7/24のブログで、神武紀における女首長の誅殺を取り上げました。
しかし、"天皇にまつろわぬ民"の征討はまだ続きます。
本項では『日本書紀』巻第七の景行紀を取り上げたいと思いますが、
第12代景行天皇の時代には「…ヒメ」と名乗る女首長が出てきます。
「丹波氷上人名氷香戸邊(ヒカトベ)」が最後のようです。
あ、いや、巻第六 垂仁紀の
「此國有佳人曰綺戸邊(カニハタトベ)」という美人を見落としていました。
誅殺したわけではなく、娶っていたので。
綺戸邊より先に召されたのが山背(城)国の苅幡戸邊(カリハタトベ)です。
「娶山背苅幡戸邊」と「綺戸邊」の二人が登場してました。
『日本書紀』では、神武紀~垂仁紀における女首長の名が「…トベ」、
それが景行紀以降は登場しないことのヒントとして
私は庚午年籍に着目しています。
「秋七月丁酉。筑紫諸国。庚午籍七百七十巻。以官印印之。」
57年もの歳月を要したことがわかります。
海道東征ののち土着の首長を誅殺し、建国神話を展開する『記紀』編纂の
段階で、筑紫諸国からはまだ戸籍が提出されていなかったのです!
筑紫諸国が朝廷に戸籍を提出したのが727年、
日本神話では
筑紫諸国が最後まで"天皇にまつろわぬ国"だったという事実を逆転させて
第12代景行天皇の御代以降に九州を平定したと描いたのでしょうか?
『日本書紀』巻第七の景行紀によれば、
9月5日、周芳の娑麼(山口県佐波)に着き、南(北部九州)を見ると煙が立っていたため
使いを派遣すると、神夏磯媛(カミカシ or カムナツソヒメ)という女首長がいました。
今將歸德矣。唯有殘賊者、一曰鼻垂、妄假名號、山谷響聚、屯結於菟狹川上。
二曰耳垂、殘賊貧婪、屢略人民、是居於御木木、此云開川上。
三曰麻剥、潛聚徒黨、居於高羽川上。
四曰土折猪折、隱住於緑野川上、獨恃山川之險、以多掠人民。
私はすぐにも帰順するが、悪い賊がいる。
鼻垂(ハナタラシ)は、みだりに主の名を騙り、山谷に人を呼び集め、菟狹(うさ)の川上にいる。
二人目は耳垂(ミミタラシ)といい、蓄えを奪って貪り食い、しばしば人をさらう。
三人目は麻剥(アサハギ)といい、密かに徒党を集め、高羽(たかは=豊前国田河郡)の川上にいる。
四人目は土折猪折(ツチヲリヰヲリ)といい、緑野の川上に隠れ、山川の険しさを生かして人をさらう。
神夏磯媛が「賊」と呼ぶ4種族のうち、鼻垂は「菟狹川上」に屯していました。
「菟狹川」とは宇佐神宮元宮のある御許山を源流とする現 寄藻川でしょうか。
寄藻川の上流に「上矢部」「下矢部」の地名があります。が、
前々から「八女」の名が引っ掛かっていたので、
同じく『日本書紀』巻第七の景行紀より引用してみます。
丁酉、到八女縣。則越藤山、以南望粟岬、詔之曰
「其山峯岫重疊、且美麗之甚。若神有其山乎。」
時水沼縣主猨大海奏言
「有女神、名曰八女津媛、常居山中。」
故八女国之名、由此而起也。
天皇、南の粟岬を望みて曰く
「その山は畳み重ねられたような峯岫が美麗この上ない。もしや神がその山に在すか?」
水沼縣主猿大海(ミヌマノアガタヌシサルオホミ)奏上す。
「女神が在します。名を八女津媛(ヤメツヒメ)と申し、常に山中に居ります」
ゆえに八女の国名はこの女神の名を由来とする。
「ヤベ」→「ヤメ」の転訛かと思っていたら、
「矢部」が文献にあらわれたのは1300年以降との説も!?
言うのですが、"B"と"M"は口唇音なので、古代から混同が見られたはず…。
なお、「ヒメ」と「ヤベ」に関しては、Wikipediaにこうあります。
古代においてヒメとヒミは通用していたと思われる。
それらの語源は「日女(ひみ→ひめ)」である。
日女は、地神(土着)系の女性(メやベ)と区別される、天孫・天神系の女性を意味した。
土着系の「メやべ」というのは「トベ」の意味にも近いようですが?
景行紀に登場する神夏磯媛や速津媛や八女津媛が天孫系の女性とは
考えられません。名は「ヒメ」でも情況からしてむしろ土着系でしょう。
もしかすると彼女らが本来の名を隠し、自ら天皇に「…ヒメ」と名乗ったとか?
或いは帰順が認められて「…ヒメ」と記載されたとか?
まだまだ調査が必要ですね。
さて、即位12年に九州へ入った景行天皇は、即位18年に
八女へ至るまで九州各地の土蜘蛛を誅殺してゆきます。
前述の賊=鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折を
皇軍の武諸木(タケモロキ)らが誘き出して殺したのち、
そこを京(みやこ=福岡県京都)と名づけました。
冬十月、到碩田國。其地形廣大亦麗、因名碩田也。碩田、此云於保岐陀。
到速見邑、有女人、曰速津媛、爲一處之長。其聞天皇車駕而自奉迎之諮言
「茲山有大石窟、曰鼠石窟、有二土蜘蛛、住其石窟。一曰靑、二曰白。
又於直入縣禰疑野、有三土蜘蛛、一曰打猨、二曰八田、三曰國摩侶。
是五人、並其爲人强力、亦衆類多之、皆曰『不從皇命。』若强喚者、興兵距焉。」
冬10月、碩田国(おほきたのくに)に着き、その地形が広くて大きく美しいことから
碩田(於保岐陀=大分の古名)と名づけた。速見邑に女あり。速津媛(ハヤツヒメ)という。
その地の長で、天皇がお出ましになると聞くと自ら出迎えて、
「この山に鼠の石窟という大きな石窟があり、二人の土蜘蛛が住んでいます。
一人を青といい、もう一人を白といいます。また直入縣(大分県直入)の
禰疑野(ねぎの)に三人の土蜘蛛=打猿(ウチサル)、八田(ヤタ)、国摩侶(クニマロ)がいます。
この五人はそれぞれ強力で仲間が多く、 皆『皇命に従わず』と言い、
もし従うよう強いられたら、兵を興して戦うそうです」 と申し上げた。
しかし天皇は進まず、来田見邑(くたみむら)に仮宮を建てて留まりました。
宮處野(みやこの)神社駐車場横に「景行宮跡」の石碑があります。
その仮宮で群臣と謀り、土蜘蛛を討つことを決めた景行天皇は
鼠の石窟に住む土蜘蛛を襲い、稲葉の川上で仲間を悉く殺しました。
血が流れてくるぶしまで浸かったので、そこを血田と名づけました。
次に打猿・八田・国摩侶を討つため禰疑山(ねぎのやま)を越えました。
現 禰疑野神社の由緒書に「付近に鬼巌屋、土蜘蛛塚、血田等、
景行天皇の親征の遺跡多し。」とあります。
その高屋宮で熊襲を討つことを決め、襲国(そのくに)を悉く平定。
4月に熊縣(くまのあがた)、5月に火国八代縣(やつしろのあがた)、
6月3日には高来縣(たかくのあがた)から玉杵名邑(たまきなのむら)へ行き、
その地の土蜘蛛たる津頰(ツツラ)を殺しました。
(やはりヤマト王権についた首長はヒコ・ヒメと表記されているようですね…)
さらに7月4日、筑後国御木(みけ=福岡県三池)の高田行宮に到着。
7日に八女へ行っています(上記引用済み)。
名づけたとあるため、"無血開城"だったのでしょうか?
いえ、八女津媛は「常居山中」と書かれただけで
景行天皇とは会っていないでしょう。
筑紫国巡幸においては様子見のみの場所もあったようです。
天皇親征では"まつろわぬ民"は誅殺され、
帰順した国には天皇の子を生んだ「ヒメ」も居ました。
そうした「ヒメ」が本来どんな名前だったのか気になりますが、
勝者の正史には記載されていません。
ただ、地元の伝承の中に興味深い話がありました。
皇軍が九州に上陸して初めて会った首長は神夏磯媛でした。
しかしその後裔にあたる兄妹は朝廷に背き、神功皇后に誅殺されます。
3月25日と『日本書紀』巻第九に記録されています。
丙申、轉至山門縣、則誅土蜘蛛田油津媛。
時、田油津媛之兄夏羽、興軍而迎來、然聞其妹被誅而逃之。
25日、山門縣(やまとのあがた)へ行き、土蜘蛛田油津媛(タブラツヒメ)を誅殺。
田油津媛の兄 夏羽(ナツバ)が兵を構えて迎えたものの、妹が殺されたと聞いて逃げた。
何と、この山門縣にも「矢部」「下矢部」の地名がありました。
やはり土着系の女首長と「ヤベ・ヤメ」は無関係じゃないのでは?
ただ、いかなる理由か山門縣で殺された田油津媛の墓が
この蜘蛛塚ですが、地元では、神功皇后に殺された田油津姫の墓よりも
景行天皇に殺された土蜘蛛の首長葛築目(クヅチメ)の墓の方が優勢です。
葛築目は田油津姫の先代とも別名とも言われますが、
『日本書紀』の景行紀に葛築目の名はありません。
けれど「葛(クヅ)」は国栖・九頭に通じるため先住民っぽい名前です。
「昔は雨が降るとこの古墳から血が流れると言われていたが、
これは石棺内の朱が流れていたのであろう。」
と、丹生産出に関わる先住民であった可能性を示唆しています。
もちろん、朝廷が筑紫諸国を平定した目的の一つは資源でしょう。
青銅の神たる伊福部氏は火吹く部でもありました。
ただし「耶馬渓」の地名が誕生したのは文政元年(1818)で、
「耶馬渓天下無」と詠んだのが始まりだそうで、その漢字はともかく
「ヤマ・ヤバ」の発音の揺れは古代からあったのではないでしょうか?
息子の日本武尊を各地に派遣しました。
その功績を伝えるために「武部(たけるべ)」を定めています。
60年11月7日に高穴穂宮で崩御されたとか。