藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

五條→葛城山→飛鳥

珍しく"行き当たりばったり"の旅。
ちょうどこの旅の4年後の今日(2020年3月18日)、画像を追加しました。
 
一社目は、読めない落杣神社
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大和二見駅からタクシーで丹生川沿いをまわるプランです。
落杣神社の東参道中腹には古墳時代後期の黒駒古墳がありました。
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住所の「五條市黒駒町」も「くろま町」と発音するんでしょうね。
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う~む、ちょっと読めません。
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今度は読めましたよ。右は御霊神社じゃありませんか!?
五條市ではやたら目につく御霊神社ですが、当社の場合、
真東に「他戸親王墓」、その南に「井上内親王宇智陵」がありました!!
(淡路島でも淡路廃帝たる「淳仁天皇淡路陵」の南にその母 当麻山背の「大夫人山背 淡路墓」がありました。
淡路廃帝の墓が「山稜」、当麻夫人の墓が「御墓」になったのは宝亀9年(778)3月、光仁天皇の御代でした)
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由緒を読んでもよくわからないのですけれど、落杣神社の祭神は大山祇命
すると、「越智」と「落」が掛詞で、黒駒古墳を築いた先住民たる
「杣」人を討ち果たして古墳の上に落杣神社を建てたことになりませんか?
(↑いつもの妄想?!)
いずれにせよ落杣神社延喜式内社で、御霊神社は嘉禎4年(1238)に霊安寺の
御霊神社本社から分祀されています。以後、主祭神大山祇命から井上内親王に。
五條市御霊神社主祭神は井上(いがみ or いのへ)内親王の場合が多いようです。
 
聖武天皇の第一皇女 井上内親王は、宝亀3年(772)光仁天皇を呪詛したとして
皇后を廃され、他戸(おさべ)親王も母に連座する形で皇太子を廃されました。
翌年には光仁天皇の同母姉 難波内親王井上内親王が呪い殺したとの嫌疑で
他戸親王は母と共に大和国宇智郡(現五條市)に幽閉され、宝亀6年(775)に服毒死。
ともに急死したことで毒殺説が有力だそうです。
(そりゃあ天武系から天智系に皇統が遷った最初の光仁天皇の皇后が聖武天皇の皇女というのはまずい
との考えから、第一皇子たる後の桓武天皇やその生母で百済系渡来人の高野新笠を推す勢力があっても
不思議ではありません。藤原氏などの勢力争いとも絡んで藤原百川桓武天皇を擁立したとの説も…)
 
これは…最初からエライところへ来てしまいました。
 
次は同じく式内社火雷(ほのいかづち)神社
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落杣神社から吉野川沿いに東へ進み、丹生川と吉野川がY字を成す手前に鎮座。
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金属製の扁額でしょうか?
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振り向くと、車では入れない狭い参道。
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ん? 小ぢんまりとした社殿を囲む鬼瓦が豊川稲荷系の神紋ですか?!
現状は「火雷稲荷神社」なのかもしれません。
 
式内社なのに(だから?)、わからないことだらけ。
「次は丹生川沿いの式内社丹生川神社へ行ってください」
と運転手さんに伝えると顔色が変わりました。
「そこはうちの氏神だから入られたくないんだよね」
と言い放たれましたが、
「丹生神社は水銀に関わる人々が奉斎して、その地で丹生が採れなくなると
場所を移動して、また丹生大神を祀ったときいています。それで丹生川沿いの
丹生地名をもつ神社の実態を見て歩いているのですが、写真2-3枚撮るのも
いけませんか?」と訊くと黙って社頭に停めてくれました。
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ちょうど電気屋さんが点検にいらしてました。
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本殿は驚くほど小さな祠でした。
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道幅も狭く、長く待機して頂けないので30秒ほどでタクシーに戻りましたが、
鬼瓦がこれまで八幡神社で見てきた2羽の鳩による「八」の字でした。
式内社丹生川神社の祭神は罔象女神(ミツハノメ)でしたが?
 
この先、丹生川沿いに「西吉野町賀名生」まで行き、南朝の皇居跡を見て
大日川とのT字路に鎮座する丹生神社まで行くつもりでしたが、急遽変更し
五條駅へ向かって貰いました。タクシーを乗り換えるためです。
 
五條駅からは葛城山ロープウェイを目指します。
北上し始めると、すぐに「岡町」の信号の右手に神社が。
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車を下りて見たら、またしても御霊神社でした!!
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丹生川沿いの神社とは規模が違いますね。
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本殿は色褪せてましたが、元々は鮮やかな丹の色だったのでしょう。
 
せっかく葛城に向かっているんだったら空海ゆかりの菩提寺
行ってみようと思い立ち、御所市鴨神から左折して伏見へ。
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菩提寺の手前に八幡神社がありました。
何と「小野郷」と書いてありますよ!?
小野ならワニ氏。ちょっと上がってみましょう。
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立派な社殿ですね~。
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八幡神社の右手に境内社が点在しています。
この中に「小野郷」本来の氏神があるのかもしれませんが、社名がわからず…。
 
隣の菩提寺にやってきました。
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由緒書がありますね。
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おおお…ここにも光仁天皇(709-782)の名が!?
行基(668-749)の父は高志氏で、高志氏は王仁(ワニ)の後裔とされる西文(かわちのあや)
の一族、百済系渡来氏族なのだそうです。母は河内国大鳥郡の蜂田首の出だとか。
光仁天皇の夫人の一人 高野新笠の父も百済系渡来氏族で『続日本紀』では
百済武寧王の子孫とされているため、行基と接点があったかもしれません。
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桜の名所とのことでしたが、早かったのか遅かったのか…
恐らく早かったのでしょう。けれど、雰囲気の良いお寺でした。
 
再び30号線に戻り、ひたすら北上。「櫛羅」の交差点を左折して
葛城山ロープウェイへの道をひた走っていたら、「葛城天剣神社」の石碑が!?
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新しそうだし、新興宗教かもしれないし…と逡巡しつつ
少しだけ脇道に入ると、招きネコちゃん? いやキツネだったかも?!
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つい、ふらふらと後について行ったら、新し目の人工建造物がありました。
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こんなところで寄り道してる場合じゃないわ!! と我に返り、
二度までも葛城山ロープウェイに乗れなかったことを思い出しました。
最初は駐車場までも辿り着けず、二度目はロープウェイが運休してました。
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まさに3度目の正直、恨みの葛城山ロープウェイです。
何と、行きも帰りも乗客は私一人でした。
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現在は山頂に鎮座する葛城天神社
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やっぱり行って良かった!! 眼前に大和三山が広がっています。
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右手が飛鳥。とわかった瞬間、飛鳥へ行こう! と決めました。
だいたい最初は長岡京へ行く予定だったのに、丹生川でつまづいて葛城へ行き、
さらに飛鳥をまわってから京都(嵐山)泊まりですか…。
 
たぶん30年ぶりくらいの飛鳥駅。
相変わらずタクシーは橿原神宮前駅から配車!?
駅周辺は一方通行ばかりでややこしい動きをしてしまいました。
先ずは許世都比古(こせつひこのみこと)神社
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巨勢氏の祖 武内宿禰の第五子「五郎(老)神」とも俗称される巨勢地方の産土神
 
この狭い道から飛鳥駅北を通って169号線へ出るためにクネクネと
走っていたら「岩屋山古墳」がありました。
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いちおう上がってみたら、なんとも明け透けな感じ…!?
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失礼しました。
 
飛鳥駅をグルっとまわって櫛玉命神社に到着。
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なぜ櫛玉命神社を目指したかというと、さっき行った葛城山の住所が
「櫛羅」で、「櫛玉=奇魂」と関係があったかも? との妄想から。
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妄想はさておき、ずいぶん品のある古社が残っていますね…。
 
もう一つの目的地は東大谷日女命神社でした。
同名の神社が橿原神宮の中にあったため。
運転手さんに「山田寺を目指して下さい」とお願いすると
「そちら方面なら、皇太神神社や弘計皇子神社へも行かれませんか?
いつも指名して下さる大学の先生たちに教えて頂いたんですよ」と仰います。
「それなら、むしろ前に行った飛鳥座神社を再訪したいのですけれど…」
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折口信夫博士ゆかりの飛鳥座神社ですが、ずいぶん印象が変わりました。
「むすひの神石」とは、いったい何なのでしょう?
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信州で見た古い「塞の神(道祖神)」のようでもありますが?
 
飛鳥座神社を走るように一周して山田寺へ。
山田寺蘇我倉山田石川麻呂の発願により7世紀半ばに着工され、
石川麻呂の自害(649)後に完成。死後も造営が続けられたのは石川麻呂の
孫にあたる持統天皇と夫の天武天皇の後援によると推測されています。
山田寺について語り始めたら止まらないので↓。
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地図を見ると、画像右手奥のこんもりが東大谷日女命神社のようです。
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てくてくてくてく…。見えているのに歩くと10分近くかかったような気がします。
V字に戻る形だからでしょうか?
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延喜式内社東大谷日女命神社です。祭神は東大谷日女命。
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山田寺からの道が参道のようになっているため、
古来、山田寺の鎮守として鎮座していたのではないかと…。
現在境内にある国指定重要文化財「東大谷日女命神社石造燈籠」は
元々山田寺の境内にあったものだそうです。
 
他方、橿原神宮東大谷日女命神社は、
江戸時代までは熊野権現と称し、伊弉册尊を祀っていたところ、
明治20年(1887)頃に突然、延喜式内社東大谷日女命神社
後裔を主張し、祭神を神功皇后へと変えたそうです。
そして明治35年(1902)、祭神を姫蹈鞴五十鈴姫命としています。
 
これでスッキリしました。
橿原神宮には祭神を姫蹈鞴五十鈴姫命に変えなくてはならない理由があったのです。
 
橿原神宮明治23年(1890)4月2日に官幣大社として創建されました。
記紀における初代天皇たる神武天皇と皇后 媛蹈鞴五十鈴媛命を祀るため、
神話で神武天皇畝傍橿原宮があったとされるこの地に橿原神宮を創建して
国民に"神の国=日本"を印象づけ、刷り込もうとしたのでしょう。
その"しかけ"として、式内社東大谷日女命神社から直線で僅か3.9kmの距離に
同名の東大谷日女命神社を誕生させたのではないでしょうか。
 
幸い 3/18は夕方まで天気が崩れず、数ヶ所で演奏修行できました!
3/19は雨90%の予報なのでどうなりますやら。ではお昼集合ということで。
 
あ、「次は京都…」のアナウンスです。長い一日でした。