両専用」の看板を見つけました。
しかし一本目の橋は狭かったので、一つ先の橋から手前の道に合流することに。
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半分ほど登ったところに工事用車両が5~6台停まっていました。
ここから先も舗装されているのかどうか不安でしたが、
Uターン出来るスペースがないため、突進を決めました。
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ともかく行けるところまで行く覚悟で登ってゆくと、
王子権現からの行者道らしき道と合流しました。
そこが最後の物凄い鋭角のVターン地点で、あとは直進するのみ。
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すごい…来られた…。運転手さんのお蔭です。
想像した以上に立派な拝殿に驚いていたら、本殿に入れました‼
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演奏前に上着の裾を引っ張っただけなのですが(よりによってこんな瞬間撮る?)
やる気満々…というか、まるで馬のシッポが跳ねているようですね!?
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今日は駐車スペースの無い神社ばかりだったので、当社のみ
運転手さんに撮影をお願いできたのでした。
 
本殿の左手には「洞山方面」への登山道がありました。
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これは…ケモノ道でしょう。そして右隣には句碑?
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「洞山を 通って行者 富士ひらく」
新しい句碑のようですが、役行者を詠んだものかと…。
 
当地は役小角が富士開山にあたって五ヶ所の権現を守護神として祀り、
南の九一色郷から富士山に登頂したと伝わる謂わば聖地です。
当社の山頂には行者堂があったそうです。
甲斐国古社史考』に「式内社 表門神社」と書かれているのは、
富士への初登頂地を、富士山の表門と考えたからではないかと言われています。
 
昨日も今日も、やはり山が最高でしたね。
そろそろ甲府駅を目指さねばなりません。
あと一社、「国母」の語源になったとも言われる国母の熊野神社へ。
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「犬・猫」のことはともかく、「大洪水」について書かれていました。
縄文晩期以降の甲府盆地は、湖だったというわけではなく、
しょっちゅう「大洪水」に見舞われていただけかもしれません。
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甲府市内に何社もある熊野神社のうち、国母の「熊野皇太神」に足を運んだのは
元和(1615-24)の大水によって社殿が荒廃した「上小河原」の笠屋天神御神体
熊野神社に安置されたとのデータを見つけたためです。
笠屋天神について『甲斐国社記寺記』は大己貴命事代主命少彦名命を祀る
式内社 笠屋神社であるとしています。
式内社 笠屋神社の候補地はここにもあったんですね…。
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ただし、熊野神社の本殿に合祀されたのか、
境内社の↑稲荷宮に合祀されたのかはわかりませんでした。