藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

河内湖 & 山城国

おはようございます。
本日は晴天ですが、心は曇天!?
駅へ着いたら電車が遅れていて新幹線を変更せざるを得ませんでした。
京田辺周辺ではタクシーは予約を受け付けてないというし、
前途多難な旅になりそうです(結局、当初予定していた新幹線に乗れました!)
 
それでも家に居れば休む暇もないので
じっと電車に乗っていれば良い時間は貴重です。
もしかすると、休みたいために演奏修行しているのかも?
もともと好奇心の塊ゆえ、「馬」ひとつとっても
次から次へと行きたい場所が出てきてしまうわけですが。
 
今年は「御牧=勅使牧」を回っていて、「近都牧」へは
行けてなかったのですが、阿蘇のピンク石の石棺絡みで
今城塚古墳へ行きたいと思って地図を見ていたら、南の
淀川周辺に鳥養(飼)という「近都牧」がありました。
延喜式』(927)で牧は3種に分けられていて、皇室の料馬を供給する「御牧=勅旨牧」、
兵馬・用役牛の飼育を目的とする「諸国牧(官牧)」および都の周辺の「近都牧」がありました。
鳥養牧は6牧あった「近都牧」の一つで、諸国から運ばれた牛馬を飼育して都に送っていました。
 
近畿に馬が入ってきた当時の地図を見ますと👀
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これが河内湾とも河内湖とも言われた地形だったんですね…。
そして馬場は、河内潟とも呼ばれた泥濘地に浮かぶ島にあったと言うのです!?
現在は住宅が密集している地域かと想像されますが、ともかく地形を見たい!
 
直前のブログに以前から興味を持っていた「うののさらら」について書きましたが、
その名前にまつわる「菟野(うの)馬飼部」「娑羅羅(さらら)馬飼部」の居住地が
あったのが、まさしく淀川を挟んだ鳥養牧の対岸でした。
4世紀末頃に馬が畿内に現れると、馬飼たちは応神王朝において大王家に所属する
下級の部民「馬飼部(うまかひべ)」となりました。
「馬飼部」は飼育した馬を大王家に貢納し、大王家はそれを貴族たちに下賜する。
ゆえに「うのの馬飼部」「さららの馬飼部」の居住地を斉明天皇が訪れたとしても
神功皇后にまつわる伝承があったとしてもおかしくないのです。
 
また、『日本書紀履中天皇の条即位5年9月に
秋九月乙酉朔壬寅、天皇狩于淡路嶋。是日、河內飼部等從駕執轡。
先是、飼部之黥皆未差。時、居嶋伊奘諾神、託祝曰「不堪血臭矣。」
因以、卜之、兆云「惡飼部等黥之氣。」故自是以後、頓絶以不黥飼部而止之。
とあることから、馬飼部は顔に入墨をされていたようです。
 
ともかく、これほど興味の対象が重複するのも珍しいので、
タクシーの手配ができない場所なのに、荷物を減らして歩く覚悟で家を出ました。
 
名前と地名にこだわるのは、
さららの夫「大海人皇子」の養育に携わったのが凡海人(おほしあま)で、
藤原不比等を養育したのが田辺史(たなべのふひと)であったとされてきたからです。
 
天智天皇落胤説」のある藤原不比等は『日本書紀』に二度登場しています。
●持統3年2月条に「藤原朝臣史」=「史(ふひと)
●持統10年10月条に「藤原朝臣不比等」=「不比等(ふひと)
 
「史」と名づけられたのは、一説によれば
「幼時、避くる所の事あって、山科の田辺史大隅の家に養われた」
ことから来ているそうです。
この「避くる所の事」が「天智天皇落胤説」なら、
さららの異母弟ということになりますね?!
 
「田辺史」とは『日本書紀』雄略9年7月条に出てくる「田辺史伯孫」の系列で
上毛野公と同じ帰化系氏族とされています。
弘仁私記序』には「大鷦鷯天皇御宇之時、自百済国化来。」とあります。
 
「史」という姓(かばね)は、朝廷で文筆や記録を職とした官職名からきており、
「田辺史」も大宝律令の編纂に参加して功績があったそうです。
「ふひと」の発音は書人(ふみひと)が詰まったとも言われますが、701年の
大宝律令施行直前には「民官の戸籍を勘(かんが)へる史(ふみひと)」が置かれています。
 
また「史」は、757年に藤原不比等の諱(いみな)を避けて
「毗登(ひと)」に改められたものの、770年には旧にもどっています。
 
天皇の諱に幼時のパトロンの名が使われることがあったとはきいていましたが、
不比等の名もまた養育された百済系渡来人の姓であったらしいとわかりました。
 
さて、その「田辺史」の本拠地は河内国飛鳥戸郡だそうですが、
田辺史大隅京田辺市大住にゆかりがあったってこと、あるでしょうか?
 
京田辺へ行く前に、長池という駅で降りて、徒歩11分と出た城陽市富野の
荒見神社へ行くことにしました。よって、ここから山城国
タクシー会社から「駅に着けることは出来ないが、神社なら行けます」と
言われたため、駅から歩ける神社のある駅を探したのです。
本来、遷座している神社へは行く気になれないのですけれど仕方ありません。
久しぶりに重い荷物を背負って歩きました。
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どうやら裏から入ったみたいです…。
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表にまわると神楽殿がありました!
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国指定の文化財ではありませんが。
当社はまた、山城国久世郡の延喜式内社荒見神社の論社でもあるようです。
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こちらが桃山時代に建てられたという御霊社ですね。
本殿裏に新たな名所でも造ろうとしているのでしょうか?
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どう見ても、古い磐境には見えませんでしたが?
 
荒見神社に到着して直ぐタクシーを呼んだので、10分ほどで来てくれました。
座席に荷物を置いておけるだけで楽チンです。
先ずは木津川を渡って、京田辺市棚倉孫神社へ。
「たなくら」の社名から「たかくらじ」を連想しましたが、
「孫」を「ひこばえ」の「ひこ」と読むとは想像していませんでした。
「たなくらひこ神社へ」と言うと、運転手さんは一発OKでした。
車一台がやっと通れるほどの細い急坂を一気に登ったら、すぐに下ります。
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下っている途中で、何とか一枚だけ撮りました。
↑あの、左手の建物が、もと神宮寺だった松寿院ではないでしょうか?
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やっぱりそうでした。…で、 神社の由緒書は↓
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こちらも「たかくらじ」で当たっていましたね。
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社伝によれば、推古天皇31年(623)相楽郡棚倉之荘から勧請されたそうですが、
元宮が特定できません。しかし『延喜式神名帳』の社格は大社です。
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まるで吉野の神社のような可愛らしいサイズの本殿です。というより
右手のピンクの花に目を奪われました!
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宮司さんが落ち葉を掃いておられたので、演奏許可を頂きました。
 
ここから大隈隼人が九州から移り住んだという「大住」へと北上します。
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細い路地に面した鳥居と奥行きのない天津神の社地。
元々こんな感じだったのでしょうか?
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天津神の由緒がまた、訳がわかりません。
970~973年の創建なら、神社としては新しいですよね?
それが月讀神社に対しての新宮ということになるのでしょう。
私の今日の目的は「隼人舞発祥の地」へ行くこと!
すなわち月讀神社です。
天津神でも10月14日の宵宮に「大住隼人舞」が奉納されるんですね⁉︎
もちろん宮中の儀式用風俗歌舞とは別物ですが。
ただ、大隈隼人が移り住んだ場所を見に来ました。
 
日本書紀』巻第二十九に、隼人は天武朝11年(682) 7月に
「隼人、多に来て、方物(くにつもの)を貢れり。是の日に、
大隅の隼人と阿多の隼人と、朝庭に相撲(すまひと)る。大隅の隼人勝ちぬ」
とあり、この時に大和王権への服属の意を正式に示したとされています。
 
ここから月讀神社へ向かう道路脇に「車塚古墳」がありました。
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「大住車塚古墳」は奥の方で、手前に見えているのは「大住南塚古墳」です。
ともに5世紀初期(古墳時代中期)につくられた前方後方墳で、ほぼ同じ形・大きさで
周濠をもつ前方後方墳が二基並ぶというのは全国的にも珍しいそうです。
もっとも↑この画像では全くわかりませんが!?
築造年代から古墳の主が大隈隼人でないことは確かですが、ならば、誰?
 
さて、月讀神社に着きました。
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おおお…画像左端に「隼人舞発祥之碑」があります!
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そして、当社も下るんですね…。下る神社はニギハヤヒ系に多い気がしますが?
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棚倉孫神社はともかく、当社はよくわかりませんね。
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下った所よりも階段の両サイドにあるこんもりが気になります。
境内社として「足之神様」が祀られていたりするので、つい
蜘蛛窟では? と疑いたくなります。
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これといって座りたい場所がなかったので、弁財天の前で演奏修行しました。
ここから見ると、まさしく蜘蛛窟の上に稲荷社を置いたって感じですよね…?
演奏修行を了えたら、もう16:57 !?
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運転手さんがドアの外で待っていて「次はどこですか?」と訊いて下さったので
「もう暗くなっているので無理かと思います」と答えたら、「住所は?」と
訊かれたので申し上げたら、「5分で行けますよ」とのこと。
とても親切な運転手さんだったので御厚意に甘え、最後の一社を目指しました。
延喜式神名帳に『山背国綴喜郡天神社』とある式内社「あまつかみのやしろ」です。
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しかし、暗くてちゃんと撮れませんでしたが、ナビ通りに進んでいたら
未舗装路になってしまい、最後は砂利道に嵌まってしまいました!?
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運転手さんが「社殿がありますよ。車は何とか方向転換しますから」と
送り出してくれました。が、私は最後の一社を端折るつもりでしたし、実際、
肉眼では画像よりずっと暗いので楽譜が読めるとは思えませんでした。
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拝殿の前までゆくと、後ろに階段がありました。こちらが参道だったんですね…。
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いま調べたら、とても長い階段があると書かれていました。
ともかくナビ通りに、小高い丘の上まで登ってきたわけですし、
運転手さんが待って下さっているので演奏修行することに。
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拝殿に座ると本殿が(実際には画像よりずっと暗いとはいえ)見えました。
楽譜はほとんど見えませんが、このまま撤退するわけにはいきません。
当然ながら歌は暗譜していますが、琴の手が曲ごとに微妙に違うので
いつまで経っても完全には暗譜できないのが悩みどころです。
ただ墨譜の琴の手は、歌詞より太く大きく書かれているので位置だけは見えます。
《篠波》の本歌と末歌、何とかキズなく演奏できました!
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こんなに暗くなるまで待って下さった運転手さんのお蔭です。
怠け者の私をここまで運んで下さったことに心から感謝しています。
いま調べたら、当社は大いなる論争を巻き起こしていました。
 
天皇は、光仁天皇の御代、天武系から天智系へ移ったとされます。
間に天智天皇の皇女らが居るのに? とも思いますが。
桓武天皇がこれを新王朝の創祀とみて(?!︎)父帝 高紹(タカツグ)天皇光仁天皇
天神を交野の柏原に祀ったと『続日本紀』の延暦4年と6年の記事にあります。
 
これに関して京田辺市教育委員会は、果敢にも、
長岡京遷都の翌年・延暦4年(785)桓武天皇が天神を交野柏原に祀ったことが
続日本紀』にみえ、現在の枚方市樟葉の交野天神社のこととされているけれど
京田辺市松井にも交野ヶ原・柏原の地名があり、松井天神社の社伝によれば
もとは松井交野ヶ原に創祀された天神を現在地に移遷したまでのこと、と主張。
 
今さら両者の主張や経緯がハッキリするとは思えませんし、私はコロコロ変わる
由緒や祭神や社名には興味がありませんので傍観に徹します。
それよりも、人の動きが気になるため、なぜ渡来人の居住区に大隈隼人が
移り住んだ(住まわせられた)のかについて掘り下げられればと思います。
 
翌日、三島鴨神社でヒントを得たので大隅隼人にも触れてみました。