藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

足一騰宮(あしひとつあがりのみや)旧跡

全国梅干コンクールの審査会が終わり、今日は凄いルートで帰宅します。
まずは日田から「ゆふいんの森」号に乗り、同じく豊後国由布院へ。
(博多からの「ゆふいんの森」の切符はとれなかったものの、日田からの空席を予約できました。
ところが! いつもタクシー予約を済ませておく私が車内から電話すると既に各社とも予約で一杯!
しかしここで諦める訳にはいきません。安心院のタクシー会社に電話し、迎車して貰えることに!!)
 
日田市日高に久津(ヒサツ・クヅ)媛、五馬市(いつまいち)に五馬媛(イツマヒメ)
そして由布市湯布院町に宇奈岐日女(ウナギヒメ)が居たのかと思ったら、
宇奈岐日女神社は六神(国之常立神国狭槌尊、火折尊、鸕鶿草葺不合尊、神倭磐余彦命、神渟名川耳命)
祭神としており、別名の「六所宮」の方が通りがいいのだそうです。
景行天皇12年創建は、景行天皇の実在を証明できない限りあり得ません。
さらに社名にも疑問があって、延喜式内社(小社)のウナキヒメノ神社のはずが
勾玉などをあらわす「ウナグ」を身に着けた巫女との説が主流となっています。
他方「ウナギ」説もあって、古代、由布院盆地は湖であり、甲府,阿蘇,日田と同じく
湖の端を蹴破った結果、水が抜けて盆地になったとの伝説があります。
 
ただし、由布院盆地が湖でなかったことは既に証明されており、
湯布院町佐土原地区で地下20~30mから2万3千年前の木片が発見されたこと
由布院小学校駐輪場付近から弥生時代の土器が発見されたこと
などが根拠として挙げられています。
もう一点、補足させて頂くと、当社から南に直線で約27kmの地点に
宇奈岐比古・宇奈岐比女を祭神とする俵積神社(豊後大野市朝地町綿田)があります。
そこは盆地ではなく、山奥なので、祭神を「ウナギ」と付会させられるかどうか?
(神社とは無関係ながら、↓白いお馬さんが悲しげに見えました…)
この宇奈岐日女神社から南西1km未満の湯布院町川南に大杵(おほご)があります。
式内社ではありませんが、むしろ古代の雰囲気が漂っていると評判です。
弥生時代後期頃まで遡るとされる当社の創建は根拠なし。
それよりも鳥居の扁額や案内板の手書きの文字が「禾午」なのに、
活字に「禾午」の字が無いため「杵」と表記されてしまうことに違和感あり。
「樹齢1000年の大杉」が国の天然記念物というのも驚きです。
大和の玉置山には樹齢2000年以上の夫婦杉、3000年以上の神代杉などありますが?
社殿は小さくとも古代の雰囲気を感じる空間でした。
気になったのは当社が由布岳を遥拝していなかった点です。
↑こちらは北、由布岳はこの右手(北東)になります。
湯布院から一気に北上し、目指すは宇佐市安心院町福貴野の福貴野の滝
そろそろ由布岳ともお別れのようです。
この辺りまでが由布市福貴野の滝宇佐市安心院町になります。
高さ65mの福貴野の滝は「雄滝」と「雌滝」からなるそうです。
が、私の興味はあくまでも「福貴野」の地名。
いずれ耶馬渓に何泊かして鉱山巡りをしたいと思っていて、
「イ+吹く+部」の本拠地の一つであったと証明できればと…。
そんな私は展望台へゆくべきではありませんでした。
高低差があって、遠かったのです。あの赤い実のところまで下りたら案内板が!?
もう引き返したかったのに、75歳の運転手さんがわざわざ同行して下さっていたので…。
この池の先は、どんどん下るので、「すみません、下るということは
帰りがずっと上りになるので、そろそろ帰りたいのですが…」
…………(無視!?)
結構な急勾配じゃありませんか?!
はあぁ……(土曜日だというのに、すれ違ったのは一人だけ…)
気を取り直して北上してゆきますと、物凄い岩盤の露出が!?
慌てて地図を開くと「仙の岩(観光名所)」と書かれていました。
私はこの山の北面、山頂付近にある(かい)神社をチェックしていました。
山頂に、なぜ、海神社が?
現在は、町指定史跡「龍王(神楽岳城臥牛城)址」として知られ、
冬期には鳥居の形にライトアップされるのだそうです。
それで、そこここに電飾用の仕掛けが見えてるんですね。
いざ本殿へ。
ずいぶん立派な門と拝殿ですね。
崖に寄り添うような狭い立地なのに、幣殿と本殿もありました。
石段を下りようとしたら右手に登り口のようなものが見えました。
山頂(龍王城址)への道かもしれません。が、私はここまでで下りました。
少し離れた場所から、真ん中奥の龍王城址のある神楽岳(?宇佐市安心院龍王)
画像左端の共鑰山(ともがきやま/宇佐市安心院町妻垣)を撮ってみました。
2つの山は、深見ダム~福貴野の滝から北へ流れる深見川に隔てられています。
 
(しかし、復元された岩をわざわざ見に行く気には…)
当社が宇佐神宮と関係が深いことはすぐ解かりました。
鳥居の扁額が「妻垣神社」ではなく「八幡宮」だったのです。
創建時から支配下にあったということでしょうか?
鳥居をくぐって直進すると、右手の境内に小さなトラックが数台入り、
御神輿を積んでいました。既に御神輿の担ぎ手がいないのでしょうか?
とても中へは入れませんので、後ろを振り返ると共鑰山への登山道が!?
足一騰宮まで340m」とあったので、もちろん登りませんでした。
このあたりでどうかな? とウロウロしていたら黒木間蝶(クロコノマチョウ)がいました。
この画像に写っていますが、保護色というか、オスは黒褐色、メスは赤褐色なので
枯葉のように見えます。高く飛ばず、地面にとまるのが特徴だそうです。
 
こちらには「安心院」の地名の由来まで書かれていましたが?
経験上、漢字の意味から入るのは近代以降の解釈で、古代は発音優先と考えています。
共鑰山は遥拝のみさせて頂きました。実はもう一つの「足一騰宮」へ行くため。
 
途中、安心院の古社として名高い三女(さんめ)神社へも立ち寄りましたが、
やはり秋祭りの準備に追われているようでした。
「ワシはここへジンカンさんを何回も送ってきたからよう知っとる」と
75歳の運転手さんに言われ、ジンカンさんとは中国人の名前かと悩んでいて
ふと「神官さんですか?」と尋ねてみました!? やれやれ…。
それにしても、軽トラに御神輿を積んで走るのがお祭りとは。
 
ここ宇佐市安心院町下毛の三女神社から北上し、
宇佐市上拝田の「足一騰宮」へ。
運転手さんにお願いして非常に狭い道を走ってもらいました。
➂の「花立池」を目指してきましたが、この池は古代にはありません。
↓ 江戸時代に造られたらしい。
「和尚山」を「かしょうざん」と呼ぶことにも驚きました。
いつ造られたのかわからない「足一騰宮𦾔跡」の石碑と石祠。
左手には「神武天皇遥拝所」の石碑。神武天皇って実在してましたっけ?
日本書紀』の神話に
神武天皇筑紫国の菟狭(うさ)に至り、菟狭津彦(うさつひこ)・菟狭津媛(うさつひめ)
菟狭の川上に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を造り饗(みあへ)奉ったとあります。
菟狭川は現在の駅館川とされています。
足一騰宮一柱騰宮の候補地は、上記2ヶ所のほか、宇佐神宮にもあるそうです。
2015年前後に宇佐神宮境内に「一柱騰宮」の石碑と案内板が建てられたとか。
 
ともかく神話を歴史的に証明できるはずなどないため、
その位置と地形、景色を楽しむためにまわってみました。
人工池とはいえ、350年以上も経つと周囲ともなじんでいるようです。
宇佐神宮から南西に5km、静かな場所で落ち着いて演奏修行できました。
 
ここからだと最寄駅は柳ヶ浦となります。
駅への途中、立ち寄った地産地消のお店に見たことが無いほど大きい鯛がありました。
この大きさで、驚きの1,500円!! 右端の鯛で1,300円でした。
さすがに生ものを持って帰るのは泣く泣く諦めました。
26日に乗らせて頂いたバイクは私のために確保して下さるとのことで、
すぐにも再訪させて頂きたく思っています。雪の季節になる前に!!
今回は皆々様に本当にお世話になり、勉強させて頂いた上、
美味しいものをたくさん頂戴して、最高に幸せでした。
心よりの感謝を込めて「ありがとうございました」。