「やまとうたのふるさと」今回のテーマは椿です。
久御山の雙栗神社に、数百本の椿の木があるというので行ってみました。
想像以上に素晴らしい、心落ち着く空間でした。
元は極彩色だったかも知れない社殿は国の重要文化財。
社殿の真後ろには、樹齢はさほどでもないのに
これが御神体かも…と感じさせるような御神木!
このクスノキは「京都の自然二百選」に選ばれているそうです。
ただし場違いな祠の中に陶器の白キツネが山ほど入っていて
またしても偶像崇拝か…と目をそむけました。
こうした街中に鎮守の森が残っていることが素晴らしいわけで
人工的建造物を置くなら社叢とのバランスを考えて頂きたいですね…。
これは珍しいピンク!? 乙女椿でしょうか?
『特選神名牒』(1876)は
「雙栗神社の根元を宇治田原の社に充て、
「雙栗神社の根元を宇治田原の社に充て、
祭神も加増されて祀られるようになったものとみられる」とあります。
いずれも当社を宇治田原からの勧請だろうとしている
ということで、宇治田原の雙栗天神社へ向かいました。
こちらは真っ白なツバキです。
↓八重咲きのシロハゴロモでしょうか?
社伝にこうあります。
瑞祥があって、霊神が岩上に降り、座して光明を放たれたと伝えられています。
その時当郷の住人、雙栗忌寸宿祢、和邇部茨彦がこの瑞祥を見て、
その大岩の下に宮柱を建て、斎き祀ったといわれ、
ここから岩本の地名も起こったとされています。
現在も、雙栗天神社の背後の山(大岩獄という)を200m程登った処に
7-8mほどもある大岩石が在り、岩の下に一祠が祀られており、
これが奥の院と称されています。
ここが奥の院への入り口ですね。
振り向くと本殿と磐境?!
住所が宇治田原町大字岩山だけあって、山にへばりつくように展開されてます。
何となく古社らしくないなぁ…と思ったら
平治の乱(1159)により荒木村および岩山など悉く焼失。
桃園天皇宝暦11年(1761)2月4日、村内より出火し、社殿、古記録一切を焼失。
という歴史があったようです。
拝殿に向かって右が、さっき撮った白ツバキです。
さあ、どんな和歌が詠めるでしょうか?
明日はハードな一人旅なので、取り敢えず宇治田原から宇治へ戻ります。
世界遺産になったからか、17時には施錠されるとのことで
ゆっくり拝観できませんでした。
木津川沿いの古墳っぽいですよね…?
右の「樺井月神社」が合祀されているようですが、
かつて、ここ水主と樺井月神社の旧社地・樺井との間には“樺井の渡し”があり、
岸辺を守る神社は常に洪水の危険に曝されており、熊野本宮の例でもわかるように
社殿が流されるなどの被害によって遷座することは珍しくありません。
由緒がありました。
叙せられた。元は木津川をはさんだ対岸の綴喜郡樺井に鎮座していたが、
度重なる木津川の氾濫により寛文12年(1672)に当水主神社の境内に遷座した」
外観はふつうの神社のようでしたが、拝殿の隙間から本殿を撮ってビックリ!?
これは大変な古社ですね…。
人の手が入っていない椿も素晴らしい…。
けれど近づいて見ることができません。中へ入れないのです。
ぐるっと一周してみましたが、金網が張り巡らされていました!?
はたして正式参拝というものが出来るのかどうか調べてみないといけませんね。
縄文時代晩期(約3000年前)の自然流路の水辺に設けられた木組み遺構や
木道などが見つかったと発表。