「関東三龍の寺」の最後は龍尾寺です。
かつて龍尾寺およびその前身と言われる「大寺廃寺」から見えていた
"椿(の)海"へ行ってみたいと思っていたので、
片道2-3時間などものともせず(!?)出向きます。
現実問題として、
キャノピーは座面が三角で小さいため、お尻が痛くなるのですが。
そこで、匝瑳市までの往路、
成田空港近くの多古町にある宇迦神社へ立ち寄ることに。
(どこかで多古米を売ってると有り難いんですけどねぇ…)
下総国に宇迦神社が多いことに関して、
蘇我氏との関係を疑っていますが、未だ確証をつかめてません。
また、宇迦神社は全国各地で稲荷社と混同されている場合が多いので
出来る限り足を運んで確認したいと思っています。
とはいえ、今日は、午前11時近くまで雨でした。
ただ、誕生日と「節分」が重なるなんて滅多にないので
(何と、2月2日が「節分」になったのは、124年ぶりなんですって?!)
「節目」を大切にする私(?!)としては悪天候でも出かけるつもりでした。
左側が階段なので、右の坂をキャノピーでのぼったのでした。
茨城県方面は晴れているのに、千葉県側は雲に覆われていました。
下総国を走っていると遺跡じゃないかと思えるものがたくさんあります。
全国で認められている貝塚の4分の1が千葉県に集中しているのは
ゴルフ場の多さと無関係じゃないのでは?
しかし、飯笹の宇迦神社はハードルが高すぎました…。
地図に道が無く、ナビの指示通りに走ってもここが目的地だと言うばかり。
あとは勘だけが頼りです。ともかく丘の上までのぼらないと…!!
集落の奥の奥まで走って、どんどん上りました。ここが台地のテッペンのようです。
地図にない道…、おそらく地元の方だけが御存知の神社なのでしょう。
左に鳥居らしきものが見えたので望遠で撮ってみました。
右手奥の社殿も望遠で撮りました。
鳥居から社殿までは未舗装路だったので、泥濘をキャノピーで走りました。
参道の右手は崖です。下に集落があります。
狛犬はキツネのようでもありましたが、赤くないので
「正一位稲荷」ではなく宇迦神社でしょう。
演奏修行をしていたら、あの男性が来られたので、幹線道路への道を尋ねました。
再び下の集落へおりるのは(勾配が急で)怖かったので…。
同じ高さの台地の上、集落の反対側へ出てみました!
教えていただいた通り、道らしき道はありません。畑の中を行くのみ!?
数分走って、やっと道らしき道が見えてきました。
この先、長い水溜りの中を走って、何とか元の道路に出られました。
しかし、迷うこと30分。先が思いやられます…。
栗山川を渡ります(「栗山川大橋」という仰々しい名前ですが、普通の橋です)。
下総国ではまた、宇迦神社同様、天神社が多いのですが、その理由もわかりません。
そこから真東に222m行くと天神社があるようなので、立ち寄ってみます。
キツネ…ですか(坂を下るのも意外でした)。
人が祖先ではなく動物を拝む理由がわかりません。
残念ながら徒歩じゃないと入れないようです。
すでに30分もロスしてしまったので先を急ぐとしましょう。
天神社の参道がありました。が、バイクを停めるスペースがありません。
それに、私の目は進行方向の坂に釘づけ!?
結構ギリギリでしたが、キャノピーが頑張って上ってくれました。
あの階段からも天神社へあがれそうなのですが、
ここはまさに円形祭祀場です。
まだ"椿海"まで行ってないのに、まるで古代の海が広がっているように見えます。
人工的建造物が苦手な私にとっては最高の舞台です。
古代の雰囲気に浸りつつ演奏修行できました。
龍尾寺は天神社から真東に約2.4kmの距離にあります。
途中に熊野神社がありました。
と思いつつ、匝瑳市大寺の「天竺山龍尾寺」へ。
入り口は坂の上で、向かいが旧"椿海"なので、道路下の低い場所に集落がありました。
意外なことに、龍尾寺側も、門を入ったら本殿までは下りでした。
下り切って左手を見たら、さらに下り!?
661年開創(?)の官寺「大寺廃寺跡」に隣接すると言われるだけあって、
寺の至近距離まで"椿海"から水路が引かれていたのかも知れません。
嘘か誠か「大同2年(807)」に空海が井戸を手掘りしたことになっています。
無住の龍角寺と違い、真言宗智山派の現役寺院なのできれいでした。
ここ龍尾寺からは北上しますが、それは「空海の道」とも言えます。
実際に走ってみるまでは陸路を行ったものと想像していましたが、
かつての「香取海」周辺と同じく舟を使ったかも? と感じました。
道路の右側に突然、赤い鳥居が見えました。が、左はガクンと低くなってます。
今は道路がありますが、かつてはこの柵も無く、舟で来て階段を上ったのでは?
と妄想を逞しくしました。
松崎神社の社殿前には「空海の逆さ公孫樹」がありますが、
こういうのはたいてい年代が合わないことになってるんですよね。
看板には
むかし旅の僧が携えてきた(イチョウで作った)杖を上下逆さまに地中に挿し、
「後世まで繁盛せよ」と念じて立ち去ると、村人達は杖が根づくはずはないと
言い合ったものの、芽が吹き出し、根をはり、枝を伸ばしていった。
というようなことが書かれていますが。
この公孫樹、逆光でわかりづらいですが、ほとんど枯れてます…。
なぜ空海が立ち寄ったのか? と考えると、社殿の裏に
「北条塚古墳」という前方後円墳があったからかも知れません。
栗山川流域の台地には数多くの古墳が点在しており、
その中では「柏熊古墳」と並ぶ大型の古墳なのだそうです。
6世紀中~後期の築造ということなので、古墳の主は、6世紀前期の
空海はさらに北上し、山倉大神(811)を創建したとの説がありますが
(松崎神社も山倉大神も龍尾寺へ行った807年とは別の伝承?)、扁額は「大六天神宮」でした。
今は全国の「大六天王宮総社」として信仰を集めているそうですが、
示唆しているのではないかと考えて当社へやってきました。
↓ スサノヲ=須賀・蘇我氏、大物主=伊福部氏ですね。
日本神話にはさまざまな神が登場しますが、記・紀における異同が少なくありません。
天皇陵や古墳の埋葬者を特定できないのと同じで真実を求めても無理です。
よって、私はわからないことを深く考えたりはしません。
大前提として、紀元前後、日本列島には百以上のクニがありました。
「ウガヤフキアヘズ朝」や「河内王朝」があったかも知れず無かったかも知れません。
先んじてヤマトを治めていたニギハヤヒノミコトが登場していますし、
亀岡の出雲大神宮は平然と「皇祖より一万年以上前」からの歴史を謳っています。
神社には一般人にはわからない暗黙の了解みたいなものがあるのかもしれません。
ただし事情のわからない私の判断基準は、天皇家の紀元より前か後かだけです。
奈良県御所市北窪の高天彦神社のパンフレットにこうあります。
高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)を奉斎する名社であります。
娘の栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)が嫁がれ、その間にお生まれになった
(中略)
この高天の台地であります。
本社の背後には美しい円錐状の御神体山が聳えていますが、
社殿ができる以前は、この御神体山の聖林に御祭神を鎮め祀っていました。
古杉の聳える参道は北窪・西窪の集落に通じていますが、
そこがかつての葛城族の住地であります。
彼らは背後にひろがる広大な台地を、神々のいますところと信じて
高天原と呼び、その名称が神話として伝えられてきたのです。
そして葛城川流域の鴨族と手を結んで部族国家を形成しました。
すべて」高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)がお世話申し上げたと明記されています。
高皇産霊尊を奉斎していたことは間違いありません。
そして今回、山倉大神の祭神が高皇産霊尊だとわかって訪問したら
「大六天神宮」の扁額が掲げられていたというわけです。
むろん創建時には蘇我氏にまつわる神社だったと考えていますが。
一応、境内を探索してみました。
あれ?! 裃をつけた人たちが社殿に入ってゆきます。
あ…「節分」だから…ですね?
ぐるりと一周したら、下に池が見えました。
バイクに乗って下り始めましたが、絶対に戻って来れなくなる…と珍しく弱気になり、
160kg超のキャノピーを引き摺りながらバックして駐車場に停めました。
もしかすると、この池は昔ここが岸辺だったことの名残かも?
ここに舟をつけて、登ったから「山倉大神」?
ジグザグに登って戻っていますと、光が射し込んできました
私はやっぱり社殿よりも社叢が好きですね…。
のんきに光を見ながら登っていたら、日が差しているのに、雨粒が落ちてきました。
驚いて空を見たら、真上に雲がかかってます!! 慌ててバイクを出したのですが…
あっという間に雲が広がり、4分後、大雨になりました。
ところが、道路を走りながら茨城県方面を撮ると、ずっと青空が見えていたのです!?
まるで雨雲が私を追いかけてきているとしか思えない状態で、
その後、30分以上ものあいだ雨に濡れながら走ったでしょうか?
振り返ると「大六天神宮」あたりからずっと雨雲が広がっていました。
その雲に追いかけられながら、ずぶ濡れでバイクを走らせたにも拘わらず、
降り始めから50分後の17:06、日没を見ました。
その10分後、常総大橋にさしかかったら千葉県側のたもとに
10人以上もの人が三脚を立ててカメラを構えていました。
ちょうど青信号だったのでそのまま橋を渡り、反対側で撮ってみました。
この方角だと、富士山を撮っていたのでしょうか?
もしかして「節分」の夕方に富士山を撮ると幸運が訪れるとか?
もちろんそんな噂があっても信じたりはしませんが、
あまりに不幸だったので、いつもの新利根川でシルエットのみ撮りました。
すでに17:35だったので肉眼でしかわからないような富士山でした。