藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

丹波の出雲

亀岡の出雲大神宮へは二度ほど行きました。
その折、現在で言う島根県の「出雲大社」は明治以前は「杵築大社」であったこと、
丹波国風土記』に「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、
大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり」
と書かれており、出雲大神宮が「元出雲」とされていることを知りました。
昨日はその亀岡に初めて泊まり、これから出雲神社ほかをまわります。
 
亀岡駅から亀岡市本梅町井手西山の出雲神社へ向かう途中に薭田野神社
隣接する亀岡市田野町佐伯大日堂には平成21年に稗田阿禮社が創祀されています。
天武天皇に舎人として仕え、その記憶力を見込まれて『帝紀』『旧辞』等の誦習を
命ぜられたという稗田阿礼は、丹波国佐伯郷原野で生まれ育ったとされ、元明天皇
御代には詔により太安万侶が阿礼の暗誦を筆録して『古事記』を編んだとされます。
 
薄くて可憐な桜の花が咲いていました!
薭田野神社は、約3,000年前にこの地に住み着いた人々が原生林を切り拓き、
田畑を造り、収穫物を供え、野山の神に作物の豊作を祈っていた場所を
佐伯郷の産土神とすべく、709年に創建したと伝わります。
せっかく桜を見て幸せな気持ちになっていたのに、運転手さんから
稗田野神社はガン封じのご利益で有名なんですよ」と言われ、ゲンナリ…。
「まさかそんな謳い文句にひかれて来る人など居ないでしょ?」
「いえ、それが結構いらっしゃるんですよ。境内にあるガン封じの樫の木の
コブをなでると、癌を封じてくれるご利益があると書かれています」
開いた口が塞がらないとはこのことです。
「では、平成21年創祀の稗田阿禮社だけ見て帰ります」と言って
社地の外から見ましたが、ずいぶん小さな祠でした。
しかも案内板に「稗田阿礼(ひえだのあれいしゃ)」と書かれていて即死!?
生まれてこの方、一度も目にしたことが無い読み方でした。
「アレイ」なんて「カレイ」みたいな名前をつけるようでは
古事記の編纂に携わった稗田阿礼丹波国佐伯村で生まれた」との
伝承もやすやすと信じるわけにはいかないでしょう。
稗田阿礼生誕地」については、当社のほか、岐阜県高山市清見町楢谷、
兵庫県揖保郡太子町の稗田神社奈良県大和郡山市稗田町の賣太神社などが
名乗りをあげているそうです。
しかも、天武天皇の舎人(男性!!)とされてきた阿礼に、
「アレ」は巫女(女性!!)の呼称なのでシャーマンだという説まで出ている始末…。
 
さ、今日のテーマ「出雲」に入りましょう。
井手西山の出雲神社出雲大神宮と同じく磐座信仰で、約2,000年前に住み着いた人々が
大岩に神を祀り、そばに「出雲大明神」と称する祠を作ったのが嚆矢だとか。
えええ~~~!?  何ですか、この大きさは!!
鳥居の左手にあった巨大な磐座に度肝を抜かれました。
社殿から振り返ると↓こんな感じ。
由緒書もありました。
久々に古代の雰囲気を味わえました。社殿のまわりに散在する大石小石は
いわば目印として置かれた墓石のように見えました。
 
当社の北北西6.5kmの南丹市園部町埴生(はぶ)倉谷にも出雲神社があります。
途中、月讀命を祀る籔田(志田樋)神社と、吉野絡みの勝手神社を通ります。
いずれも平地の集落の道路沿いにありました。↑勝手神社
こちらは↓籔田神社
意味があるかどうかわかりませんが、一応載せておきます。
 
当社から数分で埴生村の「出雲大明神」と呼ばれた出雲神社があるはずなのですが?
うっかり通り過ぎてしまったようで、バックしたら見つかりました。
小さな川に架けられた橋を渡ろうとした時、巨大な青鷺が飛び立ったので驚きました。
倉谷の出雲神社というのは、祭神が大国主だけに
住所の「くらだに」から「根の国底の国」を妄想してしまいます!?
この社頭から登っていったわけですが、平坦になってから更に奥がありました。
まっすぐ進んでゆくと、何と下に社殿があったのです!?
まさしく倉谷=暗い谷と言いたくなるような地形でした。
せっかく来たので演奏修行させて頂き、右手を見ると、一段下に
かつては建物が並んでいたかもしれない台地が広がっていました。
画像左手に坂があったので下り、大きく迂回して社頭まで戻ることに。
一段下からは本殿まではっきり撮れました。
2つの出雲神社、いずれもなかなかのものでしたね…。
 
ここから北北西に進むと、南丹市園部町竹井宮ノ谷に摩氣神社があります。
水戸黄門」「鬼平犯科帳」などのロケ地として使われたそうです。
かつての名神大社とのことで、重厚な茅葺き屋根です。
八脚門の神門も以前は茅葺きだったそうで、社殿の後方で茅が栽培されていました。
主祭神は大御饌津彦命(天児屋根命の子・天押雲根命の別称)だそうです。
社地に足を踏み入れた時、焦げ茶色の巨大なトンビがやってきました。
社叢の高木にとまったのに、調弦を始めたら頭上をグルグル旋回し始めました。
珍しいことではありませんが、青鷺に続けての出現だったので書いておきます。
非常に趣のある社殿ながら、そろそろ葺き替え時期かも知れませんね。
屋根に草が生えていました。
この摩氣神社の御旅所(境外社・八幡神社)が北北東2.2kmの園部町仁江にありました。
「にえ」の地名は「丹生(にう)」または「贄(にえ)」の暗示かもしれません。
神武天皇東征の折、吉野で出会った大和国国津神は「贄持之子(にえもつのこ)
「井氷鹿(ゐひか)」「石押分之子(いはおしわくのこ)」と記紀に記されていますので。
園部川沿いという立地も「贄持之子」を想像させますね。
ここへの途中、やはり園部川沿いに蛭子神社がありました。
住所の南丹市園部町仁江(にえ)殿垣内(とのがいち)は「垣内」即ち「神内(神域?)」に
「殿」がついているので、敬称すべき人物が住んでいたのかも…と妄想しました。
この社頭に仁江分教場があったようです。「進功小學校趾」の碑が建っていました。
 
園部町仁江の摩氣神社御旅所を過ぎると、ほどなく園部町黒田・船阪の黒田古墳です。
実はこの黒田古墳の記事を読んだのが、今回の旅のきっかけでした。
黒田古墳から出土した庄内式と呼ばれる段階の二重口縁壺を調べたところ、
箸墓古墳より古い築造年代を示していて、弥生時代末期の3世紀前半と
推測されたことで、古墳出現期の墳墓として注目を浴びていました。
墳丘は全長約52mの前方後円形を呈していて、下半分は地山を削り出して
形成し、上半分は盛り土を用いていることが分かっているそうです。
埋葬施設は後円部に2基、コウヤマキ製のくり抜き式舟形木棺で全長3m分が残存。
 
特に注目されている副葬品が、割られてから納められた銅鏡1面で、
双頭竜文鏡と呼ばれる 2世紀中頃の中国後漢で製作されたものだとか。
「君宜官 位至三公」という銘文が鋳出されています。
すると、大和→丹波ではなく、大和と丹波にはほぼ同時期に巨大な
前方後円墳を築造できるほどの首長が居たということになるでしょうか。
すでにその時代から吉野の水銀技術者たちは鉱脈を求めて
大和から全国各地へ散っていたということですか?
実際にはこんな画像しか撮れませんでした。
 
ここから更に北東へ進み、園部町瓜生野湯屋ノ谷の日向神社へ。
参道の長い石段を上る気力が無く、細い山道をタクシーで上って撮影しました。
 
近くに都々古和気神社があったため更に北上したかったのですが、
残り時間を考えて亀岡に向かって南下することにしました。
こちらは、園部駅と山で隔てられた園部町美園町の生身(いきみ)天満宮
天満宮ですから言わずと知れた菅原道真公を祀っているわけですが、
「生き身」という表現が不気味ですよね…。
これまでも菅原道真公ゆかりの場所へは行くよう心がけてましたが。
生身天満宮の由緒はあとで書くかもしれません。
 
ここから、千代川駅近くの 2つの月讀社へ行ってみます。
以前は何も無い場所だったと運転手さんは仰いますが、今はビッシリと住宅が建ち、
幹線道路からは全く見えなくなってしまった亀岡市千代川町小川の月讀神社です。
もう1社は田んぼの真ん中にあるとのこと。
「あのこんもりですよ」…え!?
これが…名神大社? 周囲に何もないし…。
大洪水を繰り返していたわけですね…。ならば、この立地に納得です。
でも、このままでは尻切れトンボで帰るに帰れません。
素通りした神社が多く、小一時間ほど余っていました。
「どこかへ行くとしたら?」
運転手さんと同時に発した言葉が「元愛宕」!
出雲大神宮の近くなのに、これまで電車の時間の都合で立ち寄れませんでした。
↑この文章は、ちょっと定説と違うようですね…。
地図上では東北東に位置する白雲山(現 牛松山?)を神籬として奉斎された当社は
継体天皇元年創建と伝わりますから平安京は影も形もありません。
式内社阿多古神社に比定された当社の分霊は、京都の鷹峯(鷹ケ峰)に祀られた後、
和気清麿(733-799)が794年前後に愛宕山山頂の朝日峰へ遷したとされ、
料亭のみならず京都市民から火伏せの神として崇敬されています。
京都の愛宕山に登る根性を持ち合わせていない私は「元愛宕」に来られてラッキーでした。
禊場もあって本格的な感じ!?
やはり古代の雰囲気が漂う場所は落ち着きますね…。
ちゃっかりと演奏修行もできて大満足でした!
 
最後は亀岡駅近くの京都サンガスタジアム前のスターバックス
期間限定のモンブランを買って特急に乗りました。