藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

鳥見神社まとめ

下総国鳥見神社をまわるのに、いったい何年かかったのでしょう?
このブログが最初なら、2年と4ヶ月ですね…。
現在は、印旛沼手賀沼に囲まれるように鳥見神社が分布しています。
 
印旛地方に人が住み始めたのは「古印旛沼」時代と言われ、
台地の淵にあたる水辺に張り出した場所に旧石器時代縄文時代の遺跡が
数多く見られるそうですが、地形は現在までに劇的に変わっています。
また、印旛沼周辺には特殊遺物が多く、いくつかの集落による共同祭祀、
共同生産、共同交易などが行なわれていたとの説があります。
この地域にはあり得ない土器や石棒・石剣が多数出土しているのだとか。
いったいどんな人々が住んでいたのでしょう?
 
トミ神社の社伝(紀元前に勧請)を信じるなら、
6世紀初頭に物部小事下総国匝瑳郡を建てることを認められる前から
印旛地方には物部の祖神たるニギハヤヒを祭神とする鳥見神社
あったことになりますが?
 
律令制以前、(応神天皇期とある)印波国造・伊都許利命の氏族は
丈部氏(はせつかべうじ/はせべうじ)で、『新撰姓氏録』の和泉国皇別によれば
丈部首氏は「武内宿禰紀角宿禰之後也」とのことです。
 
たしか『常陸国風土記』に、筑波の県は昔「紀の国」と言い、崇神天皇の御代に
国造として派遣された筑箪命が筑箪国と改め、文字を「筑波」としたとありました。
風土記や神話などの記述では実際の正確な年代がわからないため、
いつ頃どんな氏族が居て、どんな氏族に駆逐されたのか見当がつかないものの
常陸国風土記』行方郡に書かれた、建借馬命が先住民を
「杵島ぶりの歌舞」でおびき出して捕らえ、火を放って滅ぼすくだりは
香取海」周辺に「紀・木・基」の国にまつわる人々が住んでいたことを
想起させますし、印波国造が紀角宿禰の後裔だったとしたら興味深いことです。
最後に書きますが、白井市には「木(き)」という地名もあります。
 
「紀・木」にまつわる人々がどう呼ばれていたのかはわかりませんが、
下総国においては、安曇氏、蘇我氏物部氏など、氏族の棲み分けが
できていたのではないかとの印象を受けます。
それで、物部氏鳥見神社蘇我氏関連の須賀神社高皇産霊社をまわって
神社の分布を再確認し、氏族の勢力圏を特定しようとしているわけです。
 
蘇我氏物部氏は、天皇家による支配が始まる前から列島各地を
治めていた豪族ゆえ、ニニギノミコト以前の神を祭神としていました。
ここではニギハヤヒを祭神とする鳥見神社を取り上げますが、
その発音には「トミ」と「トリミ」がありました。
下にその分布を示しますが、現在、印旛沼北部の干拓地にも鳥見神社がいくつか点在しています。
境内摂社のようになっている鳥見神社もあるものの、煩雑になるため割愛させて頂きました。
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なお、地図に赤で示した矢口一宮神社鳥見神社だったとの説がありますが、
印旛沼から手賀沼にかけて広がる他の鳥見神社とかけ離れているように見えます。
ただ「鳥見の丘」ということなら、下の図に書き込んだ🔴の矢口一宮神社
🔵の萩原鳥見神社ともに台地の突端に位置し、条件を満たしていると思います。
私の個人的な印象では、「古印旛沼」に面していたと思われる「萩原」のトミ神社
社伝通り(孝昭や崇神はあり得ませんが)最も古く、そこから北西へ広がっていった気が?
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縄文時代後期の印旛沼周辺には東京湾から海産物を運んできた痕跡が認められており、
入江の突端の一つ「萩原」から上陸したと考えることは不自然ではありません。
他方、矢口一宮神社は「香取海」側の玄関口と考えられます。
下総国の「香取海」沿岸部には蘇我氏関連の神社が多い上、
蘇我石川麻呂山田寺系瓦をもつ「龍角寺」や「龍角寺古墳群」を越えて
「矢口(やこう)」に鳥見神社を創建した理由はわかりませんが、
ここを掘り下げれば共存関係が解明できるかもしれません。
 
さて、上の地図ですが、印の色がわかりづらくて申し訳ありません。
青系が「トミ」、中でも紺色は「10代崇神5年(紀元前93年)創祀」と伝わります。
        印西市小林 トミ神社(印西十八ヶ村の総社。大和国城上郡白庭山より勧請)
        ●印西市中根 トミ神社
        印西市大森 トミ神社
さらに、1678年に隣の大森村から鳥見神社を勧請した平岡も「トミ」でした。
        印西市平岡 トミ神社(当社のみブルーのマークです)
 
そして、この地域で最も古い伝承をもつ鳥見神社
「5代孝昭天皇の御代、大和国より勧請」され、江戸期の文献に数多く登場する
鳥見ケ丘」の地名を持つ萩原鳥見神社でした(最も濃い紺色)
        印西市萩原 トミ神社(大和国城上郡萩原=現宇陀市榛原萩原の鳥見神社より勧請)
 
なお、下総国鳥見神社に関して「大和国より勧請」とされる場合が多いようですが、
「鳥見白庭山」「桜井鳥見山」「萩原鳥見山」について整理する必要があるでしょう。
 
現在「鳥見白庭山」の碑は奈良県(旧)生駒郡北倭村大字白谷にあります。
饒速日命塚」は日の窪山(檜の窪山)、北倭村大字平井にあるとしています。
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北の「磐舩」にある天の磐船を御神体とする磐船神社饒速日命降臨の聖地を
名乗っていることと関連づけたのが現在の「鳥見白庭山」だったようです。
 
大正3年ナガスネヒコの本拠地たる「鳥見(登美)」の人々が「金鵄会」を結成。
かつての「山伏塚」を「饒速日墳墓」に"制定"したと
『金鵄発祥の史蹟考』で発表しました。曰く
山伏塚は山主塚の訛音にして白庭山の故主饒速日の墳墓たることを推知するに足れり」!?
(ダジャレにもなってませんし…、N→Bなんて転訛します? MとBなら共に口唇音ですが)
その後、昭和15年(紀元は二千六百年♪)に文部省が聖蹟地調査を行なった結果、
鳥見白庭山、長髄彦本拠地、鵄山(金鵄発祥の地)等の石碑が建てられたようです。
 
ただ「鳥見(トミトビ)」に関しては、南の富雄(トミヲ)町を無視できないでしょう。
古来、鵄邑(トビのむら)→鳥見郷・鳥見庄と変化して富雄村になったのですから。
 
他方、饒速日命が葬られた「鳥見白庭邑(トミのしらにはむら)」は奈良県桜井市三輪山との
説もあり、地元では鳥見山北麓の外山(トビ)茶臼山古墳に埋葬されたと伝わるそうです。
 
ならば、上記印西市小林鳥見神社の勧請元たる「大和国城上郡白庭山」とは?
生駒郡は城上郡(しきのかみのこほり)と離れているため、あり得ません。
かつての城上郡が
今の天理市南部から桜井市にある三輪山の西麓・南麓にかけての一帯だとすれば
三輪山、或いは北麓に茶臼山古墳、西麓に等彌(トミノ)神社のある
城上郡戸山(トビ)の鳥見山(トミヤマ/ 245m)白庭山の候補となりそうです。
 
桜井市戸山の鳥見山に対し、直線で9kmほど離れた宇陀市榛原の
鳥見山(トリミヤマ/ 735m)には鳥見(トリミ)神社があります。
後者を即位後の神武天皇が祭祀を行なった「鳥見山」とする有力な手がかりは
日本書紀神武天皇4年条にある「榛原」です。
乃立霊畤於鳥見山中 其地号曰上小野榛原 下小野榛原 用祭皇祖天神焉
乃(すなは)ち霊畤(まつりのには)を鳥見山の中に立てて、其地を号(なづ)けて上小野(かみつをの)の榛原、
下小野(しもつをの)の榛原と曰ふ。 用て皇祖天神を祭りたまふ。
その榛原のトリミ神社へは 2年7ヶ月前に行きました。
主祭神は皇祖天神(天照大御神)、大山祇御祖命、神日本磐余彦尊(神武天皇)の三柱、
1112年に戸山の鳥見山山中より桜井に遷座したトミ神社の祭神は
大日霊貴尊(おほひるめのむちみこと=天照皇大神)とHPに書かれています。
(時代も背景も異なる「大日霊貴尊」と「天照皇大神」を同列に扱えるものでしょうか…?)
 
これでハッキリしましたね。
榛原のトリミ神社であれ、戸山(のち桜井)トミ神社であれ、
そこからニギハヤヒ下総国に勧請するのは不可能です。
「5代孝昭・10代崇神天皇の御代に勧請」と謳っている以上、
すでに神武天皇の祭祀が行なわれていたのですから。
 
さぁ…困りました。だ・か・ら・社伝は信用ならないのです。
もう一つわからないのは「大和には三つの鳥見山がある」との説でした。
いくら検索しても、宇陀市桜井市にしかありません。
諦めていたところへ、「鳥見山の別名に桃尾(もものを)あり」との情報が!!
桃尾の滝なら行ってます。石上神宮の元宮があり、物部の本家本元の祭祀です。
明治の廃仏毀釈令までは真言宗桃尾山蓮華王院龍福寺がありました。
空海が東西1km強、南北655mの真言密教の道場として再興したそうです。
空海の母は阿刀氏。東寺の真北に隣接する阿刀氏邸宅跡には石上神社があります。
 
やっと社伝によるミスリードの呪縛が解けたので考えがまとまりました。
人が動けば神も動く。
新たに開発した土地に祖神を祀るのは縄文以来の伝統なので、
下総国へやってきた物部氏も例に漏れず祖神ニギハヤヒを祀ったのでしょう。
大和国から勧請」というのは箔をつけようとしたのか、
ルーツを残そうとしたのか、特段こだわる必要はなさそうです。
 
ただ、トビトミトリミの発音に関しては、万葉仮名の場合
一音=一字なので、トリミの方が年代が新しいことだけはわかります。
 
それでは、以下、緑で示した「トリミ」神社に入ります。
濃い緑の浦部トリミ神社と復のトリミ神社を線で結んだのは
「浦部鳥見神社が平成11年に白井市(ふく)鳥見神社を再建」とあったため。
        白井市 富ヶ谷トリミ
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これが神社前の風景です。目の前は何と「船橋市」でした!?
この二重川に船着場でもあって、鳥見神社が鎮座していたのでしょうか。
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道路脇にあるのは薬師堂。その奥にトリミ神社への階段があります。
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暗くて見えづらいのですけれど、左端に石段が写っています。
平成11年に再建された社殿を見る必要はないため、バイクからは下りていません。
 
では、復のトリミ神社を再建した浦部トリミ神社の復習です。
 
        白井市浦部 トリミ神社(1648年鎮座)
濃い緑の浦部鳥見神社の小字は「御手洗(みたらし)」でした。
もしかすると「復」の北「白井(しろい)」の鳥見神社とも関連しているかも?
というのも、白井鳥見神社の近くに、「白井」の地名の元になったと言われる
「みたらしさま」があるのです。牽強付会かもしれませんが、行ってみます。
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またしても地図にない道をぐるぐる回っていますが、ここを進むしかありません。
左手に神崎川があります。かつてはここまで川がきていたかも?
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白いガードレールを目指して来て正解でした。
小さな池と「みたらしさま弁財天」があります。
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おおっ!? 案内板に「鳥見神社の祭礼の際には池の水でご飯を炊いた」とあります。
無関係ではないと思いたいところですが、勝手な思い込みはいけません。
ただ、「白井」の地名とはあまり関係なさそうですね。
「白井」の名称に関しては県指定文化財「清戸の泉」に基づくとも言われますが、
平安時代初期の大同年間(806-810)旱魃という比較的新しい伝承でした。
ともあれ、近くにあるはずの鳥見神社を探します。
 
        白井市白井 トリミ神社
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細いクネクネ道を走っていたら、ここが裏参道のように思われました。
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迷わず進むと、参道が!? ともかくバイクで入ってみます。
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いや、しかし、参道左の塀の隙間から見える光景に震え上がり、先へ進めません。
塀の隙間にレンズのみ入ったので、夢中で撮影しました。
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さらに進むと、突然左側に円墳 or 蜘蛛塚につけられた階段が見えました!?
この円墳のみ公開しているのでしょうか? だとしても、いったい何のための階段?
もし円墳ならば、古墳と書かれているはずなので、
参道左側にあった幾つものこんもりともども蜘蛛塚なのでしょうか?
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社殿が見えましたが、バイクから下りる気は失せました。
この社地の大部分がお墓だったとしたらこわいので。
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枝の影がかかって見づらく、申し訳ありません。
非公開の「懸仏」と、1713年に建てられた石造鳥居のことのみ書かれています。
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「白井」の東隣「神々廻(ししば)」にもトリミ神社があります。
「ししば」とは先ず読めませんが、発音だけなら海人族地名でしょう。
海人族の拠点の一つ「志賀島」の近くに志式(ししき)神社があって
志賀の海人を示す「シキ・シカ・シコ」の展開形かと思われます。
        白井市神々廻 トリミ神社(1602年鎮座)
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ここは地図を見ても位置関係がよくわからず、迷いました。
恐らく直進しても左折しても行けたと思います。
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左折してから右折したら鳥居が見えました。
が、バイクが停められないので、右手からまわり込みました。
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現在は社地が狭くなったのか、すぐに裏まで来てしまいました。
先客が居られたので、バイクから下りずに撮影しました。
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小さな本殿の屋根についていた社紋は、珍しく「抱き沢瀉」でした。
 
神々廻トリミ神社の東北東「小倉」にも鳥見神社があります。
「小倉古墳」があるというので期待して出かけました。
        印西市小倉 トリミ神社
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あちゃ~~!? この道路を通す際に削られてしまったようですね…。
…で、何のために階段をつけたんでしょうか?
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古墳の手前に駐車スペースがあったので停めさせて頂きました。
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小ぢんまりとした社殿というか祠がたくさんあって
どれがトリミ神社なのかはわかりませんでした。
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社叢が素晴らしいので、演奏修行させて頂きました。
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反対側にも道路に面した鳥居があり、夥しい数の庚申塔が並んでいたものの
三列目の後ろに大日如来など多数の石碑が倒れた形で放置されていました!?
 
ちょっと期待はずれなことが重なって、頭が混乱したのか、うっかり次の
白井市富塚を飛ばして、柏市金山(かねやま)にナビをセットしてしまいました。
あとで確認したら「創立年月日不詳」、元々個人宅の氏神でした。
「往古、川上英太郎祖先の氏神を一村の鎮守と尊称す」と伝承されていたとか。
(川上氏なら河内物部の可能性が高そうですね)
        白井市富塚 トリミ神社
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機会があれば、この社殿は見ておきたく思います。
 
        柏市金山 トリミ神社
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どうやらこの切通を上がるようです。
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台地に上がってここにぶつかりました。何だかお寺のようですね。
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右手を見たら「圓林寺」の境内でした。
この道路が通る前は同じ敷地内にあったのでしょう。
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先ほどぶつかったこんもりを左折するとトリミ神社がありました。
けれど、坂の途中だし、駐車スペースがないため、先まで行ってみました。
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うわぁ…縄文台地です。住所は「金山根古」だそうです。
「根古」といえば、
北杜市須玉町江草根古屋に天然記念物「根古屋神社の大欅」があり、
古くから交通の要衝として発展していたと現地で聞きました。
また伊豆の国市奈古谷の「奈胡谷神社」の御神体縄文時代より伝わる石棒でした。
やはり地名は大切ですね。響きですぐイメージが湧きます。
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金山トリミ神社の境内は「金山根古子供の遊び場」になっていました。
ここからは東隣の「白井市名内(なうち)」のトリミ神社へ向かいます。
 
        白井市名内 トリミ神社
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何だか凄いことになっていたのでバイクに乗ったまま撮影しました。
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不思議なことに参道が平行して2本あり、それぞれに社殿と祠がありました。
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舗装路を左折して横から撮り、裏の道を下ることに。
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真裏から見たら、なかなか立派なこんもりですが、
大規模な蜘蛛塚かも知れず、調査してから行くべきでした。
 
終わりに、印旛郡に18社とも22社とも言われる他の鳥見神社を挙げておきます。
        柏市布施 トリミ神社(香取鳥見両神社/698年創建)
 
        柏市 トリミ神社(伊津美鳥見神社)
        白井市平塚 トリミ神社(平塚遺跡・古墳)
        印西市和泉 トリミ神社(1650年再建)
 
        印西市笠神 トリミ神社(鳥見愛宕両社/1827年合祀)
(このブログでは印西市萩埜の鳥見神社へも行きましたが、干拓地なので今回の地図からは外しています)
 
この時点で17時直前。帰り道なので再度「我孫子市古戸」に立ち寄ります。
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今日はなぜか得意の農道を選ばず、公道で遠回りさせようとするナビ。
十分学習したので、30分のところを20分で行くべく真北に進みました。
「今井の桜」と書かれています。来年は見に来たいですね。
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思惑通り、約20分で「古戸(ふるど)」まで来られました。
実は前回、天神社を見つけられなかったのです。
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よって、今回は台地の淵を隈なく走ろうと、ここをV字に曲がりました。
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しかし、この道はこわい。濡れ落ち葉で滑ったら一巻の終わりですか?!
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やっとの思いで突破したのに、前回走った切通に出ました。
地図を見ても、どっちが北なのかわからず、ここから前回と同じ道を
行ったり来たり…。約20分間、迷いに迷いました。
再度さっきの細い道へ戻ると軽四に出合い、空き家の敷地に避けてから
天神社はどこですか?」と尋ねたら、
切通の分岐を上がったら右側だよ」と教えて下さいました。
私は左側と信じて疑わず、人様のお宅へ何度も侵入していました!?
さすが真性の方向オンチです。右折→右折でやっと2日がかりで到達…。
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地図に天神社天満宮が並んでいたので来てみましたが、
建物は一つしかありません。扁額は天満宮でした。
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ん? 向拝の彫刻が「鬼」に見えますね…。
「鬼」とは朝廷がアイヌ民族など先住民につけた呼称です。
そして、ここにも「伊勢太々講」の石碑。
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真向かいの崖の手前には「猿田彦大神」の石碑が並んでいました。
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もしかすると、ここに天神社があったのかもしれません。
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社殿の裏へまわると、やはり古代の円形祭祀場でした。
「古戸」という地名だけに、古い祭祀場があったんですね。
 
最後の最後に、鳥見神社だった可能性を感じた鷲神社を取り上げます。
地図上には茶色でマーキングしています。
(ふく)から北上する途中、地図で鷲神社を見つけ、5/4に先崎(まっさき)
鷲神社へ行ったばかりだし、立ち寄ってみることに。
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画像左手に橋があって、ここも神崎川に東面していました!?
約1.3km東の「みたらしさま弁財天」も神崎川に東面していたので
おかしいと思い、地図を拡大したら、両社の北緯はほぼ同じながら
神崎川がお椀のように北に湾曲して戻っていました。
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かつてはここに船着場があり、この坂で荷揚げした物品を運んだ?
などと勝手に妄想しています。それにしても夥しい数の石碑です。
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鷲神社そのものは1677年創建なんですね。
しかし台地の突端にあるこの地形が利用されてこなかったはずはありません。
しかも住所が「白井市(き)」!?
常陸国風土記』に出てくる「紀の国」や「杵島ぶり」に通じる「き」です。
古くから交通の要衝だったと考えるのが普通でしょう。
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石段が2ヶ所にあったので、どっちを登ろうかとウロウロしていたら
普段は一々撮影したりしない石祠が目に入りました。
よくよく見ると「御手洗」の文字!?
こんな偶然があってよいものでしょうか。
浦部鳥見神社の小字が「御手洗(みたらし)」だったことから
白井の「みたらしさま弁財天」と白井鳥見神社
何らかの関係があるかも?と足を運んだら、神崎川に東面していました。
そして地図でたまたま鷲神社を見つけて立ち寄ったら、
神崎川を東に臨む場所に「御手洗」の石祠があったのです。
 
「御手洗(みたらし)」の語源は神社の神域を流れる川で手を洗い清めて神詣ですること。
今は境内に設けられた手洗い場で口を漱ぎ、手を洗って参拝するのが普通です。
「みたらし」とは祓えであり、祓戸大神主祭神とする佐久奈度神社では
夏越しの大祓にあたる「御手洗祭」が行なわれています。
 
鷲神社の祭祀は、かつて神崎川で行なわれた「祓戸」とは別物だったはず。
古くは白井の「みたらしさま弁財天」と鳥見神社のような共同祭祀だった
可能性を考え、鷲神社の前身は鳥見神社だった? と妄想している次第です。
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よって現在の社殿と古代の祭祀とは無関係ですが、
文化財ということで撮影してきました。
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「鷲大明神」の扁額の後ろの彫刻は鳥類ですね。
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しかしながら、台座の波の彫刻、向拝の龍の彫刻などを見ると
海人族の神社にしか見えません。
船着場のある場所は交通の要衝であり、
古代「香取海」を縦横無尽に駆け巡れたのも海人族でした。
 
鳥見神社だった証拠が見つからないまま、坂を登って「木」の台地へ。
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やはり縄文台地でした。
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道の反対側が鷲神社の裏手です。
たいへん興味深い地名と神社でした。