藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

頭が"印旛浦"、尾が"椿海"に墜ちた龍

身を三つに引き裂かれ、頭が"印旛浦"、尾が"椿(の)海"に墜ちたなんて
いかに妄想好きの私でも、容易にイメージできません。
せいぜい、ヤマト王権征夷大将軍に東国を平らげさせる前からあった古墳の主の
末裔や彼らが治めたクニを討ち滅ぼしたことの比喩だろうと想像するのが関の山。
しかし、頭が龍角寺で、腹が西へ張って出た龍腹寺だとして、
の尾が銚子に近い"椿海"に達していたとすれば、ずいぶん大きな勢力圏ですね。
 
龍尾寺は↓の画像左上の「大寺村」にありました。
f:id:YumiAIKAWA:20210128205755j:plain
西隣の「小高村」が『常陸国風土記』にあった「小高(をだか)と呼ばれた佐伯(さへき)」に
因む村名であることも引っ掛かります(それゆえ佐伯真魚たる空海が訪れたのでしょうけれど)
常陸国風土記』にはまた香取海の北の「提賀(てが)」の里に関して
「昔、この地に住んでゐた手鹿(てが)といふ名の佐伯を偲んで名付けられた」とあり、
香取海の南に「手賀沼」があるため、先住民が南北に分布していた可能性もあります。
 
"椿海"については、千葉県のHPに
寛文10年(1670)の"椿海"干拓で誕生した約5,100ヘクタールの農地は「干潟八万石」と
呼ばれ、現在の旭市匝瑳市東庄町にまたがっていたとありました。
 
"椿海"に面していた頃の龍尾寺を見てみたいものですが、かつての龍尾寺
(八日市場)大寺廃寺」に隣接していたらしいことが発掘調査によってわかり、
寺伝の「斉明天皇7年(661)開創」は「大寺廃寺」の創建年で
龍尾寺の前身を「大寺廃寺」とする説がありました。
 
龍尾寺には、和銅2年(709)旱魃の折、釈命上人が行なった降雨の修法に
応じて惣領村の浜から天高く舞い上がり、雨を降らせた小龍が
龍王の怒りによって身を三つに引き裂かれ、
頭が下総国埴生庄、胴(腹)が印西庄、尾が北條庄大寺郷に堕ちたため
そこにあった寺を龍角寺龍腹寺龍尾寺に改称したとの伝承があり、
天に上った龍神の尾が垂れ下がった場所はのちに尾垂村となりました。
他方、
龍角寺は釈命上人が寺を再興した翌年の天平2年(731)龍神の頭が墜ちたと伝え、
龍腹寺では延喜17年(917)印旛沼の主たる龍神が天高く上ったことになっています。
「関東三龍の寺」は、まさに三者三様の伝承により成り立っていたのです。
 
かといって龍尾寺に行かぬままこのテーマを切り上げるわけにはまいりません。
拙宅からバイクで行くには遠いのですけれど、電車で行く方が時間がかかるので
寒さと疲労(悪路を走るストレス)を覚悟の上で出掛けることにしました。
今は、の分割を先住民征討の比喩と仮定し、関連地名や社名を探して
由緒を調べたりしている段階なので、寄り道しながら行きます。
 
龍尾寺の近くに鎮座する老尾(おひを)神社からは一つのヒントを得ています。
下総国匝瑳郡の延喜式内社ですが、創建時期は不明。「匝瑳大明神」とも。
匝瑳」は「狭布佐(さふさ)」で、「狭」は美しい、「布佐」=「総(ふさ)」は麻。
「しもふさのさふさ」なら、ふさ×2地名ですね。しかも祭神が「阿佐」比古!?
 
社伝によれば、祭神の阿佐比古命は経津主命の子で、経津主や建御雷とともに
葦原中国を平定するために天下り、その後も当地に留まって守護神になったと
言われていますが、それは皇軍になったってことですよね?
 
阿佐比古命は、社伝では朝彦命(別名 天苗加命)物部小事ということになっています。
物部小事とは物部布都久留(下の系図参照)の子で、6世紀前期の豪族。
勅命により坂東に遠征した軍功で下総国匝瑳郡を建てることを許されたため
物部小事の子孫は「物部匝瑳」と名乗るようになったのだとか。
続日本後紀』承和2年(835)3月16日の条、物部匝瑳熊猪(もののべのさふさのくまゐ)
姓から宿禰姓への改姓記事にこうあります。
「昔、物部小事大連、節を天朝に錫ひ、出でて坂東を征し、凱歌して歸り報ず。
此の功勳に藉り、下總國に得せしめ、始めて匝瑳郡を建つ。
仍りて以つて氏と爲す。是れ則ち熊猪等の祖也。」
このとき物部匝瑳熊猪は下総国から左京二条へ移貫したため、
物部匝瑳氏は小事から熊猪まで約3世紀、匝瑳郡を治めたことになります。
(すると、系図上は同じ物部氏でも、天皇にまつろわない物部は滅亡に追い込まれ、
天皇にまつろって皇軍となった物部は永らえることができたというわけですか?)
 
井上孝夫氏は『下総地域における龍神信仰』(1997)において
竹内健氏の「下総の印旛(いなば)は、山陰道因幡(いなば)と同じく『夷処』の
意であっても『稲庭』の意では決してないのである」を引用した上で、
印旛と同一の地名と位置づけられる因幡饒速日を始祖(註:系図上は8代目)とする
伊福部氏ゆかりの地でもあることから、イナバ・インバが物部系と
かかわることが示唆されており、弥生時代末期から古墳時代にかけて
印旛沼周辺をはじめとする房総の各地域が物部系の製鉄民族によって
開発されたことが確認できるとしています。
さらに古墳時代の後期、この地域は多(おふ・おほ)氏ないし秦氏系の侵略が進み、
先住民の鉄を奪うとともに、仏教の力で先住民を教化したことで
やがて物部氏の姿が見えにくくなっていったと結論づけていました。
そして、物部氏系の蛇神信仰は、印旛沼の主とされる龍神への信仰に
発展し、多+秦氏系の民族によって継承されたと言います。
 
私は、この井上氏の説を全面的に支持することはできません。
なぜなら、あくまでも「蘇我氏(秦―多氏)系統」と決めつけて
論を展開されているからです。
龍神信仰は龍角寺の伝承に原初的にみられる。
龍神印旛沼の主なのであった。
そしてそれは先住民族の信仰とかかわっている。
つまり龍角寺が蘇我氏(秦―多氏)系統の信仰だとすると、
龍神信仰は彼ら以前の民族、すなわち物部氏系統の信仰だったのではないか。
 
秦氏と多氏を同族として扱うのはともかく、秦氏蘇我氏を同族としたのは
古事記』の武内宿禰の子孫の中に「波多八代宿禰」と「蘇賀石河宿禰」の名が
あったからでしょうか?
でも、蘇我氏乙巳の変(645)で滅びてるんですよ…。
むろん龍角寺創建時の軒丸瓦が石川麻呂の山田寺系だったことは
歴史的事実なので、東国で生き延びたということかもしれません。
(発掘調査の結果、龍角寺と印西市の木下廃寺、匝瑳市の大寺廃寺は 7世紀後半の創建だったと判明したとか…)
 
  伊福部臣
f:id:YumiAIKAWA:20210131040914j:plain
龍尾寺で雨乞いの儀式が行なわれた和銅2年(709)
龍角寺に龍の頭が墜ちた天平2年(731)の段階では
中央の物部氏蘇我氏は既に失脚していました。
 
ただ「龍角」に関して、井上氏が『常陸国風土記』に登場する角をもった
蛇「夜刀神」のことではないかと指摘された点に興味をひかれています。
もし、香取海の南北に「をだか」や「てが」といった先住民が分布し、
龍角寺古墳群にも「夜刀神」を齋く先住民がいたとしたら、
潮来市成田市に「大生(おほふ)」があるため、多氏の進出によって
南北の「夜刀神」が駆逐された可能性について探る必要があります。
f:id:YumiAIKAWA:20210131033505j:plain
香取海の北にあった「夜刀神」は、鹿島神宮の前身とも言われる潮来市大生の
大生神社大生殿神社を齋く多氏によって駆逐されたのか?
香取神宮の前身とも言われる大戸神社に近い4世紀の大戸天神台古墳の主は
はたして「夜刀神」と関係があったのか?
龍角寺古墳群は先住の「夜刀神」を齋く人々を駆逐して形成されたのか?
まだまだわからないことばかりです。
↑ 4年前に、香取海の北部「麻生」にある大麻神社へ行ってました。
「麻生」の地名は植物の麻ではなく(「麻」を無条件に秦氏忌部氏と結びつけるのはNG)
海人族の好きな浅茅(あそう)湾・阿蘇海に似た地形を表すと思いたいですが…
大麻神社の創建が大同2年(807)、祭神が武甕槌命経津主命となりますと
当地の先住民が皇軍に平らげられたのが807年という可能性もありそうですね?
"椿海"に近い、"麻"地名「匝瑳(さふさ)」の老尾神社の場合は
祭神の阿佐(あさ)比古命が経津主命の子で、物部小事と付会させられてもいたので
物部の祭祀が続いていたと考えられますが、大麻神社はどうだったのでしょう。
近々お天気と相談の上、バイクで走ってみます。