藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

かぶと塚・よろい塚

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4/21にかぶと塚よろい塚を教えていただきました。
駐車スペースがなく、「鎌倉街道」の王子大明神と古墳へ
行ってしまったため、記憶が薄れないうちに再訪することに。
近くに「鎌倉街道」沿いの二宮神社があったので向かいました。
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地図上の名称とは異なり、二宮大杉大明神でした。
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はて、「二宮」とは?
下総国「一宮」は香取神宮ですが?
「二宮」の社名に決定的な意味があるとは思えません。
第一に
古来、各国で論争を巻き起こしてきた一宮・二宮…というのは
自己申告のようなもので、官製の格付けではありません。
それを社名にしたからと言って、公には意味を持たないでしょう。
第二に
上の由緒書に天保11年(1840)に再建された折、「正一位大権現社として
今日の本殿と成る」と明記されていますから、現在の社名に拘わらず
正一位大権現=稲荷大明神」として扱われていた可能性があります。
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社殿は普通だし、キツネもいませんが…?
境内社や石碑などがたくさんあるようですし、ここも"呉越同舟"なのでしょう。
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2本の大きなイチョウの木の下には神社らしからぬポピーなどが咲いています。
4/21に「鎌倉街道」を歩いた時、根本様が「小学校の子供たちが紫陽花を植えたけれど
巨木に遮られて太陽光が届かず、花が咲かなかったんですよ」と仰っていたので、
ここには子供たちがポピーのタネを蒔いたのかも? と思いました。
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今は「横須賀」の信号から「鎌倉街道」を1分ほど歩いたら左手に狭い参道があり、
社殿の奥まで続く細長い社地に建つ小ぢんまりとした神社ですが、
鎌倉街道」そのものが細いし、ランドマークとして機能していたのでしょう。
(「鎌倉街道」の地図がなく、古東海道のマップですみません)
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もう一つの社名「大杉」の元宮大杉神社(現 稲敷市阿波)
常陸国風土記』に出てくる「安婆嶋」鎮座ゆえ「あんばさま」と親しまれ、
霞ヶ浦における水路のランドマークだったようです。
大杉神社のHPによれば
古くは、菟上之国(うなかみのくに/海上国)という霞ヶ浦東岸域(稲敷,行方,鹿島南部)
東総域(香取,海上,匝瑳)を治めていた国の一部とされ、のちに
茨城国の一部に改組されるまで、菟上国造を祀る重要な神社でした。
元は下総国における「鎌倉街道」の終着点が、今は千葉県ではなく
茨城県になっているのと同じで、ややこしい話ですが。
 
また「その後菟上之国の海上支配,交易権は、南下してきた仲国の一族が
築いた鹿嶋,香取の両神社に移譲しました」との看過し難い情報が
なんの根拠も示されずサラッと書かれています。
社伝によれば
大杉神社の創建は神護景雲元年(767)
鹿島神宮の創建は初代神武天皇の御代、
香取神宮は創建年代を明記せず、Wikipediaでは初代神武天皇18年。
おかしいですね。後に創建された大杉神社が鹿嶋,香取に権利を移譲とは。
まぁ日本の神社はほとんど辻褄の合わない社伝によって成り立っているため
最初から眉に唾をつけておく必要があります。
 
それに、Wネームの神社は山のようにあります。
常陸国では水戸光圀の時代の寺社改革および明治の一村一社令による
合祀で「鹿島香取神社」「鹿嶋三嶋神社」「水神宮稲荷神社」などが
現存するほか、地元の方の呼び名と社名が異なる例も少なくありません。
もちろん社名はそのままで祭神が変わっている場合もありますし、
私は社伝を参考にしても信用はしていません。
よって何もわからない…。
 
では、何のために出かけているのか?
以前から書いているように、地形を見るためです。
今日も恐ろしい事実に出くわしました!?
冒頭の地図にある「よろい塚」の周りの地名です。
今はこのように「小字」が載った地図がほとんど無いので
利根町史』の附録は有り難い限りです。
「横須賀字(あざ)下谷」「押戸谷津」「奥山谷津」…
常陸国風土記』の「ヤツ・ヤト」を考えると震え上がるしかありません。
皇軍が先住民を崖まで追い詰めて谷底へ落としたなどという伝承は
枚挙に暇がありませんし、そういう場所をたくさん見てきました。
ヤツカハギ・クズ・土蜘蛛らの血が流れて川ができたとの記述も。
皇軍は残酷な方法で先住民を殺戮することに躊躇しないどころか
むしろ手口を自慢げに『常陸国風土記』などに披瀝しています。
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二宮大杉大明神から北上するとすぐ、このこんもりが見えました。
一瞬「かぶと塚」かと思いましたが、人家のある別の丘のようです。
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先ほどのこんもりを過ぎると正面に「かぶと塚」が見えてきました。
右の「よろい塚」と「かぶと塚」を結ぶラインの向こうが池です。
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ここが「下谷津」ですが、今まで見た「ヤツ」とは違いますね。古代の姿はわからねど
今は広々とした耕作地です。土手の向こうに池があるので元は泥濘地だったかも?
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池に草が生えているのでわかりづらいですが、水鳥も居ました。
右の土手を走るのかと思いきや、柵があって入れませんでした。
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土手と並走する舗装路がありました。この先が利根中学校のグラウンドらしく、
ジョギングする人や車の往来が結構ありました。
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こんもりの麓まで来たら、土手が封鎖されていた理由がわかりました。
水路があって行き止まりだったのです!!
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麓まで来ましたが、はなから塚へのぼる気などありません。
人を葬った古墳や蜘蛛塚の上を歩く趣味はないため。
 
利根町史』第四巻 p.38にこうあります。
大平にあるかぶと塚には首が埋められているそうだ。
また押戸横須賀のトウカッピにあるよろい塚には胴が埋められているそうだ。
二つ合わせて一人ぶんなのだそうである。
しかし、誰の誰兵衛が埋められているのかは解らないそうだ。
 
かぶと塚」を撮った画像を見たら、凹んでいるような…?
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こちら側からも登れそうですね。階段でしょうけど。
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取り敢えず、反対側のバス停のある道路へ廻り込んでみます。
先日見たら公園がありましたが、遊んでいる人はいませんでした。
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よろい塚」と違い、「かぶと塚」には古墳と書かれています(利根町遺跡地図)
それを、削っちゃったんですか?!
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やはり右奥に階段がありました!! 欠損部分もよく見えます。
まったく人の気配がないのはラッキーですね。演奏修行できます。
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どんな古墳なのか全くデータがありませんが、私としては
一度でも多く弾き歌いできれば腕が上がりますので。
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先日と同じ、池越しに「よろい・かぶと」を撮ってみましたが、
真ん中に見える、さっき通ったこんもりが気になりますね。
調べられていないだけで、かなり蜘蛛塚があるような気がしました。
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調子に乗って「権現塚」を探し始めたものの、方向音痴なので
先日駐輪した泉光寺まで行ってしまいました。
再度マップを見たら「権現塚」でした(住宅地ならありました)
諦めて、龍ヶ崎南高校あたりから4号線へ出ようと走っていた時…
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住宅街を左折したとたん目に飛び込んできたコレは!? 古墳じゃありませんか?
慌てて地図を出してみましたが、何の記載もありません。
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私有地かもしれないと思いましたが、どうしても近づいてみたく、
池の淵から上がってきましたが、案内板など一切ありません。
すぐに引き返して「利根町遺跡地図」を見たら、
「庄兵衛台遺跡(古墳)」の文字がありました。
ただし地図上ではもう少し4号線に近かったので坂を上がりますと
古墳の奥の上あたりに平地が広がっていました。
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もしかすると、ここが『利根町勢要覧2015』にある
壷大平(だいへい)地区にある庄兵衛台遺跡」かもしれません。
庄兵衛台遺跡では住居跡が見つかりました。古墳を築いた人々が
住んでいた地域と考えられています。 住居跡からは壷などの
暮らしの遺物が発見されました」とありました。
ただ走っているだけでこうした遺跡に出合える利根町って凄いですね。
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小字地図におおよその位置を書いてみました。
すると、北方の王子神社を含む台地も古墳じゃないかと気になってきます。
4号線は遺跡をものともせず、利便性を追求して切り拓かれたのでしょうか?
 
同じ台地にいるとわかり、小字塙台の「花輪台貝塚」へ行ってみたくなりました。
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早尾早尾台を走っています。下の谷は小字地図には「富士下」とありますが。
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懐かしの「花輪台貝塚」に着いたら、散歩中の犬が上がって行きました。
あわよくば演奏修行を、と思っていましたが、無理そうですね。
 
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初めて谷底まで下りてみました。
平面の地図では絶対に味わえない高低差を体感しつつ走りました。
 
帰り道に、立ち寄りたい場所があります。
4/21に根本様に「旧小貝川は仙台伊達藩が物資を運ぶ港を造るために
迂回させたんですよ」と教えて頂きました。
実はなぜこんな形状なのか不思議でたまらなかったのです。
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ここへは何度も白鳥を見に来ていました。
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この橋はかつての桟橋を利用したものだったのでしょうか?
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迂回させたからこそ荷を積み下ろしするスペースができ、
なおかつ多くの船を逗留させることが可能になったのでしょう。
 
そう、龍ヶ崎は常陸国ながら天正19年(1591)豊臣秀吉から仙台を与えられた
伊達政宗を初代藩主とする仙台藩=伊達藩で、政宗は慶長11年(1606)
徳川家康から常陸河内郡と信太郡26カ村(1万石余)をも与えられていました。
 
4/15に根本敏明様とお会いしたことで、数多くの視点をもつ必要と
自分の目で確かめる楽しさを再確認できました。感謝申し上げます。