おはようございます! おかげさまで青空が見えています。
午前中は大阿坂・小阿坂から始まりました。
松阪駅から2,30分かかり、こののち真反対の方角を目指して山に登り、
阿射加神社へ行かなくてはならないと思ったのは郡山へ行った折でした。
阿邪訶根神社(郡山市大町)を調べていたら
と書かれていたのです。
そうか、安積は阿射加からきていたのか…。
という次第で、先ずは小阿坂。
正面が本殿。
右手に外宮祀官度会氏の祖 大若子命(おほわくごのみこと)が祀られていました。
当社に大若子命が祀られた経緯については、『倭姫命世記』に
「阿佐加之弥子(阿坂の峰)」に居て人々の通行の邪魔をする
伊豆速布留神(いつはやふるのかみ)を懐柔するため山上に神社を造営し、
外宮祀官度会氏の祖である大若子命に祈らせた、とあるそうです。
同様の話は『皇太神宮儀式帳』にもあり、
阿倍大稲彦命(あへのおほしねひこのみこと)が阿佐鹿悪神(あさかのあらぶるかみ)を
平定したとあるそうです。
名神大社。式内阿射加神社は当初阿坂山上に鎮座していたとされ、
考えるべきかどうか、見解が定まっていないようです。
ただ、阿邪訶根神社の由緒によれば、大阿坂の阿射加神社が論社となりますね。
約1km離れた小阿坂・大阿坂の両社は阿坂山東麓に東面して鎮座しており、
ともに近世まで「龍天明神」と俗称されていたそうです。
ただし現在の祭神は
小阿坂が
猿田彦大神・伊豆速布留神・龍天大神
大阿坂が
猿田彦大神・伊豆速布留神・底度久神
だそうです。
そして↑の猿田彦大神は玉列神社から来たとの説が?!
では大阿坂。
どうやら参道の途中から入ってしまいました。
ずいぶん長い参道ですね。
そして、本殿。
地図を見ると、この奥にもう一つ社殿があるようで、
それが三座のうちの一座かもしれないと思いました。
さあ、ここから南下し、先日行った佐那神社の御神体山を目指します。
ところが、延喜5年(905)に編纂された『延喜式神名帳』によれば
山頂に鎮座していたのは伊勢国穴師神社。
そして天暦7年(953)の『近長谷寺資財帳』に穴師寺の名が見えます。
にも拘らず、志度寺の『海女の玉取り伝説』で有名な
屋根の一部が崩れた本堂の裏に穴師神社への登り口があると聞き、探しました。
きっと、ここです。回り込むと「式内穴師神社」の案内板が!?
式内社の調査研究により「穴師神社跡」と認められた山頂の祠は
近年まで「愛宕さん」と呼ばれていたそうです。
クモの巣だらけの道無き道を登り切りました。
御神体山南麓の佐奈神坂方面です。
現在、松阪市立田町に鎮座している穴師神社は
ここから移り住んだ人々が奉斎したと言われています。
其村名ヲ取リテ当社ノ社号トセシナルベシ」とあり。
穴師神社を奉斎する穴師族が古代金属鉱採取に従事していたことが窺えます。
鎭魂歌『年中行事秘抄』
アチメ オ々々々 オ々々々 オ々々々
アメツチニ キユラカスハ サユラカス カミハカモ
カミコソハ キネキカウ キユラナラハ
アチメ オ々々々 オ々々々 オ々々々
イソノカミ フルヤシロノ タチモガト ネガフソノコニ ソノタテマツル
アチメ オ々々々 オ々々々 オ々々々
サツヲラガ モタキノマユミ オクヤマニ ミカリスラシモ ユミノハズミユ
アチメ オ々々々 オ々々々 オ々々々
ノボリマス トヨヒルメガ ミタマホス モトハカナホコ スヱハキホコ
アチメ オ々々々 オ々々々 オ々々々
ミワヤマニ アリメテルチカサヲ イマサカエデハ イツカサカエム
アチメ オ々々々 オ々々々 オ々々々
ワギモコガ アナシノヤマノ ヤマノモト ヒトモミルカニ ミヤマカヅラセヨ
アチメ オ々々々 オ々々々 オ々々々
タマハコニ ユフトリシデテ タマチトラセヨ ミタマガリ
タマガリマシシ カミハイマゾキマセル
アチメ オ々々々 オ々々々 オ々々々
ミタマミニ イマシシカミハ イマゾキマセル
タマハコモチテ サリクルミタマ タマカヘシスナヤ
一二三四五六七八九十(ヒトフタミヨイツムユナナヤココノタリヤ)
境内に咲いていた芙蓉?
無事穴師神社跡を見て、熊野市へ行く特急に乗るために多気駅へ。
少しだけ時間があったので、途中、朽羅(くちら)神社へ立ち寄りました。
まるで古墳のようですが?
皇大神宮摂社でした。