藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

やまとうたのふるさと(椿)

「やまとうたのふるさと」今回のテーマは椿です。
イメージ 4
久御山雙栗神社に、数百本の椿の木があるというので行ってみました。
イメージ 1
想像以上に素晴らしい、心落ち着く空間でした。
元は極彩色だったかも知れない社殿は国の重要文化財
イメージ 5
社殿の真後ろには、樹齢はさほどでもないのに
これが御神体かも…と感じさせるような御神木!
このクスノキは「京都の自然二百選」に選ばれているそうです。
イメージ 6
ただし場違いな祠の中に陶器の白キツネが山ほど入っていて
またしても偶像崇拝か…と目をそむけました。
こうした街中に鎮守の森が残っていることが素晴らしいわけで
人工的建造物を置くなら社叢とのバランスを考えて頂きたいですね…。
イメージ 7
これは珍しいピンク!? 乙女椿でしょうか?
イメージ 8
 
『特選神名牒』(1876)
雙栗神社の根元を宇治田原の社に充て、
そこから佐山へ分神勧請された社が延喜式神名帳に登載されたのであろう」
と推定し、『式内社調査報告』には
「往古宇治田原より勧請されて成立した雙栗社は、
中世以降石清水八幡宮の影響をうけて椏本八幡宮という異称を生じ、
祭神も加増されて祀られるようになったものとみられる」とあります。
 
いずれも当社を宇治田原からの勧請だろうとしている
ということで、宇治田原の雙栗天神社へ向かいました。
イメージ 2
こちらは真っ白なツバキです。
↓八重咲きのシロハゴロモでしょうか?
イメージ 3
 
社伝にこうあります。
宣化天皇3年(538)9月7日、山城国東県綴喜郡雙栗田原郷の大岩山の頂に
瑞祥があって、霊神が岩上に降り、座して光明を放たれたと伝えられています。
その時当郷の住人、雙栗忌寸宿祢、和邇部茨彦がこの瑞祥を見て、
その大岩の下に宮柱を建て、斎き祀ったといわれ、
ここから岩本の地名も起こったとされています。
現在も、雙栗天神社の背後の山(大岩獄という)を200m程登った処に
7-8mほどもある大岩石が在り、岩の下に一祠が祀られており、
これが奥の院と称されています。
 
イメージ 9
ここが奥の院への入り口ですね。
振り向くと本殿と磐境?!
イメージ 17
住所が宇治田原町大字岩山だけあって、山にへばりつくように展開されてます。
イメージ 10
何となく古社らしくないなぁ…と思ったら
平治の乱(1159)により荒木村および岩山など悉く焼失。
桃園天皇宝暦11年(1761)2月4日、村内より出火し、社殿、古記録一切を焼失。
孝明天皇嘉永元年(1848)4月4日、社殿焼失。
という歴史があったようです。
イメージ 11
拝殿に向かって右が、さっき撮った白ツバキです。
さあ、どんな和歌が詠めるでしょうか?
 
明日はハードな一人旅なので、取り敢えず宇治田原から宇治へ戻ります。
イメージ 12
世界遺産になったからか、17時には施錠されるとのことで
ゆっくり拝観できませんでした。
イメージ 18
 
あとは、12/9に行った東かがわ市水主神社と同名の水主神社(城陽市)です。
木津川沿いの古墳っぽいですよね…?
イメージ 13
右の「樺井月神」が合祀されているようですが、
延喜式神名帳に『山城国綴喜郡 樺井月神 大 月次新嘗』とある式内社
同じく式内社水主神社境内社になるというのは珍しいと思うのですが?
かつて、ここ水主と樺井月神の旧社地・樺井との間には“樺井の渡し”があり、
木津川両岸を守る“日神・月神”だったゆえ遷座してきたのでは? とも言われます。
岸辺を守る神社は常に洪水の危険に曝されており、熊野本宮の例でもわかるように
社殿が流されるなどの被害によって遷座することは珍しくありません。
由緒がありました。
「祭神は月読命延喜式神名帳山城国綴喜郡 樺井月神とある式内社で、
文武天皇大宝元年(701)に神稲を賜り、清和天皇貞観元年(859)従五位上
叙せられた。元は木津川をはさんだ対岸の綴喜郡樺井に鎮座していたが、
度重なる木津川の氾濫により寛文12年(1672)に当水主神社の境内に遷座した」
イメージ 14
外観はふつうの神社のようでしたが、拝殿の隙間から本殿を撮ってビックリ!?
イメージ 15
これは大変な古社ですね…。
イメージ 19
人の手が入っていない椿も素晴らしい…。
 
けれど近づいて見ることができません。中へ入れないのです。
イメージ 16
ぐるっと一周してみましたが、金網が張り巡らされていました!?
はたして正式参拝というものが出来るのかどうか調べてみないといけませんね。
 
      2019年10月23日 京都府埋蔵文化財調査研究センターが
      京都府城陽市寺田大畔(おむろ)水主(みぬし)神社東遺跡
      縄文時代晩期(約3000年前)の自然流路の水辺に設けられた木組み遺構や
      木道などが見つかったと発表。