藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

高良神と高樹神

2012年10月8日、対馬からの帰途、筑後国一ノ宮高良(こうら)大社へ行きました。
祭神は高良玉垂命。『日本紀略(795)に「筑後国高良神奉授従五位下」とある古社です。
ちょうどお祭りの準備で大勢の皆さんが集まっておられたので、
すぐにタクシーに戻り、奥宮へ行きました。
奥宮での演奏は、他に経験のない不思議なものでした。
が、それが何だったのかを説明できないまま今日に至っています。
その後もなかなか再訪できませんでしたが、この度、日田への特急が
朝からずっと満席で、新幹線で久留米まで行く方法しかありませんでした。
しかも、九大本線の各駅停車への接続時間が30分近くあります。
それなら久留米駅からタクシーに乗って高良大社へゆき、
御井駅から乗車すれば 1時間近く捻出できます。
ともかく時間を無駄にしたくないので、この案に賭けましょう。
 
そもそも高良玉垂命とは何者なのでしょう?
当社の鎮座は、社伝に「仁徳天皇55年(367)または78年(390)といわれ、
履中天皇元年(400)に社殿を建ててお祀りした」とあるそうです。
これを信じろと言う方が無理…だと思いますが。それで何か
ヒントはないかと周辺の地図を見ていたら「下宮」(久留米市御井町387)
「高樹神社」(久留米市御井町121-1)がありました。
おおお…参道沿いのこんな場所にありましたか!?
下に駐車場がありますね。あれが高良山御手洗橋でしょう。
 
タカキの神と言えば、いわゆる造化三神の一つタカミムスヒノカミの別名です。
高御産日神・高御魂神・高皇産霊尊高御魂命・高魂命などと表記される高木神
そのタカキの神については、『三代実録』元慶二年(878)十一月十三日の条に
筑後国高樹神ニ従五位ヲ授ク」とあり、天慶七年(944)には正五位下に進んだと
筑後国神名帳』に書かれていたそうです。
 
日本紀略(795)筑後国高良神奉授従五位下
『三代実録』元慶二年(878)筑後国高樹神従五位ヲ授ク」
 
すると、筑後国のこの場所に「高良神」と「高樹神」が並立していたのでしょうか?
高良大社の古縁起に、このような伝説があったそうです。
 
高樹神」は古くは「高牟礼権現」と称し、地主神として高良山(高牟礼山)山頂に鎮座。
高良神」に一夜の宿を貸したところ、「高良神」が神籠石を築いて
結界の地としたため、山上にもどれず、山麓に鎮座することになったと言われます。
 
これは列島各地でよく聞かれる伝説ですが、
高樹神」=「高牟礼権現」は、高良玉垂命ではないってことですか?
 
高良大社の見解の一つに、玉垂とはいわゆる満干(みちひ)の玉、
干珠(かんじゅ)と満珠(まんじゅ)を指すとの説があるそうです。
玉垂とは珠を下賜するという意味にも受け取れます。
満干の玉を下賜できたと考えると大海神ということになりますね。
恐らくそれで高良大社の祭神を磯等とする説があるのでしょう。
たしかに「高樹神社」の扁額が架けられています。
ほとんど消えかかっていますが、記録しておきます。
国史見在社」かと思いきや「国史現在社」とも書くんですね。
向こう側にも下りられそうです。そして今朝の聴衆は…
ネコちゃん、大鴉、その他たくさんの鳥たちでした。
久しぶりに弾き歌いしたら、五線譜の歌を演奏してないので声がナチュラルでした!
 
さて、高良山鎮座の、画像中央少し右寄りの高良大社の下社を名乗る高良下宮社です。
高良大社奥宮と高良下宮社を結ぶ線上に高樹神社があったのですが、
高良神」なので「高樹神」=「高牟礼権現」を追い出した側ということですか?
まだまだ調べる余地がありますが、もう日田に着いてしまいます。
 
あとで情報を追加するかもしれませんが、とりあえず今日はこれで。