藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

波伯吉 波々伎 伯耆

698年の木簡に「波伯吉國」とあった伯耆(はうき)へ来ています。
現代かなづかいで生きてきた私は、戦前に書かれた歌詞をうたう際、
全てその歌が書かれた時代の正かなに書き換えることから始めます。
現代かなづかいによって
(こひ)も故意(こい)も「こい」となり、
放棄(はうき)・法規(ほうき)・箒(ははき)が「ほうき」
と書かれるようになったことで、日本語に異名同音が増えました。
 
私自身の語源意識が希薄なのは
現代かなづかいで育ったためではないかと反省することしきり…。
 
波伯吉(ハハキ)への興味は
上溝桜(ウハミズザクラ)=金剛桜が『古事記』に「波波迦(ハハカ)
書かれていたことに端を発しています。
(シキ・シカ・シコの語尾変化にも注目してきたため)
ハハキ」とは何ぞや? ということで、波伯吉國の波波伎神社へ。
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当社の社叢は昭和9年に国の天然記念物に指定されています。
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しかも福庭古墳・波々伎神社古墳群を擁する照葉樹林の極盛相?!
私の大好きな極相林ではありませんか!!
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ヤブツバキでしょうか?
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社殿のある高さまでには幾層かの平地がありました。
広大な境内地ですね…。
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左の道を上がってみます。
椿の花がたくさん落ちているので見上げると↓
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ほんとに素晴らしい社叢ですね~。
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スダジイの巨木です!
こういう場所を歩いているだけで幸せなので、社殿には興味がないのです。
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想像以上に大きな社殿でした。周囲も広々してますし。
下りる際は別の道を歩いて極相林を堪能しました。
波波迦の木があったかどうかは…わかりません。
とくにこれといった成果がないのが私の旅です。
 
近くに国府跡などあるようなので、一応タクシーでまわってもらいます。
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ずいぶん広いですね~。
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ここが伯耆国府・国庁跡でした。
 
すぐ近くに国庁裏神社
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社頭からは想像できないほど、奥まで社叢が広がっていました。
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707年にはヤマト王権支配下にあったということですね。
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いや、しかし、これは悪い冗談としか思えませんよね?
先を急ぎましょう。
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道路際に突然、鳥居が出現しました。
扁額に風宮神社とあります。
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これは…もしかすると古社かも知れませんよ。
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円形台地に社殿が建っています。
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社殿から登って来た階段の方を振り返るとこんな感じ↑
真ん中で演奏修行したいところですが、
晴天の瀬戸内海から中国山地を越えて日本海側へ来たら雨だったので
社殿に上がらせて貰いました。
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奥行きが狭いので、お尻が半分落ちてますが、いつものことなので…。
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境内には明治の一村一社の合祀令によるものか
幾つもの祠がありました。↑菊水らしき文様が気になりますが?
 
さらに先を目指します。
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しかし、一ノ鳥居から社殿までが遠く、約8分かかりました。
というのも道が極端に狭く、タクシーが身動きできなくなったため!?
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やっと伯耆三ノ宮倭文(しどり)神社に辿り着きました。
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伯耆一ノ宮国幣小社倭文神社へはまだ行っていませんが、
両社とも機織りに携わった氏族倭文氏が祖神の建葉槌命を祀ったのが
起源とされているようです。
しかし、なぜか、両社とも互いの関係には触れていません。
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落ち葉の絨毯がきれいです。
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社殿の裏のタブノキもみごとでした!
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やはり神社は社叢ですね…。
 
次は倉吉市鴨河内の上小鴨神社です。
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当社の社叢も保存林に指定されていました。
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私が気になったのは社殿奥の「JAEA 人形峠」↓
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モニタリングポストというほどの大きさはないと思うのですが?
ここから南東に直線で16kmの距離にあります。
 
        1955年11月、通産省工業技術院地質調査所により
              人形峠にて我が国で初めてウランの露頭鉱床を発見。
        1956年 8月、原子燃料公社設立。
           10月、倉吉出張所開設、人形峠周辺でウラン探鉱開始。
        1957年 8月、人形峠出張所を開設。
 
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神社の社叢には場違いとしか言いようがありませんね…。
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ぐるりと一周して、上小鴨神社から小鴨神社へ。
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ここで初めて「おがも」と発音することや、小鴨氏の存在を知りました。
でも「境内の沿革史碑」とやらは見つけられませんでした。
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ここは社地の一番奥ですが、かなり広いので見落としたと思われます。
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社殿も立派でしたよ。
ただ、狛犬が少しキツネっぽいというか?
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そして↓社紋が揚羽蝶でした。
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京を追われた平家が福原京に陣を布き、一の谷の要害を固めるため西国から
武士を徴集したなかに「小鴨介基康、村尾海六、日野郡司義行」らの名が
見えるため、そのとき平家の紋を戴いたのかもしれません。
 
小鴨は正しくは「おかも」で、伯耆国久米郡に起こったそうです。
伯耆の古代氏族の流れを汲むと推測されているものの、
その本姓は明らかになっていないとか。
 
ただ、私は、1331年頃小鴨城に拠っていた小鴨氏が当地を支配する前に
どんな氏族が住んで何を産出していたかの方が気になります。
最大の手かがりは地名ということになりますが、広瀬川と岩倉川の合流点の
「大宮」となると、差し詰め瀬織津姫ということになろうか…
と妄想をたくましくしています。
 
結局なにもわからないまま倉吉駅へ戻ることに。
途中、八幡町の八幡神社に立ち寄りました。
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このときの扁額は「八幡宮」、のちに鳥居が新調されて
「倉吉八幡宮」になっています。
 
石段をのぼると、各段ごとに幾つもの祠がありました。
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左上の石垣にも興味をひかれました。↓あまり見かけないカラフルさ!?
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最下段の「里宮」も気になりましたが、案内板が見つかりませんでした。
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地図をみると、奥の御神体山に清熊稲荷大神なるものが
鎮座しているようですが? その遥拝所でしょうか?
 
その時々の為政者の都合で変わる社名や祭神…
そんなものより神社は社叢!!
だからこそ古代歌謡の舞台をもとめて歩ける。
そう再認識できた倉吉でした。