藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

下総国の縄文

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このごろ新しい神社に食傷気味の私。
縄文の空気に触れたくなって、突然、縄文晩期(紀元前2500~300)の立木貝塚へ向かいました。
立木貝塚は立木台の下に広河の砂州が堆積し、その砂丘上にヤマトシジミやマシジミがあらわれた主淡貝塚です。
およそ東西150m、南北50mの立木貝塚からは100を超える土偶をはじめ
土製耳飾・指輪・骨角器などが大量に出土しており、土偶は全国最多とも?
 
そして立木貝塚から2.5kmほど離れた同じ利根町花輪台貝塚からは
「花輪台のヴィーナス」の愛称で知られる縄文早期の日本最古とされる
ヴァイオリン型土偶が昭和21年に出土しているのです!
 
当時の考古学会は「縄文早期は原始的で装飾品はなく、土偶も存在しない」との
考えが主流で、花輪台貝塚から骨格牙器や猪牙製決状耳飾、貝塚有孔装飾品の他
13点もの土偶が出土したことに驚きを隠せなかったようです。
 
「花輪台のヴィーナス」は2009年にロンドン(大英博物館)で展示されました。
"Early dogu from Hanawadai Initial Jomon, 8000-5000BC"
一目会いたいと思い、利根町役場に電話したら「何それ? 知らないなぁ」という
返事だったので自分で検索したら、現在は「南山大学」に保管されているらしい。
 
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古くから知られていた立木貝塚の出土品は明治28年に学会で正式に紹介されました。
昭和3年~4年にかけて数度、伏見宮博英殿下(1912-1943)が考古学研究のために訪れ、「立木貝塚発掘記念」として御手植の松を残されたものの枯死。
海軍兵学校(第62期)に進まれた伏見宮殿下は1943年8月21日セレベス島南部ボネ湾上空で撃墜され戦死。
そんな立木貝塚の上に建つのが関東最古の神社と言われる蛟蝄(こうもう)神社
冒頭の図のように「蛟蝄神社門の宮」と「蛟蝄神社奥の宮」があります。
なぜか? もうおわかりですよね。
 
当社の由緒によれば
 約2,300年前、(第7代)孝霊天皇3年(紀元前288年)に、現在の門の宮の場所に水神 弥都波能売命(みつはのめのみこと)を祀ったのが始まりだそうです。
 そして(第42代)文武天皇2年(698)に土神の波邇夜須毘売命(はにやすひめのみこと)を合祀し、東の高台(現在の奥の宮)遷座しました。
 この時、門の宮は取り壊される予定でしたが、氏子らの強い要望で祭神を分祀し、門の宮として残されました。
 
実にわかりやすいですね。
698年にヤマト王権に屈伏または服従させられ、渡来の神を被せた「奥の宮」を
作られた結果、905年に編纂が開始された『延喜式神名帳』に載ったわけです。
まつろわなかった神社は式外社にされたとも言われています。
 
さて、蛟蝄神社は現 茨城県にありますが、かつては下総国に属していました。
延喜式神名帳』下總國十一座 大一座 小十座にその名が見えます。
 
         香取郡一座 大=香取ノ神宮 (名神大)
         千葉郡二座 小=寒川ノ神社&蘓賀比咩ノ神社
         匝瑳郡一座 小=老尾ノ神社
         印播郡一座 小=麻賀多ノ神社
         結城郡二座 小=高椅ノ神社&健田ノ神社
         岡田郡一座 小=桑原ノ神社
         葛餝郡二座 小=茂侶ノ神社&意冨比ノ神社
         相馬郡一座 小=蛟蝄(ミツチ)ノ神社
 
私はなぜか過去2回、日没後に訪問しているんですよね…(今日が3度目)。
唯一、日のあるうちに着いた時には「奥の宮」は社殿建て替え中でした。
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あ、完成してますね!
新しく宮司さんが常駐されるようになり、かなり整備されたとのことです。
ここから門の宮へ行く裏参道の雰囲気がトトロの森っぽくて良いのです…
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あれ?! 樹がない!! それに↑下にビッシリ敷かれているのは何?
帰って調べたら、2016年~南側の樹木が大々的に伐採されてゆき、
崖下の空き地にソーラーパネルが大量に設置されたのだそうです。
道路の南(パネル)側は業者が所有しており、北側も現所有者の了解を得られたら
樹木の伐採を行なうとのことで、旧暦9月14日の夜に行なわれる秋の例大祭での
「奥の宮~門の宮への還幸」はどうなってしまうのでしょうか。
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環境保全地域」って書かれてますけど?
 
ここの手つかずの社叢が好きで私には珍しく4回目の訪問だったのですが…。
当社にはいろいろと謎があるんですよね。
19時を過ぎてしまい、ちゃんと撮れなかった門の宮の御神木。
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明治新政府による神仏分離令により門の宮にあった神宮寺が取り壊され、
この公孫樹だけが残ったそうです。
ところが「神社に公孫樹があるのは縁起が悪い」と言う人が居て切り倒すことに
なりました。それで切り始めると公孫樹の幹から赤い血が流れ出したといいます。
皆が驚いて中止したため蛟蝄神社の御神木は「異例」の公孫樹になったとのこと。
 
いやはや…日本各地でイチョウを御神木とする神社をたくさん見てきたので、
どこが「異例」なのか、さっぱりわかりません。
 
茨城県水戸藩の寺社改革の影響なのか、奇妙なことが多いようです。
↓こちらは以前行った団子塚!?
 
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今日も撮ってみました。舟形山を切り崩して建てた龍ヶ崎南高校↑。
 
こちらは布川神社の社叢を割譲して建てられたと思しき↓旧 布川小学校。
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奥に見えるのが布川神社の社叢で、布川小学校は既に統合され移転しています。
自然も文化財もいったん破壊したら元には戻りませんよね…。
 
布川神社は台地に鎮座しています。
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ここから300m余り左にある来見寺までを布川貝塚命名したそうです。
(非常に珍しいことに、縄文人の人骨がほぼ完全なかたちで出土したとか)
 
かつてはすぐ近くに利根川の船着き場があったのでしょう。
「文化十二年乙亥正月」に「江戸 小網町 布川屋庄左衛門」さんが奉納した
手水鉢が置かれていました。
布川屋さんは日本橋小網町三丁目なので私共のマンションのすぐ近くです。
そう言えば私には甘過ぎる人形町玉ひで」の親子丼は職人さんや人足さんが
手早く食べられるように考案されたと聞いたことがありますが、
そういう町に船積問屋の布川屋さんがあったわけですね。
その布川屋さんの積場所の一つが下総布川でした(布川の出身だったのかなぁ?)
 
↑階段の左手をバイクで上がって行ったものの布川神社への入口がわからず
迷っていたら犬の散歩をしていた2人の女性が声をかけて下さいました。
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親切に御案内くださったお蔭で、社殿横にバイクをつけられました。
もふもふのワンちゃんも吠えたりせず、私の手に鼻をこすりつけていました。
…という次第で、本日の聴衆は3名様でした(お願いしてもお帰り頂けなかったので…)
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そこここに石祠が祀られた布川神社の社叢…、実に惜しいですね。
この画像左手に平成20年以降使う人のない校庭が広がっています。