藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

甲斐の黒駒

おはようございます。前回と同じ「あずさ」に乗るべく家を出ました。
 
前回、不思議だったのは、古い石鳥居が低かったことです。
それで、古代人は現代人よりもかなり身長が低かったのか? と思い、
戦国時代の騎馬武者を描いた絵図を思い出しました。
人と馬が極端にアンバランスという感じには見えません。
 
甲斐の黒駒と言えば、
平安時代後期~鎌倉時代にかけて東北地方へ移住した甲斐源氏の一族 南部氏が
甲斐の黒駒に近い南部馬を繁殖しています。
その南部馬を江戸時代に松前藩が導入して生まれたのが北海道和種です。
ただ、現在の北海道和種から中世の黒駒の大きさを推測することはできません。
 
甲府市の武田氏館跡の西曲輪南虎口から
戦国時代の馬の全身骨格が出土していました。
体高は推定115.8cm~125.8cmなのだそうです。
それなら古代人の身長が150cm程度と推測されていることと矛盾しません。
青年期の武田晴信(信玄)が所望した名馬「鬼鹿毛」の体高が
四尺八寸八分(約148cm)とされていることも納得できます。
 
そもそも日本列島に馬が伝来したのは古墳時代の4世紀~5世紀とされ、
甲斐国では4世紀後半の馬歯が出土しています。
そこに勅旨牧=御牧(みまき)を設置したのは文武天皇(683-707)でした。
ヤマト王権にとって甲州は、金・水晶・馬 etc. 魅力的な土地だったのでしょう。
延喜式』によれば、
甲斐国勅旨牧=御牧は穂坂牧・真衣野牧・柏前牧の3ヶ所だったそうですが?
今日は穂坂(ほさか)と真衣野(まきの)へ行く予定です。
もちろん神楽歌の演奏修行ですから《其駒》を演れればと願っています。
 
神楽歌『其駒(ソノコマ)』 「或本ニ云フ、葦駮(アシブチ)ノ歌」
葦駮の や 森の 森の下なる 若駒(ヰ)て来(コ) あしげぶちの 止良介(トラゲ)の駒
 
「葦駮」とは四足の膝から下が白いもの、
「止良介」とは淡い黒地(グレー)に虎の毛に似た斑のあるもの。
 
牛や犬猫などの虎毛と違い、馬の虎毛は割とぼんやりしています。
しかもアメリカで登録されたクオーターホースの例を見ても
470万頭のうち15頭と極めて少ないのです。
そうした希少種だからこそ神が乗って帰る馬として選ばれたのでしょうか?
 
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17:38 今日最後の北杜市船形神社で撮った空。
雨なので、傘をさしています。
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あれ? この船形神社も前回の船形神社と同じく「諏方大明神」です⁉
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どうやら船形の台地らしく、舳先の石段を昇って長い参道を進むと
隋神門がありました。拝殿の右手には神楽殿
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とても立派な神社ですね…。
奥は禁足地のようで入ることが憚られました。
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↑こちらは拝殿に向かって左側、右へもまわってみました。
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下の道路を走って台地の周囲を巡ると社殿の奥がかなり広く、
古墳というか、この地を治めていた豪族の墳墓ではないかと妄想しました。
画像でおわかり頂けるように、今日は一日中雨でした。
けれど立派な神社ばかりで濡れずに演奏修行できました。
しかし、屋根に雨がパランパランと音を立てて降っているのに、この青空⁉
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夢か現か、とても不思議な演奏体験でした。
再び傘をさして、船首へ戻ると、先端は石段の幅しかありません。
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これぞ船形神社! というか、やっと船形の船形神社に出合えました。
 
ここが今日のメインでしたが、ルート決定の際、遠くて断念した古社に
運転手さんのおかげで行くことができました。
ナビに出ない道を御存知なのはさすが地元の方ですね。
 
一社目に運転手さんが御提案くださいました。
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一社目は韮崎駅に近い勝手神社。小さい鳥居を見に来ました。
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村上天皇の御代に勧請されたというのは遅すぎる感じがしますが…?
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市指定天然記念物のケヤキをじっと見ていたら
「国の天然記念物の巨木がありますよ」と運転手さんに言われました。
「何という神社ですか?」「根古屋(ねごや)神社です」
「わかりました。そこはかなり北上して山登りになるので諦めた場所です」
「次の神社へは別の道から直行すれば、さほど遠回りにはなりませんよ」
「そうですか、いったん山を下りて北上するルートがでたので時間的に無理かと
思いましたが、根古屋神社は私にとって重要なので、行くことにします」
 
とはいえ、一挙北上する前に御牧へゆかなくてはなりません。
先ずは「穂坂牧」です。
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「この地域には水がなかったんですよ」
「え?! 水が無いのに馬を育てられますか?」
「だから人工的に水を引いたんです」
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あれ? これは近代の用水路のことですね。
古代にも水路のようなものがあったのでしょうか?
歴史的には江戸時代に開削が始まったようですが?
 
すぐ裏に倭文神社があったので行ってみました。
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当社は「しとり」ではなく「しずり」なんですね。
倭文織りは「しづおり」ですが?
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鳥居の扁額に「正一位降宮大明神」とあります。
正一位」と言えば稲荷ですが、どういう意味で使われているのでしょうか?
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拝殿の右手に神楽殿のような建物があるのが甲州の特徴のようですね。
 
ここに「穂坂牧」があったとは書かれていませんでしたが、「朝穂堰」の横に
穂坂小学校があり、その敷地が「穂坂牧」の一部だったかも? と感じました。
今日はもう一つの御牧「真衣野牧」へ行きますが、そこまでにも
甲斐の黒駒にまつわる場所が幾つかあります。
 
ここから西に下り、塩川を渡って北上し始めると
6/2に行った當麻戸神社が見えました。
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ここを下之社として北北西に中之社(穂見神社)~上之社(若神子諏訪神社)が並ぶ
との説があることから、それもルートに加えました。
下之社と中之社の線上に御牧子安神社があります。
子安神社はのちに合祀されただけなので、古来の御牧神社です。
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なんと美しい神社でしょう。社殿を見てそう感じるのは極めて稀です。
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やはり御牧神社でした。御牧とは、かなり広範囲だったのかも知れません。
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これは考えさせられる「由緒」でした。
穂坂から明野にかけてが「穂坂牧」だったとして、
塩川を挟んで御牧神社があり、その北西に黒駒神社があるのです。
しかも黒駒神社は北西の「真衣野牧」と、東から南にかけて広がる「穂坂牧」の
中間に位置する高台にあります。タクシーでかなり登りました。
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すると車一台停めると道幅いっぱいになる山道に鳥居が立っていました。
撮影するために立っていることもできず、近すぎて全体像も撮れないので
扁額のみ写しました。「黒駒大明神」です。
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市の天然記念物「黒駒の松」があるというので探しました。
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すでに伐られています…。
それよりも、地図にも御名方(黒駒)神社とあったことが残念でした。
甲斐の黒駒は、いわばブランドですからねぇ。
社記に
「古昔 諏方ノ神、黒駒ニ騎リテ来レリ因テ祠ヲ置キテ地名トス」
とあるそうですが、年代的に納得できません。
 
次は再び塩川を渡って明野へ行きますが、その前に
御牧神社から黒駒大明神へ行く途中に立ち寄った中之社をUPしておきます。
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かつては崇敬されていたのでしょうけれど、荒れ果てていて
橋を渡ることも鳥居をくぐることも憚られました。
 
明野町上手の宇波刀神社は運転手さんの地元でした。
代々(甲斐に武田氏が来る以前から)ここに住まわれていたそうです。
おかげで事情がよくわかりました。
まず、社名はハッキリと「うばと」と発音されます。
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この石鳥居があるのですから、古い神社であることがわかります。
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今は参道の周囲が農地になっていますが…。
しかも例に漏れず、扁額は「諏訪大明神」でした。
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やはり右手に神楽殿と言うか農村舞台のある造りです。
社名は長老方が集まって「諏訪大明神」から宇波刀神社に復したようです。
集落の約半数が昔からこの地におられたため
今でもその中の長老が指導的立場にあると教えて頂きました。
 
ここからはもうひたすら北上しました。
馬産地だった根古屋にも平安時代に直轄牧が置かれたと
「獅子吼城」の案内板に書かれていますが?
そして塩川対岸の斑山に金山があったため江戸時代には関所が置かれる等
古代より交通の要衝だったようです。
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狭い山道に突然出現した巨木!!
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これは…ビックリですね。
左の「田木」は神楽殿や案内板に遮られて撮りづらく、雨で座る場所が無いため
雨用の上っ張りのまま、妙な角度から演奏修行しました。
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ふと扁額を見ると、宮司さんが馬の絵を奉納されていました。
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「根古屋大明神」…たいへんな古社でした。
運転手さんに感謝。
ここからはナビに頼らず、近道をして上之社たる若神子諏訪神社へ。
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う~む、わざわざ車から降りる気にはなりませんね…。
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なぜここが上之社なのかもわかりません。
梁塵秘抄』の
関より東の軍神(いくさがみ) 鹿島 香取 諏訪の宮
また比良の明神 安房の州 滝の口や小鷹(をたか)明神
熱田(あつた)に八剣(やつるぎ) 伊勢には多度(たど)の宮
の歌から推し量るに、甲州に最も近い諏訪の宮
古い土地神をおさえるシステムが出来上がっていたのでしょう。
 
今日は韮崎駅甲斐大泉駅へと向かう約6時間の演奏修行旅。
先を急ぎますが、ここは北上せず、いったん西へ向かいます。
ジグザグ進行は無駄が多いのですけれど「真衣野牧」はやはり外せません。
おそらくその「真衣野牧」を眼下におさめる位置にあるのが
北杜市武川町三吹の三富貴神社かと思われます。
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あ、あのこんもりが三富貴神社に違いありません。
この周辺の上三吹・下三吹の氏神だとか。
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ナビが正面ではなく奥につけてしまいました。
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鳥居を見ると、周りを一段下に広がる平地に囲まれていることがわかります。
まだ往時が想像できる地形が残っていました。
 
さ、再び釜無川を渡って北上しましょう。
この先は甲斐大泉駅へと向かう道沿いの神社をまわります。
大泉町佐地玉神社という不思議な社名を見つけました。
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「佐地玉大神」の石碑の裏に民家がありました。
私が社殿に向かっている間に、運転手さんが祭神を訊きに行ってくれました。
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歩けば歩くほど草が深くなり、蛇が怖いので、半分ほどで引き返しました。
運転手さんが社名を訊ねると「こんぴらさん」と仰ったそうです。
わかりました!! 結局、神社の多くは日本神話に基づいているのでしょう。
 
大国主とともに出雲の国造りをしていた少彦名(スクナヒコナ)常世の国へと去り、
これからどうやってこの国を造れば良いのか思い悩んでいた大国主の眼前に
海の向こうから光り輝く神様が近づいてきました。
「私の魂を丁寧に祀るなら、あなたに協力してこの国を完成させますよ」
「あなたはいったいどなたですか?」
と尋ねると
「あなたに幸いをもたらす幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)です」と答え、
さらに「どこにあなたの御魂を祀ればよいのでしょう?」と訊くと
「大和の三輪山に祀って欲しい」と答えたといいます。
 
社名の佐地玉は幸魂(さきたま)の転訛なので、三輪山の大物主を指します。
そして讃岐の金毘羅宮の祭神が大物主。
よって近隣の方は佐地玉神社を「こんぴらさん」と通称しておられるのでしょう。
社殿まで到達できなかったのは残念でしたが、納得して次へ向かいました。
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おおお…今度は一転して立派な鳥居と社殿!?
扁額に八嶽神社とあり、拝殿に向かうと八ヶ岳を遥拝することになりますが?
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あ、左手に「八ヶ岳神社のコナラ」とありました。
やっぱり八ヶ岳だったんですね。
由緒不明ながら、醍醐天皇の御代 延喜2年(902)創建との説もあります。
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何と大きな拝殿でしょう。
明治10年、飛び火によって類焼したのち再建されたそうです。
そして、やはり右手に神楽殿がありました。
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文献によれば、
初め建御名方命を祀り、天正3年(1575)八嶽の神霊を合祀して八嶽神社と称す
とありますが、本当でしょうか?
八ヶ岳山麓には伏流水が湧くため、西南側の裾野一帯にかけて
縄文時代の遺跡が濃密に分布しています。
中でも集落跡と祭祀施設が複合した金生遺跡は八嶽神社にも近く、
縄文時代の精神文化の反映たる配石遺構が見られます。
そんな地にあって、1575年まで八ヶ岳を遥拝していないなんて不自然です。
整合性がある社伝というものは望めないのでしょうか?