北部九州の志賀(しか)の海人(あま)こと「安曇(阿曇)連」は
海神「豊玉彦命」の後裔として日本神話に組み込まれ、
その歌舞は雅楽寮(701-)の草創期までに宮中へ入って
現在まで御神楽(みかぐら)の演目として伝承されています。
新羅楽四人。度羅楽六十二人。諸県舞八人。筑紫舞廿人。
神楽歌においては『梁塵秘抄 口伝集』巻第十一にある
「諸社國々行處、阿知女於介、是なん神楽根本神語也。」が重要です。
重ねて『梁塵秘抄 口伝集』巻第十四にもこう書かれています。
「承和 仁明天皇の御時には榊をもつことなし。神遊事になるがゆゑに歌もかずをまし、
催馬楽のうちを入るるあり。神遊のはじめ阿知女 お介の二ツにてこれなん神語なり。
その余の目録は後人の唱ひるるなり。」
承和年間(834-848)、仁明天皇の御代までは御神楽のとき榊の枝を持つ習慣はなかった。
神遊びの中で歌の数も増えてゆき、催馬楽を入れる場合すらあった。神遊のはじめ(神迎として)「阿知女(あちめ・あぢめ)」「お介(おけ)」と歌われる二つの言葉、
これこそが「神の言葉」であり、その他の演目は後世の人が作って歌ったものである。
「あぢめ・あちめ」とは他ならぬ「安曇」で、その名にまつわる地名として
ただし、これを現代かなづかいで「あずま・あずみ」と書くとザ行音なので
語源たるダ行音の「あづみ」との関連が説明できません。
例えば「地」なども、現代かなづかいではタ行音の「土地(とち)」と
サ行濁点の「地面(じめん)」が混在し、語源が無視されています。
また、古い日本語ではタ行の発音が「タ・ティ・トゥ・テ・ト」に
近かったと言われるため、「ta,ti,tu,te,to」とタ行で表記できますが、
今は「ち・つ」の発音が「chi,tzu」に近くなっています。
よって歴史的仮名遣いで「安曇」関連の人名・地名を挙げてみます。
A-TA-MI | あたみ (熱海) |
---|---|
A-TI-ME A-DZI-ME A-DZI-MI(U) |
あちめ (阿知女) あぢめ (阿知女) あぢみ・あぢむ (安心院) |
A-TU-MI A-DZU-MI A-DZU-MA |
あつみ (渥美) あづみ (安曇・安曇野) あづま (東・吾妻) |
A-TO A-DO |
あと (跡部・阿刀氏) あど (阿度部・安曇川) |
申すまでもなく「阿刀」氏は空海の母方の姓で、
『新撰姓氏録』(815)に
●左京 神別 天神 阿刀宿禰 – 石上同祖。
●和泉国 神別 天神 阿刀連 – 釆女臣同祖。
とあり、
その海柘榴市に近い赤井谷不動堂や阿刀氏本貫の地にある跡部神社へも行きました。
なかなか参上しなかったとあり、いずれも航海と関わっています。
鎌倉時代中期~後期にかけて成立したといわれる『八幡愚童訓』に
是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神
それゆえ、常陸国の安戸星古墳と阿刀氏を結びつけても的外れではないかも?
と妄想しているのですが、水戸市飯富町にあった安戸星古墳は、
1981年の発掘調査ののち整地され、駐車場になってしまいました。
(住所は「オフ」氏が「アト」氏の治める土地を平らげたとのメッセージにほかなりませんが?)
いずれにせよ、四絃のコトで祭祀が行なわれていた関東地方では
常陸国でのみ志賀の海人の五絃のコトが出土していますし、
今後は春日神社も視野に入れて、安曇族を中心とする海人族の
勢力範囲などにつき調査を続けたいと思います。
そこで、今日は成田市久米へ。あのこんもりがほぼ久米なのだそうです。
「ここを右折します」とナビに言われたものの、急勾配に驚いて通り過ぎました。
やっぱり右の上り坂ですよね…。
細いジグザク道を結構のぼりましたよ。
おおお…春日神社と書いてあります。ずいぶん新しいですね…。
↑ 画像右端を上ってきました。
下総国に多い崖地に建つ古社です。
さすが貝塚のある台地だけあって、水際でよく見る樹の形状です。
ん…? 社殿の右奥の鳥居の先にある石祠の扉の文様が!?
その、さらに右奥に下からの参道らしき道がありまして、
赤いポイントが気になるのですけれど…?
三角点ですね。…でも、なぜこの一角だけで4つもあるんでしょう?
水準点とか、電子基準点とか…ですか?
社殿に向かって左側は、こんな感じ。
画像右端から下への斜面が貝塚っぽいのですけれど…?
ともかく樹々が大きくて、整美される前を見たかったと思うものの、
縄文人が住みたくなるような台地であることはたしかです。
その縄文人が安曇族だったのか…
縄文人を追いやったのが安曇族だったのか…わかりませんが、
先述の『八幡愚童訓』に「磯良ハ大和国春日大明神」とあったので
神楽歌《磯等(良)》を演奏してみました。とても気持ちのよい空間でした。
急坂を下り、久米の集落を振り返りました。台地のテッペンに春日神社があります。
貝塚は斜面にあるのか、トップにあるのか…?
ここからは佐原街道へ出て成田空港の下をくぐり、一坪田(ひとつぼた)の春日神社へ。
ナビの言うことをきかず、農道を走ってます。
佐原街道へ出たとたん、上に鳥居が見えたので、側道を上がってみました。
地図を見たら、野毛平の鎮守皇神社でした。
すぐに下りて成田空港に差しかかると…JAL機が前進してきました!?
かなり後方から撮ったので、切り取って大きくしましたが、
こんな画像が撮れてしまうなんて…!!
しかも、これが「十余三(とよみ)トンネル」で、「豊玉族=安曇氏」に
まつわる地名かもしれない…(違うかもしれませんが、当て字は重要)と興奮しました。
再び農道を走り、台地に上がろうとしています。
安曇磯良と関係があるかも知れない春日神社。
こちらは周囲に会社や住宅があり、敷地もさほど広くありません。
「ひとつぼた」という地名も気になりますが…(情報が無い)。
下総国の神社にしては境内摂社というか石祠が少ない方ですね。
小ぢんまりとした神社ながら、お掃除もされていて
集落の鎮守として大切にされている印象でした。
次もまた小さな神社を目指します。
丘を下りて、東関東自動車道を越え、次の丘へ上がって走っていますと、
道の両側に削られたような"谷"が出現するので驚いてます。
そして神社はこちら ↓ 皇産霊神社です。
皇産霊神社、私は初めて知りました。
「こうさんれい」とも「みむすび」とも呼ばれているようですが?
先日、高天彦神社のパンフレットにあった
を紹介しましたが、では「高」の無い皇産霊神社とは?
ある皇産霊(みむすび)神社では、
辞書に
神皇産霊神(かみむすひのかみ)を万物生成化育の根源となった三神という」
とありました。
認めていたことになりますか?
しょせん人が作った装置ながら、
祖神とか実際の信仰の対象ではなく、観念的につくられた神とされています。
●高皇産霊神は、別名「高木神」。
高天彦神社の社伝によれば葛城氏・蘇我氏が祖神として奉斎しているとか。
混同・付会させているのかもしれません。
当社には由緒書など無く、奥の崖の手前にあった石祠も何やらわかりません。
次は前々から楽しみにしていた雨郷稲荷神社です。
「津富浦」という住所、周辺に広がる「雨郷台遺跡」(Ⅰ~Ⅷを地図上で確認)、
その「雨郷台遺跡Ⅲ(奈良~平安)」に隣接する神社が稲荷とは思えず、
古い宇迦神社であることを期待しているわけです。
津富浦雨郷台までやってきました。
住宅の左手奥のこんもりに「雨郷台遺跡Ⅲ」と雨郷稲荷神社があるはずです。
いや、しかし、バイクを停める場所が無く、坂を登り切ったら
造成中でした!? また新たな遺跡が見つかったかも?
坂を下りて引き返しました。道がカーブしている左側が社頭です。
↓ こちらは二番目の階段(51段)で、下に最初の階段(67段)を繋げてみました。
この台地の雨郷台遺跡Ⅲは奈良~平安期の生活空間なので、
下の海岸線からの参道を確保するために階段が作られたのでしょうか?
階段を上っていたら、左手から光が射し込んできました!
台地のピークにある小さな社殿にはミニ狐の置物が並べられていますが、
この雰囲気は「正一位稲荷」という感じではありませんね。
さて、宇迦神社が何なのか、私自身は未だわかっていないわけですけれど、
《薦枕》の歌詞に「とようかひめ」とあるため、豊玉族との関連を探っています。
「とよ」なら八尋のワニとなって出産したという豊玉姫。ならば「うか」は?
次は更に北上して、成田市倉水の宇迦神社を目指します。
途中、右がこういう風景なら左が崖?! という感じの道を走り、
直進したら貝塚のある「名古屋」へ行ける手前を右折しました。
え? ここを下りる? 上がってこれなくなったらどうするの?
と迷いつつ、ナビに従いました。
「目的地は右です」と言ってますが、まさか、あのV字は曲がれませんよね。
いったんT字路まで下りますと、ちゃんとした道があったので
さっきの角を曲がるべく引き返しました。
よもや…あの角の建物が神社…ということはありませんよね?
一応、階段はありますが、ここには停められないので最奥まで行ってみます。
かつてはこちら側からも徒歩で来られたのかもしれません。
右手が宇迦神社だったので、鳥居の方にバイクを入れれば反転させられそうです。
あの角の建物は神社の倉庫(宝物庫?)かも知れませんね…。
ほんとうに小ぢんまりとした社殿ながら、
決して放置されておらず、きちんと整美されていました。
今日はあまり演奏修行をしなかったので、この時点で16時。
体力も気力も残っていたため、行くつもりではなかった神崎町古原の
「大日如来」へ行ってみることに。
暮れに行った空海創基の「妙法山神宮寺」の真南にあったからです。
幹線道路へ出ず、地図を頼りに細い古道を行くことにしました。
ここを抜けて右折したら「大日如来」かという場所に、道標らしきものが!?
ここで右折し、取り敢えず直進して「八幡宮」へ行きましたが、
中央左寄りの車の奥かも? との直感はありました。
うわっ!? この扁額。まったく信仰心の無い私でも気持ち悪いんですけど…。
そのうえ、細い道を隈なく走っても「大日如来」へは行きつけません。
溜め池(?)の向こうに未舗装路があり、一瞬ここを登れば行けそう…
と思いましたが、ほとんど地面が見えていなかったので止めました。
やっぱり最初に見た車の奥へ行ってみようと引き返していたら
立派な門構えの家から軽四が出てきました。
「すみません! 大日如来への道を教えて頂けますか?」
「いいですよ、この車の後についてきてください」
と親切にも先導して下さいました。
あの車の奥まで入って仰ることには
「下に古池があったでしょ? あの横の道から上がって来れるんですよ」
「いや、この道は徒歩でも無理だと思います…」
そして、こちらが「大日如来」でした。
暗い竹林に覆われているため、なかなかシャッターが切れず、この一枚のみ!!
「古原」への地図にない道、楽しませていただきました。
ご案内くださった大工さん(と名乗られました)にも感謝いたします。