藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

尾張・熱田

こんにちは! 今日も暑いですね~。
午前中に熱田神宮および元宮などをまわってきました。
熱田神宮は巨大でした。なのに、なぜ尾張三ノ宮?と不思議がられています。
そこで、その謎に挑戦。先ず抑えたいのは尾張氏権宮司という点。
 
宮司職は代々尾張国造の子孫である尾張氏が務めていたが、
平安時代後期に尾張員職の外孫で藤原南家藤原季範にその職が譲られた。
以降は子孫の藤原氏・千秋氏が大宮司尾張氏権宮司を務める。
(Wikipedia より)
 
しかも、様々な場所から重要な祭神を集めて組織された集合体のようなのです。
元宮の一つ氷上姉子神社尾張国造乎止与命の本拠地だった火上山にありました。
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仲哀天皇の御代(195年)乎止与の娘 宮簀媛を祭神として創祀され、
持統天皇の御代(690年)に麓の現在地↓に遷座したそうです。
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熱田神宮の創祀に
景行天皇の御代に、日本武尊は神剣を今の名古屋市緑区大高町
火上山に留め置かれたまま三重県亀山市能褒野(のぼの)でなくなられました。
尊のお妃である宮簀媛命は、神剣をここ熱田の地にお祀りになられました
とあることから元宮とされる氷上姉子神社
 
ただし熱田神宮の祭神は「熱田神」で、
公式ページにこうあります。
ご祭神の熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣を
御霊代(みたましろ)としてよらせられる天照大神のことです
 
すると「熱田神」と乎止与命に始まる尾張氏との関係は?
 
文献で「熱田神」が確認できるのは822年の『日本紀略』からだそうです。
もし「景行天皇の御代」から存在し、その後に遷座していないのなら
なぜ一ノ宮にならなかったのでしょう? 比類なき古社のはずですが?
 
伊吹山で白い神猪に敗れて能褒野で亡くなった日本武尊の像が
たしか伊吹山山頂にありましたね。
ここ尾張氏の火上山に大切な剣を置いて行ったとは!?
(↑日本武尊の神話は「壬申の乱」絡みだと受取っていますが?)
 
…話を戻しましょう。
尾張国造乎止与命を祭神とする熱田神宮境内末社上知我麻(かみちかま)神社
その妻マシキトベを祭神とするのが同下知我麻(しもちかま)神社で、尾張の豪族
尾張大印岐(おはりのおほいみき)の娘マシキトベは健稲種命と宮簀媛の母とのこと。
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この元宮が星宮社(扁額は「星崎宮」ですね)にあるらしいので行ってみることに。
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写真を撮っていて奥の「上下 知我麻神社参道」の小さな看板を見つけました。
階段を上ってゆくと、小さな祠が並んでいます。
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まさに人知れず(社名の扁額も掲げず?)ひっそりと鎮座していました。
祭神は熱田神宮と同じく、上知我麻神社尾張国造乎止与命、
下知我麻神社がその妻「真敷刀俾(マシキトベ)命」。
トベとは、ナグサトベ・ニシキトベら神武東征以前の縄文の女酋長の名ですが?
 
さて、熱田神宮明治22年(1889)伊勢神宮と同じ神明造による社殿の造営を
計画し、社格を離脱して伊勢神宮と同格にする旨の勅令案を提出したものの
伊勢神宮などの反対により否決されたそうです。…で、社殿のみお伊勢さん風!?
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↓別宮「八剣宮
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三ノ宮の謎については、もう少し調査が必要ですね。
帰途、名古屋からではなく、豊橋から新幹線に乗ることにして
小坂井駅近くの菟足神社へ行きました。
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わが故郷に「鵜足明神」があり、古代は漢字より発音重視なので興味を持ちました。
由緒を読むと、徐福伝説との関わりとか、秦氏が創祀したとか書かれているため
宇多津(鵜足津)との関係はわかりませんが、社地や周辺からは縄文時代早期から
晩期にかけての土器が出土しており、「菟足神社貝塚」の案内板もありました。
祭神 菟上足尼命は穂(東三河)の国造だったそうです。
 
最後に菟足神社の神楽殿
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帰宅後、「ウタリ」のことを調べていたら、私と同じく讃岐の「鵜足」と
菟足神社のつながりに着目している方がかなり居られました。
この件は追々調べますが、驚いたのは熱田神宮の祭神というか御神宝たる
草薙神剣が当社にあったとの説です?!
たしかに当社の遷座天武天皇の病気の時期は合致していますが?
 
宮内庁編『熱田神宮』に、「熱田大神鎮座記」に天武天皇の病気が草薙神剣の
祟りであったため朱鳥元年(686) 6月に草薙剣を返却し、大宮や別宮諸神社を
造営して12月に新宮に遷宮の儀を行なった記録があると書かれています。
しかし天武天皇は朱鳥元年9月9日(686年10月1日)崩御
 
別宮八剣宮創建の勅命を発したのは元明天皇で、
天武天皇崩御日を期して和銅元年(708) 9月9日に出されたそうです。
 
『伊勢二所太神宮神名秘書』によれば、熱田社の草薙神剣は
天智天皇7年(668)新羅の僧に盗まれ、再び戻ってきたことから、
新たに七本のレプリカを作って八剣宮となしたとか。
 
資料によってデータの相違が見られますが、病が草薙神剣の祟りであると言われた
天武天皇熱田神宮に剣を返却したとされる朱鳥元年(686)
草薙神剣があったという菟足神社が秦石勝により現在地に遷されています。
祭神の菟上足尼命は、
孝元天皇の裔 葛城襲津彦四世の孫にあたり、雄略天皇の御世に
穂の国(現在の東三河地方)の国造に任ぜられたとあります。
「三川穂国造」は記紀には出ておらず、『先代旧事本紀』の国造本紀に
三河地方は古くは「三河」と「穂」の国に分かれていたと書かれているだけです。
 
そもそも神話から歴史を紐解こうとすることが間違っているのかもしれません。
ですが、古代の歌も(私のような研究者は)記紀歌謡に頼るところ大ですので。