身を三つに引き裂かれ、頭が"印旛浦"、尾が"椿(の)海"に墜ちた龍なんて
いかに妄想好きの私でも、容易にイメージできません。
末裔や彼らが治めたクニを討ち滅ぼしたことの比喩だろうと想像するのが関の山。
しかし、頭が龍角寺で、腹が西へ張って出た龍腹寺だとして、
龍の尾が銚子に近い"椿海"に達していたとすれば、ずいぶん大きな勢力圏ですね。
龍尾寺は↓の画像左上の「大寺村」にありました。
「昔、この地に住んでゐた手鹿(てが)といふ名の佐伯を偲んで名付けられた」とあり、
"椿海"については、千葉県のHPに
寛文10年(1670)の"椿海"干拓で誕生した約5,100ヘクタールの農地は「干潟八万石」と
"椿海"に面していた頃の龍尾寺を見てみたいものですが、かつての龍尾寺は
「(八日市場)大寺廃寺」に隣接していたらしいことが発掘調査によってわかり、
寺伝の「斉明天皇7年(661)開創」は「大寺廃寺」の創建年で
龍尾寺の前身を「大寺廃寺」とする説がありました。
応じて惣領村の浜から天高く舞い上がり、雨を降らせた小龍が
龍王の怒りによって身を三つに引き裂かれ、
頭が下総国埴生庄、胴(腹)が印西庄、尾が北條庄大寺郷に堕ちたため
そこにあった寺を龍角寺、龍腹寺、龍尾寺に改称したとの伝承があり、
天に上った龍神の尾が垂れ下がった場所はのちに尾垂村となりました。
他方、
「関東三龍の寺」は、まさに三者三様の伝承により成り立っていたのです。
かといって龍尾寺に行かぬままこのテーマを切り上げるわけにはまいりません。
拙宅からバイクで行くには遠いのですけれど、電車で行く方が時間がかかるので
寒さと疲労(悪路を走るストレス)を覚悟の上で出掛けることにしました。
今は、龍の分割を先住民征討の比喩と仮定し、関連地名や社名を探して
由緒を調べたりしている段階なので、寄り道しながら行きます。
龍尾寺の近くに鎮座する老尾(おひを)神社からは一つのヒントを得ています。
「しもふさのさふさ」なら、ふさ×2地名ですね。しかも祭神が「阿佐」比古!?
言われていますが、それは皇軍になったってことですよね?
阿佐比古命は、社伝では朝彦命(別名 天苗加命)=物部小事ということになっています。
連姓から宿禰姓への改姓記事にこうあります。
「昔、物部小事大連、節を天朝に錫ひ、出でて坂東を征し、凱歌して歸り報ず。
此の功勳に藉り、下總國に得せしめ、始めて匝瑳郡を建つ。
仍りて以つて氏と爲す。是れ則ち熊猪等の祖也。」
意であっても『稲庭』の意では決してないのである」を引用した上で、
伊福部氏ゆかりの地でもあることから、イナバ・インバが物部系と
印旛沼周辺をはじめとする房総の各地域が物部系の製鉄民族によって
開発されたことが確認できるとしています。
先住民の鉄を奪うとともに、仏教の力で先住民を教化したことで
やがて物部氏の姿が見えにくくなっていったと結論づけていました。
発展し、多+秦氏系の民族によって継承されたと言います。
私は、この井上氏の説を全面的に支持することはできません。
なぜなら、あくまでも「蘇我氏(秦―多氏)系統」と決めつけて
論を展開されているからです。
龍神信仰は龍角寺の伝承に原初的にみられる。
そしてそれは先住民族の信仰とかかわっている。
つまり龍角寺が蘇我氏(秦―多氏)系統の信仰だとすると、
あったからでしょうか?
むろん龍角寺創建時の軒丸瓦が石川麻呂の山田寺系だったことは
歴史的事実なので、東国で生き延びたということかもしれません。
伊福部臣
龍尾寺で雨乞いの儀式が行なわれた和銅2年(709)や
龍角寺に龍の頭が墜ちた天平2年(731)の段階では
蛇「夜刀神」のことではないかと指摘された点に興味をひかれています。
もし、香取海の南北に「をだか」や「てが」といった先住民が分布し、
龍角寺古墳群にも「夜刀神」を齋く先住民がいたとしたら、
南北の「夜刀神」が駆逐された可能性について探る必要があります。
大生神社や大生殿神社を齋く多氏によって駆逐されたのか?
香取神宮の前身とも言われる大戸神社に近い4世紀の大戸天神台古墳の主は
はたして「夜刀神」と関係があったのか?
龍角寺古墳群は先住の「夜刀神」を齋く人々を駆逐して形成されたのか?
まだまだわからないことばかりです。
海人族の好きな浅茅(あそう)湾・阿蘇海に似た地形を表すと思いたいですが…
当地の先住民が皇軍に平らげられたのが807年という可能性もありそうですね?
"椿海"に近い、"麻"地名「匝瑳(さふさ)」の老尾神社の場合は
物部の祭祀が続いていたと考えられますが、大麻神社はどうだったのでしょう。
近々お天気と相談の上、バイクで走ってみます。