藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

行方

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昔、難波の長柄の豊崎の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世
白雉4年(653)に茨城(うばらき)の国造 小乙下 壬生連麿(みぶのむらじまろ)
那珂の国造 大建 壬生直夫子(みぶのあたひをのこ)らが、
惣領高向大夫、中臣幡織田大夫らに申し出て、茨城と那珂の郡からそれぞれ
8里と7里の計15里(700余戸)の土地を提供し、郡家を置いて行方郡とした。
とあります。
 
その行方郡行方に「夜刀(やつ・やと)」が居たと知りバイクで行きました。
どう地図を見ても道がなかったためです。
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農道を走っていると蝦夷討伐の時代にタイムスリップしたかのような荒れ模様!?
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舗装された農道を外れ、ぬかるんだあぜ道をしばらく走ると、その先へ続く道が…
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これなら何とか走れますが、本当にこの先に神社があるのでしょうか…?
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こちらは左手にあった石碑に「天龍山愛宕神」と書かれていました。
おっと、右手奥に「夜刀神社」の扁額が掛けられた鳥居があります。
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こ、これは…!! ちょっとビックリ!? 実は、情報を求めてネット検索した際、
池の上の台地の端に「夜刀神」を再建したと書かれてあったのですが、
画像も無く、場所もわからないまま適当に走って辿り着いたのでした。
 
しかし、地図には「愛宕神社」とあったので、祭神が変えられたものだとばかり
思っていました。上の「天龍山愛宕神」が「愛宕神社」なのでしょうか?
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ふと右手を見たら↑こんな略図が!? 現在位置からは離れていますよね?
もしや? と、30分ほどこの近辺を走り回った際の画像を探しました。
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これが池の端っこだと思うのですけれど、扁額を大きくしたら「愛宕神社」でした。
左の道が階段に続いていたので、登ると「愛宕神社」があったのかも知れません。
(再度検索したら、ここからキツイ階段を登り切ったところにあるのが
「天龍山愛宕神」=「愛宕神社」だったとわかりスッキリしました)
 
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横にあった看板も撮ってありました。が、あまり適切な説明とは言えませんね…。
地元の皆さんも「教育委員会」のコメントを舌足らずだと思っておられるかも。
夜刀神は侵入者を攻撃したわけではありません。
平和に暮らしていた土地を勝手に開墾する人が現われたので
自分たちの水源や葦原を守ろうとしただけですよね?
 
常陸国風土記』七、行方郡「立雨(たちさめ)ふり、行方(なめかた)の国」より
昔、石村(いはれ)の玉穂(たまほ)の宮に大八洲知ろし食しし天皇(継体天皇)の御世に
箭括(やはず)氏の麻多智といふ人が郡家より西の谷(やつ)の葦原を開墾した。
その時、夜刀(やつ)が群れをなして立ち塞がったので田を耕やせなくなった。
俗いはく、蛇を謂ひて夜刀神と為す。其の形は、蛇の身にして頭に角あり。
率引て難を免るる時、見る人あらば、家門を破滅し、子孫継がず。
凡て、此の郡の側の郊原に甚多に住めり。
麻多智は鎧をつけ矛を執って山の入口の境の堀に標(しるし)の杖を立てて
「此より上は神の地と為すことを聴さむ。此より下は人の田と作すべし。
今より後、吾、神司(かむつかさ)と為りて、永代に敬ひ祭らむ。
冀はくは、な崇りそ、な恨みそ」と夜刀神に申し上げた。
 
のちに難波の長柄の豊崎の大宮に天の下知ろし食しし天皇(孝徳天皇)の御世、
壬生連麿が初めて其の谷を治めるにあたり、池の堤を築いた。
時に、夜刀神、池の辺の椎株に昇り集まり、時を経ても去らなかった。
麿は声を挙げて「池を修めしむるは、要は民を活かすにあり。何の神、
誰の祇(くにつかみ)ぞ、風化(おもむけ)に従はざる」と大言(たけ)びらく。
さらに使役の民に「目に見る雑の物、魚虫の類は、憚り懼るるところなく、
随盡に打殺せ」と言ひ了はる応時、神しき蛇避け隠りき。
その池はいま椎井(しひゐ)の池と呼ばれてゐる。
池のほとりに椎の木があり、清水の湧く井があるため、その名を池につけた。
ここは香島への陸路の駅道である。
 
夜刀神社は、松江市東忌部町の久多彌神社再建の熱意を思い出させてくれました。
土着の先住民が奉ずる神が渡来の忌部氏の神と合祀されては敵わないとは
思いますが、では明治以前は杵築大社だった(現 出雲大社)大国主
それを祀る人々はいったいどこから来たのでしょうか?