藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

つばき・こも

このキーワードがピンとくる方は、かなり古代に通じておられるはず。
私はまだチンプンカンプンながら、この度ようやく十年来気に掛かっていた
椿大神社(つばきおほかみやしろ)へ足を運ぶことができました。
しかし、最初に見た写真とは全く異質の、近代的な神社だったので驚きました。
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当社へ至るまでに、先ずは海岸線に近い鈴鹿市一ノ宮町の都波岐神社へ行きました。
明治時代に都波岐神社奈加等神社を合併し、都波岐奈加等神社とも称ばれるとか。
伊勢国一宮を称していますが、「一宮」は官位ではなく、根拠もないため問題にしません。
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それにしても、名古屋が雪だったのが嘘のような晴天です。
当然ながら私は現代の建造物には興味がありません。
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自然の中で演奏する愉しさは何物にも代えられません。
ただし、当社がなぜ「つばき」と名乗っているのか、椿大神社とどんな関係があるのか、
全くわかりませんでした。
天長年間(824-834)空海(774-835)が参籠し、獅子頭2つを奉納したと伝わるのは、
三輪山の麓にあった我が国最古の市「海柘榴市(つばいち)」との関連かもしれません。
男女が集って歌垣を催したことでも知られる「海柘榴市」は
万葉集』に「海石榴市の八十(やそ)の衢(ちまた)」とあるように
大和を南北に走る幹線道路と、初瀬(はせ)川に近い古代の水陸交通の衢(四方に通じる道)でした。
そして衢の神と言えば、天孫降臨のとき道先案内をつとめた猿田彦
現に、都波岐神社椿大神社の祭神は猿田彦大神です。
なお、椿大神社の社宝に吉備真備の奉納と伝わる獅子頭があるそうです。
空海吉備真備が奉納した獅子頭とは…、この2社は何かと張り合ってる感じがしますね。
 
椿大神社へ向かう途中、阿自賀神社という思わせぶりな社名があったので立ち寄りました。
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おおお…かわいい黒猫ちゃんが鎮座してます。でも、私は逆方向へ。
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阿自賀神社は、鈴鹿市安塚町にもあって、そちらは延喜式内社を名乗っているものの、
江戸時代は賀神社、明治維新後は神明社明治42年阿自賀神社と改称されています。
当社を訪れたのは社名云々ではなく、須賀という住所への興味からです。
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ここ須賀の地は康暦元年(1379)足利義満によって東大寺八幡宮に寄進されたため
八幡宮を勧請し、八幡宮と称したとの説があります。
そして、それ以前の祭祀は、須賀と蘇我が無関係でなければ、
(にゑ)を薦で巻いた「薦枕」を祖神に奉斎していた可能性が疑われます。
そうなると、安塚町の延喜式内社たる阿自賀神社が明治になるまで賀神社と
称していたことも納得できるのですが…。
《薦枕》の神楽歌では「薦枕」と「」がセットなので。
 
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結局、都波岐神社阿自賀神社も詳細はわかりませんでしたが、
阿自賀神社には見事なまでの椿の巨木があり大満足でした。
 
いよいよ椿大神社が近づいてきました。
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勝手に鄙びた古社をイメージしていた私の期待は打ち砕かれました。
何と駐車場が「第10」まであったのです。
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駐車場からの道に屋台が並ぶ観光地でした。
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奥の宮まで行けば印象が違うのでしょうか?
何となく「海石榴市」のあった三輪山の信仰に倣っているのかも? と感じました。
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この記述と「御舟石坐」とやらは、これまでに見た舟型の磐境とはかけ離れていました。
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そして、こちらもまた受け容れ難いものでした。
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人の感性は千差万別…さまざまな発想があることに驚かされました。
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古代祭祀の雰囲気を感じたいなら、やはり登山しかないのか…と諦めて次へ向かいます。
 
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延喜式内社足見田神社とありますが、『延喜式神名帳伊勢国三重郡にある
「彌牟居神社」に比定される式内社(小社)の論社だというだけだそうです。
「一宮論争」と同じく「延喜式内社論争」にはついてゆけませんね。
 
当社の由緒に「古来、水沢(すいさは)地区周辺は葦見田郷」とあったので
大国主の別名「葦原醜男(あしはらのしこを)」を想起しましたが、当地が古代に
栄えた重要な拠点の一つだった可能性は低くなさそうです。
 
ここ四日市市水沢のアシミ田神社近くに、オシミ田の説話があります。
『勢陽五鈴遺響』(1883)にある「足見田ノ神域ノ東二オシミ田とイフ地アリ。
往昔神田ナリ。後世ニ至り、民俗ノ買得テ転耕スルニ至り。
其ノ佃(タツク)ル者カナラズ啞児ヲ産メリ」が、水銀汚染の暗示とも?
伊勢国といえば伊勢白粉。
多気郡の丹生大師付近や三重郡葦見田郷水沢で産出された水銀は
射和(松阪市)で白粉の原料となったそうです。
白粉は朱砂と粘土と塩(にがり)を鉄壺に入れ、加熱して蒸気を昇華し
上蓋に付着した白粉を採取して作りますが、その蒸気を長期にわたって
吸入すると幻覚に襲われたり、咽喉の粘膜が侵されたりして物云いが不自由に
なることがあるとか。丹生鉱山の採掘や伊勢白粉の製造に関わる人々の中から
水銀中毒者が多く出たことが、オシミ田の啞児の説話を生んだとされています。
また、水沢を居住地とした葦田首(あしだのおびと)天目一箇神(あめのまひとつのかみ)
祖先神とする氏族で、この神が炉の火を長時間見るタタラ関係者に失明する者が
多いことを暗示することからも、葦見田郷と金属精錬労働者のつながりが窺えます。
 
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社殿に向かって左手にも鳥居が見えます。こちらから上がってみましょう。
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蜘蛛窟でしょうか?
さらに上ると慰霊碑があって、強烈な木漏れ日が…!!
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ここは天然の要塞ともいえる地形に仕上げられています。
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ここを登ってくるのは困難ですし、社殿へ直進できるよう切通しが作られていました。
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下には茶畑が見えています。
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この道は、馬場(うまば)や馬止(まどめ)としても利用されていたのでは?
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帰りは切通しを歩いて社殿まで行きました。
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ゲゲッ、「正一位」ですって?! 延喜式内社も大国主も関係ありませんよね。
いくら地名を背負った社名でも、稲荷社になっていたのですから。
残念ながら今の日本にはこういうガッカリが多いことも事実です。
 
また足見田神社は、旧記に第11代垂仁天皇26年の鎮座とあるほか、
大正時代の『神社明細帳』に第21代雄略天皇21年の鎮座とも記されており、
垂仁天皇26年皇大神宮(内宮)の、雄略天皇21年豊受大神宮(外宮)の鎮座年代であることから
古くより伊勢の神宮との関わりが指摘されているそうですが?
 
ここから更に北上して福王山を目指しますが、天気予報は雪。
道路が凍結していたら駐車場まで辿り着けないそうです。
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菰野(こもの)町に入ったので、朝明川を渡っているのではないかと思います。
『和名抄』伊勢国の項に「朝明郡」があり、鈴鹿山脈釈迦ヶ岳に源を発して
伊勢湾へ注ぐことから名付けられたのでしょう。
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三重郡菰野町田口の福王神社入口までやってきました。
奇蹟的に、雪が止んでいて、道路も凍結していません。
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駐車場からの眺望も素晴らしく、今日一番の高揚感がありました。
しかし!! 現実はそんなに甘くない!!
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え~~~?! ここを登るんですか~?f:id:YumiAIKAWA:20220207171316j:plain
いったい何を祀っているのでしょうか? やっぱり、山ですかね。
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毘沙門天王」とありますが、福王山の毘沙門堂は慶長年間(1596-1614)
桑名の町割りの際、桑名京町の北側 職人町にあったものを移したそうで、
古来の祭祀ではありません。それを、聖徳太子の命により福王山に毘沙門天
安置し、国の鎮護と伊勢神宮の守りとしたとする"社伝"とは何なのでしょう?
 
福王神社の祭祀について、
かつて東麓の田口集落の南にあった延喜式内社穂積神社を大正時代に合祀したことで
物部系の穂積氏の祖神たるニギハヤヒが祭神の一つになったことはわかりました。
しかし我が国においてはなぜか往古の祭祀について知ることが難しいんですよね…。
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さっぱり訳が分からないし、社殿の高さまで登ることは諦めて
何となく円形になっている空間で演奏修行しました。寒かったです。
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上り用と下り用に岐れていた石段が合流してから撮りました。
滑り落ちないよう、ゆっくり下ってゆくと、視界が!?
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さっき、登る前に撮影しておいてよかった。
この先、ずうっと雪の中を多度方面へ走りました。
朝の天気予報では、今日一日こういう感じなんだろうと覚悟していましたが、
来た時に青空が見えたのはほんとうに奇蹟のようなものでしたね…。
 
多度山南麓の多度大社へは以前行きましたが、ちょっと違和感がありまして、
今回、多度山東麓の「宇賀神社2号墳」の字が目に留まったので足を延ばすことに。
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地図を見ると、このなだらかな坂に見える台地が「宇賀神社2号墳」のようです。
すると、向かって左手が宇賀神社ということになります。
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正面の鳥居側には駐車スペースがないため、横から失礼します。
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拝殿の横から本殿へ向かいますが、まだ雪が降っています。
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古墳を守るように本殿が建てられたのでしょうか?
↓こちらは国宝「仁科神明宮」。
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多度東宮とも称ばれる宇賀神社の本殿も神明造のように見えますが?
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由緒はわからないものの、延喜式内社とされる多度の五社(多度,小山,尾津,野志里,宇賀)
いうことで、演奏修行させていただきました。
こののちは再び晴れて、予定通りの電車で名古屋へ行き、
新幹線が米原付近の大雪で遅れていたため、予定より4本早いのぞみで帰宅しました。
 
伊勢から関ケ原までは壬申の乱を考える上でも重要なので再訪したいものです。
今日も一日ありがとうございました!